部屋の襖を開け放ち、ナマエが「わぁ」と声を漏らした。二人で泊まるには広過ぎる程のその和を思わせる落ち着いた光景に自然と胸が高まった様子のナマエに背後でフッと笑う。

 ナマエはそのまま一直線に部屋の最奥にある窓辺と足を運んだ。荷物をその辺に置き去りにして倒れた際に中身が床へ散らばったのも気にもとめずに足早に進んで行く。

 俺も後を追う様に部屋へと足を踏み入れた。瞬間鼻を掠める畳の匂い。だがそれもナマエが窓を開け放った事に依り瞬時に透き通る様な爽やかな香りへと変わった。

「中也!凄い!川!」
「落ちんじゃねぇぞ」

 開放された窓から此れ見よがしに身体を乗り出して外の景色を眺めるナマエにそう云いながら隣へと並んだ。

「落ちても疾風が居るから平気」
「確かにな。だが俺の肝が冷えるから止めろ」
「はいはい」

 ナマエのそんな軽い返事に溜め息を吐きたい気になるも、心底嬉しそうに景色を見つめる横顔に掻き消された。

 横浜から車で数時間。お互い仕事の都合上長期の休みは中々取れず一泊二日と云う短い旅行に出向いていた。限られた時間の為何処へ行くかと云う議論は論ずるまでも無く温泉と云う事になり今に至る。

 と有る有名な旅館の最上階。部屋から見る景色が綺麗だと評判の部屋を借りて良かったとナマエの顔を見て思う。

 まるで手入れされ計算され人工的に作り上げられたかの様な緑のコントラスト。その下に流れる無色透明な川の水のせせらぎ音。それはシンプルながらも既に芸術に近い。

「綺麗、」
「・・そうだな」

 俺は窓枠に腰掛けそう漏らすナマエを見上げてそう呟いた。風野郎では無い風がナマエの髪を撫でている。感動に頬を紅葉させ目を細めるナマエに俺は目を細めた。

 何時だって俺の目には此奴しか映らない。もう既に遠い過去となったあの日から。思えば何もかもが変わった。状況も環境も気持ちも凡てだ。

 温かなこの気持ちを噛み締めた。諦めなくて死なせなくて手放さなくて本当に良かった。ナマエに初めて触れられた日にも思った事だが、幸せな気持ちになる度に俺はそう思う。

「中也?」
「あ?」

 少しぼけっとしていた様で、気付くとナマエが俺の顔を覗き込んで首を傾げていた。それに「何でもねぇよ」と云ってナマエの手を取った。最早当然だが俺は消えない。その事実に思わず口角が上がった。

「なに人の手触って若気てんのよ気持ち悪い」
「・・手前、それが好きな男に向ける言葉かよ」
「あらやだ、これが私の愛の形よ」

 そう云って態とらしく笑うナマエに「そうかよ」とそっぽ向く。だが直ぐに視線を戻して掴んでいたナマエの手を自身へと引き寄せた。

「わっ」

 途端に体勢の崩れるナマエ。直ぐ様腰に手を回して抱けばちょうど俺の脚の間にナマエがすっぽりと収まった。

「・・あぶないな、もう」

 俺の肩に手の平を置いて俺を見下ろしながら呟くナマエにフッと笑う。

「これが俺の愛の形だ」
「・・そーですか」

 俺の言葉に今度はナマエが眉間にシワを寄せてそっぽ向いた。その頬は紅く、照れているのは一目瞭然だった。

「あ、早く温泉行こ!温泉!」

 それを紛らわすかの様にナマエは思い出したと云わんばかりにそう声を上げる。まだ暫くこうして居たい俺はその提案に少しの不満を抱いた。

「もう行くのかよ」
「当たり前でしょ!何しに来たと思ってんのよ」

 ナマエの問いに唯静かに手前と過ごす為、何て内に秘めた言葉は流石に云えず、仕方無く俺はその腰を上げた。

「浴衣着なきゃ、さっき選んだやつ」

 まだ腕の中に収まっているナマエがそう云って瞳を輝かせる。

 此処に到着した際にフロントの横で柄物の浴衣の貸し出しをしていた。ナマエは好みの物を二つ手に取り「どっちが良いと思う?」と俺に問い掛けた。

 なんか前にもこんな事あったな、何て思いながらも今回はナマエをしっかりと見詰めて矢張りナマエの右手に持っていたものを指名した。

「早く着替えよ、」

 そう云って俺の腕からすり抜けて行くナマエの身体を背後から抱き締めた。

「・・行かない訳?」

 温泉、そう首だけ振り返って云うナマエの髪に頬を寄せる。「今行く」と云いながらも矢張りもう少し、もう少しだけこの静かな時間を味わいたくて俺はナマエの手を取りその甲に口付ける。

