激しい耳鳴りに襲われていた。どんなに耳を塞いでもどんなに声を上げようともそれは俺の脳に住み着いた悪魔が如く俺の中で叫び続ける。

 悲痛な叫びだ。まるで彼奴を失った俺に同情して代わりに泣いてるかの様にさえ思える。巫山戯んな。俺を哀れむんじゃねぇ。

 女ひとり失った程度で何を嘆くって云うんだ。莫迦莫迦しい。だからさっさと居なくなれよ。そろそろ俺は、限界なんだ。



果の無い先へと伸びていた





 いつものバーに来ていた。ここ最近では定番と成りつつある強めの酒とむしゃくしゃしていた時だけに吸っていた煙草がワンセットで俺の目の前にある。隣には、誰もいない。

 当たり前の事に手の中の酒を飲み干す。濡れた口元を乱暴に拭って「おかわり」とマスターへ空のグラスを差し出す。

 マスターは何か云いたそうに一瞬動きを止め、それでも「判りました」と俺の手の中のグラスを受け取った。

 煙草を一本取り出し火を付ける。着火音と共に息を吸い込めば紙が燃えるジリジリとした音が俺の耳に聞こえた。悪魔の叫びはまだ続いている。

 吸い込んだ息を一思いに吐き出して天を仰ぐ。勢いよく舞い上がった白い煙が次第に進路に困ったかの様に散り散りに分散し、そして消える。

 まるで俺達の様だ。何年も相棒を務め共に駆け抜けた日々。だが今じゃ俺達は背を向けあれ程一緒だった時間はパタリと消えた。

 判ってたはずだ。彼女が探偵社に行くという事はマフィアの俺とは敵同士になる。それでも失った奴への想いを何年も抱えて苦しんでいたナマエに掛ける言葉を俺は見付けてやれなかった。だから背中を押した。「彼奴の元へ行け」と。

 限界だった。何よりそんな彼女を見ている事しか出来ない自分が。傍に居れれば満足?そんな訳ねぇだろ。何時だってナマエはあの男を探してた。裏切られたって捨てられたって求めずには居られなかったんだ。俺が傍にいるって云うのに。

「なーにやってんのよ」

 隣からそんな既に懐かしささえ感じる声が聞こえて、俺は闇雲に天井を見詰めていた目を見開いた。ゆっくりと顔を声の方へ向ければ思考の中の彼奴がいた。

 頬丈を着いて呆れた様に溜め息を吐いている。呆然とする俺にナマエは「全く、」と呟いて酒を口にする。それはいつかの彼女と変わらない言動で、如何して此処に、なんて疑問よりも先に俺は衝動に駆られていた。悪魔の叫びはもう、聞こえなかった。

 ああ、そうだよ。認めてやる。彼女を失って後悔した。腹が立って泣き出したくて、こんな思いをする位なら抱き締めて好きだと傍にいろと叫べば良かった。

「ナマエ、俺は」

 彼女の名前を呼んで手を伸ばした。瞬きだって忘れた。何時もなら呆れ顔をするナマエに「煩え」と悪態ついていたのに、それさえも出来ずに俺は唯吐き出した煙と共には俺の身体から出て行ってくれなかった言葉を紡ごうとしていた。

 俺の中の悪魔は屹度、そんな俺の言葉達に苦しめられていたのだろう。莫迦だよな、俺も手前も。たった一人の女が忘れられねぇなんて。

 それでもそんな感情に苛まれるのは俺がナマエをそれだけ愛していた証拠だ。判ってんだよそんな事は。だが何でもない振りをしなければ堪えられなかった。唯、それだけの事だったんだ。

「・・中也さん」

 不意にマスターが俺の名を呼んでハッとした。半ば放心状態のままマスターを見ればそいつは静かに首を横へと振った。

「その子はナマエさんでは有りませんよ」

 マスターの言葉に驚いて隣の女を見る。そこには見た事もない、彼女と似ても似つかない女がいた。

「クソ・・っ」

 状況を理解した俺は座っていたカウンター席のテーブルに拳を当てた。その衝撃にグラスが一瞬浮いて着地の際に激しい音を響かせる。それに驚いて隣の女は逃げる様に俺から離れた。そんな女に目もくれず俺は愛用の帽子を深く押し込んで俯いた。涙が出そうだった。

「・・や、・・中也」

 今度は幻聴だ。全く厭になる。俺はどれだけ彼奴が好きだったんだ。何時から彼奴はこんなにも俺を侵食して何時から俺はこんなにも依存していたんだ。

「中也、ねぇってば」

 止めろ、止めてくれ。こんな思いをする位ならいっそ、殺してくれよ・・!

「もう!起きろー!」

 ぱちーん!と云う激しくも乾いた音。ピリピリと痛む頬に俺は目を覚ました。そして薄目を開いて見えた光景に俺は焦る。目の前にはフライパンを俺に向かって今にも振り下ろそうとしている一人の女が居たからだ。

 否待て、確かに殺してくれと思ったが待て!俺は命の危機に状況の整理まで頭が回らなかった。

「お、起きた!だから待て!」
「ん?あ、本当だ」

 俺の言葉にそいつは「やっとか」なんて溜め息を吐いて上半身を起こした俺の横へと座った。

「なんかうなされてたよ」

 怖い夢でも見た訳?とクスクス笑うナマエの言葉に、夢だったのかと理解した。そう思ったら安堵した。だが夢の中の絶望感が消えた訳じゃなかった。

 俺は茶化すそいつを無視して咄嗟に抱き寄せた。突然の俺の行動に驚いて「どうしたの」なんて云う彼女の肩に顔を埋める。

 何てくだらなくて莫迦らしくて恐ろしい夢だったのだろう。あの夢は屹度起こり得なかった事じゃない。一歩道を間違えて居たらあの夢が現実となっていただろう。そう思ったからこそ俺は今ナマエを抱き締めずには居られなかった。

「そんなに怖い夢だったの?」

 そんな俺の背にナマエは手を回してそっと撫でた。それに僅かに肩の力が抜けた。此方が現実なのだと彼女が教えてくれている気がしたからだ。

「・・ああ、手前を失う夢だった」
「本当、莫迦ね」

 ナマエの言葉に俺は自分の云った言葉に少し後悔した。小さい餓鬼じゃあるまいし何を云ってんだ俺は。

「私は何処にも行かないよ」

 だがナマエは俺の頬を包んで、そう云って笑った。夢の中と同じ様にまた泣きそうになった。でも今度は胸を引き裂かれそうになったが故のモノじゃない。

 彼女が愛おしくてこの優しい現実が嬉しくて泣きそうになったんだ。

「ああ、知ってる・・っ」
「なら良かった」

 閉じた瞳に幸せな口付けが降って来た。










Twitterのお題企画より。
長編其れ愛の番外編