誰も居なくなった公園で中也は未だ立ち尽くしていた。ゆっくりと右手を上げればその手袋には血がべっとりと付いていた。他でも無い、彼女の血だ。

「クソ・・っ」

反対の手で自分の髪を鷲掴みにした。自分が殺した。死なせないと、置いていかないと、手放さないと誓った彼女を。

今まで自分は何を守って来た?何を思って、誰を想って。だが全てこの手が壊した。一瞬にして、何もかも失った気分だった。

組合ギルドの敵を太宰と倒した後、当然の様に放置して帰った彼奴を恨んだ。だがそれよりナマエが目覚めたと云った太宰の言葉を思い出した。

何度も何度も彼女の携帯に電話を掛けた。だが繋がらない。太宰に掛けても同じだった。掛ける度舌打ちを漏らし、掛かって来るかも、と携帯を手放す事は無かった。

そしてあの夜の日、画面ディスプレイにナマエの名前が浮かんだ時には心臓が止まるかと思った。慌て過ぎて電話に出た途端彼女の名前を呼んだ。

その後聞こえて来たいつも通りの彼女の少し鬱陶しそうな声に心底ホッとした。無事を確認出来て漸く落ち着いた。柄にもなく浮かれた。早く会いたい、その姿をこの瞳でみたい。逸るのは気持ちばかりでソワソワしていた。

だが彼女から聞こえて来た言葉に何も云えなかった。

『私、探偵社に残る』

自分の息を止める衝撃は十分にあった。だが脳裏に一人の男が浮かんで、思わず声を荒げた。聞けば太宰にナマエが自分を殺すと云われたなんて、くだらな過ぎて笑いたくなった。

『だって私は』

彼女がそこまで云って次に出る言葉は判っていた。今更彼女の異能の説明なんて要らない。何年一緒に居ると思ったんだ。そう思った。だが判ってなかった。

『中也が好きだから』

夢かと思った。空耳か幻聴か。兎も角現実とはとても思えない言葉に身体が震えた。終いには『触れたくて仕方ないの』なんて。

好きな女にそんな言葉を並べられて嬉しく無い奴なんていない。然もそれが何年もの片想いなら余計だ。

だが彼女はだからこそ辛いと呟いた。そんな事自分が一番判ってる。そんなもどかしさを何年も抱えていたから。

『ごめんね、中也』

責める様な口調になった自分に彼女は何処までも落ち着いた声でそう云った。やめろ。それを云ったら、全て終わってしまう。必死に言葉を繋げた。

頼むから、帰って来てくれと。約束しただろ、と。

『さよなら−−中也』

言葉は、もう出て来なかった。否、発する前に電話を切られてしまった。矢張りその場に立ち尽くした。

だけどまだその時は腹立たしさが勝った。如何して自分の相棒はこう勝手な奴ばかりなのか、と。直ぐに思った。この異能戦争が終わったら、必ず太宰と決着を付ける、と。そして屹度、彼女を連れて帰ると。

だが如何だろう。結果は、自分が彼女を殺した。一気に全てが如何でもよくなった気がした。

「こら」
「!」

ポンと頭に何かが乗った自分の帽子だ。土まみれになったそれを、戻って来た太宰が自分の頭に乗せていた。

「何故すぐに追って来なかった」
「・・追える訳ねぇだろ」

自分が傷付けた。手の平を見ればそれの血は渇きつつあった。そんな中也に太宰は明らさまなため息を吐いた。

「中也はナマエちゃんが私を守ったとでも思ってるのかい」
「その通りだろ」

自暴自棄になっていた。もう太宰すら如何でもいい。早く消えてくれ。心でそう呟いた。ぶっきら棒にそう云えば太宰は再びため息を吐く。

「私を守るなら、彼女は私を向いていた筈だ」

太宰の云いたい事がイマイチ判らなくて漸くその顔を上げて色のない瞳で太宰を見つめた。

「だが彼女は君を向いていた。悔しいけどね」

中也のその目が徐々に驚きに依って開かれていく。

「彼女が守りたかったのは君だよ、中也」
「・・っ」

本当、相変わらず大莫迦だね君は。と太宰は笑う。瞬間に聞こえて来たのは「ごめんね」と云いながら俺に手を差し出し笑ったナマエの声だった。

「彼女の治療ももう終わってるよ」
「!」
「まぁ、君が死んだと思うのならそれでも私は構わないけどね」

中也は駆け出していた。其れこそあの日、彼女が組合ギルドと交戦した日の様に。だが頭の中は違った。なんて云おうか、まず彼女に謝らなければ。あとはちゃんと云おう、彼女に好きだって。あとは、あとは。