「もう、何なのよ」
「別に」

 唯噛み締めてるだけだ。こうしてナマエが隣にいて触れられる幸せを。

 そして俺達はその後別々の大浴場へと入り部屋にて夕食を楽しむ。先の事を気にして酒を程々にしていたらナマエに「珍しい」と驚かれてしまった。

 だがこの短い旅行のメインはこの後にある。食後の休憩を終え俺達は施設の中にあるゲーセンやら卓球やらダーツを楽しんだ。部屋に帰って来る頃には日付けが変わるか変わらないかの時刻だった。

 頃合いだな、と心で呟いて今し方下ろしたばかりの腰を上げ立ち上がる。それにナマエは首を傾げて俺を見上げた。

「風呂に行くぞ」
「お、いいねーさっきは大浴場だったから今度は露天風呂行こーっと」

 ナマエは俺の言葉にそう云って支度を始めた。俺はと云うと、ナマエの言葉に人知れず口角を上げた。ナマエの言葉は俺の予想通りだったからだ。

「じゃ、後でね」
「ああ」

 短い挨拶を終えてそれぞれ暖簾をくぐって行く。服を脱ぎタオルを腰に巻いて風呂への扉を開ける。俺は一通り湯を浴びてからゆっくりと湯舟に身体を沈めた。

「わー露天風呂、」

 背後から声が聞こえて振り返る。その声の主であるナマエは真っ先に目に入った俺の姿に口を詰むんで目を瞬かせていた。

「よう」
「よう・・って、はぁ!?」

 髪を上に束ねタオルを身体に巻いたナマエはそう云って背中を仰け反らせた。俺は風呂の縁にある段差に腰掛けて半身浴の様に状態になりながら固まったナマエに手招きした。

「さっさと来い。飲めねぇだろうが」
「飲むって、真逆」

 ゆっくりと近付きながらそう云うナマエに口角を上げる。そして用意させた酒をナマエの前に差し出した。それに目を見開くナマエもゆっくりと温泉に身体を沈めて行った。

「あんた此処貸し切った訳?」
「おう、当たり前だろ」

 俺の言葉にナマエは「何が当たり前なんだ」と小さく溜め息を吐く。

「まぁ良いけど」

 ナマエはそう云って身体にお湯を掛け空を仰ぐ。そのまま寝そべる様に仰向けになって「綺麗」と呟いた。

「っ、」

 だから俺はそんなナマエに横から覆い被さり口付けをした。肌に直接ナマエの手の平が触れて、その指に自分のそれを絡ませギュッ握った。

「いい眺めだ」
「・・っ莫迦」

 唇を離してそう云えばナマエは照れを隠す様にそう俺を睨み付ける。それにフッと笑ってナマエの手を掴んだまま二人で起き上がる。

「長い夜になりそうだ」
「その通りだね」

 俺がナマエの紅く染まった頬を撫でながらそう云った後に聞こえた声に俺もナマエも目を見開く。

「て、手前・・!」
「やぁやぁ!ご機嫌麗しゅう!」

 俺達に向かって悠々と歩いて来るその男に俺は思わずそう声を上げた。

「太宰さん!?」
「やぁナマエちゃん。タオル一枚のその姿、実に美しく私の胸が」
「なんで手前がいるんだよ!?」

 躊躇いもなくナマエの隣に座り気安く手を取ってそんな事を云う太宰に俺はナマエの肩を掴んで抱き寄せそう云った。

「なーに、折角の旅行なのだから大人数の方が楽しいと思ってね」
「はぁ!?なに云って、」

 相変わらず巫山戯た野郎だと殴り掛かりたくなったが俺はピタリと上げかけた拳を止めた。

「大人数、だと・・?」

 俺の言葉に太宰がニコッと態とらしい笑みを浮かべた。

「中々良い処だな」
「太宰さんが貸し切ってくれたそうですよ!僕温泉なんて初めてで、」

 再び背後から聞こえて来た新たな声に俺達は振り返り、そして其奴等と目が合って互いに動きを止めた。

「矢っ張り、こんな事だろうと思ったさ」
「嘘、」

 貸し切りにした筈なのに次々と現れる輩に俺は頭を抱えたくなる衝動に駆られた。其処には見事に探偵社の社員が揃っていたのだ。

「いいねぇ、温泉なんてどの位振りだろうね」
「ほう、これは又勢揃いじゃのう」
「ナマエー!」

 そしてその更に背後からは俺もナマエもよく見知った人物達が現れる。それに俺達は更に目を見開いた。

「首領!?」
「やぁ、久しいね。ナマエ君」

 終いにはポートマフィアの面々まで現れ、首領はナマエに悠々と手を振ったりなんかしていて俺は眩暈を起こしそうになった。そしてあっという間に露天風呂は宛ら異様な光景へと変貌した。

 ポートマフィアと探偵社が一つの風呂にそれぞれタオル一枚の状態で同じ風呂に入っている。敵とは云え顔見知りばかりの状況にまるで一つの団体かの様に入り乱れて各々寛いでいた。

「なにがどうなってやがる」
「私にもさっぱり」

 半ば放心状態の俺達を他所に酒を交わす輩とジャれてる輩とに俺達の思考は着いてはいけない。

「ナマエー!」
「わ!」

 そんな中でエリス嬢が飛沫を上げてナマエの首へと飛び付いた。ナマエへと頬を寄せるエリス嬢をナマエは戸惑いながら支えていた。

「ナマエに触れるって聞いたから来たのよ」
「エリス嬢」
「私も交ぜてくれるかのう」
「紅葉さん・・」

 ナマエにとってポートマフィアの連中とは随分久方振りだ。それこそ姐さんと組合の奴等と交戦した日以来だった。あの日を境にナマエは探偵社からポートマフィアに帰る事はなかったから。

 それでもそう云って貰えてナマエは目頭が熱くなったのだろう。エリス嬢を支える手が少し震えていた。

「あの、中也さん」

 女共に手を引かれて俺から離れて行ったナマエを見詰めていたら横から控え目に俺を呼ぶ声がした。

「手前は確か、敦か」

 俺の言葉に敦は「はい」とはにかんで頷いた。

「なんかすいません。邪魔しちゃったみたいで」
「・・別に、どうせ糞太宰が企てたんだろ」

 敦は乾いた笑いを浮かべながら「流石ですね」と俺の言葉にそう返した。

「いやぁ、いい光景だと思わないかい敦君。麗しき女性達が薄着で戯れている」

 私も是非ともあの中に混ざりたい、と隣でボヤく太宰に殺意さえ芽生えた。

「あ、あんまり見ちゃ駄目ですよ太宰さん!」
「どうしてだい?こんな機会は早々あるものではないよ?」
「・・おい敦、此奴に耳を貸すな。阿呆が移る」

 俺は溜め息を吐いて敦にそう忠告をした。それに敦は苦笑を漏らしていた。

「さぁて、私もむさ苦しくて脳筋な中也ではなくナマエちゃんと戯れをしよう!」
「あァ!?絶対駄目だ!あ、おい待て!糞太宰!!」
「ナマエちゃーん」

 すいすいと流れる様にナマエへと向かって行く太宰をバシャバシャと水飛沫を上げて慌てて追い掛ける。

「おっと、足が滑っ」
「滑ったなァ!おい!」
「ぐふ・・!」

 態とらしくナマエに倒れ込みそうになった太宰を寸での処で湯の中に沈めた。その隙にナマエへと近付き肩を抱き寄せる。太宰が沈んだ其処からは水泡が漏れ、やがてザバン!と音を立てて奴の姿が現れた。

「酷いじゃないか中也、危うく死ぬ処だったよ」
「さっさと死ね」

 ずぶ濡れになった髪を掻き上げてそう云う太宰をもう一度沈めてやろうかと思った。

「もう、太宰さん!またそんな事してると国木田さんに怒られますよ!」
「ああ、敦君!引っ張らないでくれ給えよー!」
「だーめーです。ほらあっち行きますよ」
「敦君が国木田君みたいだ!」

 光栄です、なんて云う敦に引き摺られて太宰がその場を離れて行く。

「本当、長い夜になりそう」
「・・そうだな」

 最悪な事に、なんて言葉は飲み込んだ。隣のナマエが愉しそうに微笑んでいたからだ。ナマエにとっちゃポートマフィアも探偵社も最早思い入れがある場所だ。

 此処を出れば敵同士。そんなのは判っている。だがだからこそ今日だけはこんなめちゃくちゃな光景を愉しんで居たいのだろう。

「ありがと、中也。此処に連れて来てくれて」

 そんな風に微笑んで云われたら矢張り不満なんて云えそうにない。

「ああ、」

 俺は唯そう云って微笑み返した。月の照らすその場所で、愛するナマエへ。