そんな事ばかり考えていた。気持ちばかり焦って足がもつれそうだ。もっと速く、もっと疾く。

「はぁ、はぁっ」

そして扉の目の前まで来て、一度大きく深呼吸をした。此処に来るのは二度目だ。そしてその二度とも全速力だ。本当、厭になる。俺にどんだけ走らせる気だあの女は。なんて言葉を頭に浮かべて中也はその扉に手を伸ばした。

「ナマエ!」
「・・中也」

扉を開ければ探偵社員に囲まれたナマエと目が合った。だがバツが悪くて視線を思わず逸らしてしまった。

「・・その、悪かった」
「本当よ!」

しおらしく云えばナマエはそう声を上げた。ナマエは大きな足音を立て、視線を鋭くしたまま中也へと歩み寄る。

「折角与謝野先生が買って来てくれた服がもう台無し!」
「わ、悪い」
「大体ね!あんな住宅地のど真ん中の公園で何考えてんのよ!」
「悪かったって!」

凄い剣幕で捲し立てるナマエに中也は思わず後ずさった。

「本当、何で元相棒同士で戦ってんのよ・・っ」
「・・悪かったよ」

俯くナマエに近付いてその髪に触れた。

「大体!」
「なっ、まだあんのかよ!?」

だが突然顔を上げたナマエに中也は思わず肩を揺らした。

「あんな告白の仕方ないでしょ!?あの流れで普通云わないでしょ!」
「なっ、手前だって好きだって云った癖にさよならとか意味判んねぇんだよ!」
「はぁ!?あんた私の話し聞いてた訳!?」
「聞いてたに決まってんだろーが!好きな女とやっと出来た会話だぞ!」
「なっ・・!」

皆が目を点にしてその云い合いを見つめる中、怒涛の痴話喧嘩はナマエが顔を赤くした事に依って漸く途切れた。

「はぁ、はぁ・・私は運動は嫌いなのだけれど」
「!」

中也の後を追って来た太宰がそこで漸く探偵社に到着した。疲れ果てた彼は扉に縋りながら息を切らしている。

「あー!クソ太宰!手ぇ貸せ!」
「厭だね、ぜーったい厭だよー」
「手前・・!」

あしらう様に手を振りながらそう云う太宰に中也は思わず拳を握り締める。

「チッ・・」

走りながら考えていた事が此れでは台無しだ。いつもと変わらないやり取りに思わず舌打ちが漏れた。

「そんな事より、ナマエちゃん!」
「え?」

そう云って太宰がナマエと中也の横を通り過ぎ探偵社の輪の中に入ってそう声を上げた。それに皆は目配せをして口元に笑みを浮かべる。

「「 入社、おめでとうー! 」」

皆が声を揃えパァンとクラッカーが鳴り響いた。目を点にするナマエと中也に構わず太宰は言葉を紡いだ。

「君は今日から正式な武装探偵社員だよ」
「え?だってそれは社長に・・」

戸惑うナマエに太宰が説明をしていく。

「探偵社には代々入社試験があるのだよ」
「済みません。あの子供、僕の異能だったんです」
「・・はぁ!?」
「す、済いません!」

谷崎の言葉に思わずナマエは素で返してしまい谷崎は肩を震わせた。

「あの電話も実は・・」
「な、敦君まで!?」

ナマエは「はぁ、」とため息を吐かずには居られなかった。

「本当は彼処で試験終了だったのだけどねぇ」

太宰が「やれやれ」と云って首を左右に振れば皆の視線が中也へと向いた。

「な、何だよ!だったら最初から云えよ!」
「云ったら試験にならないじゃないか、莫迦だね」
「誰が莫迦だ包帯野郎!ってか俺は認めねぇぞ!」
「へーそんな事云って良いのかな中也」

突然妖しく笑う太宰に中也は「なに?」と怪訝そうな顔をする。

「探偵社の正式な社員になれば社長の異能力"人上人不造"の対象になる」
「だから何だよ」
「それは個人の異能力を自分で制御出来る様になる異能力なんだよ」

太宰の言葉に中也だけでなくナマエも目を見開いた。それが何を意味するのかを、二人は理解したのだ。

「・・って事は、」

自分の両手を見詰めるナマエに太宰はそっと微笑んだ。

「君は私なしでも誰にでも触れる事が出来るはずだよ」
「・・嘘」
「・・太宰、」

信じられないと目を瞬かせるナマエ。そして中也は低い声で太宰を呼んだ。

彼奴あいつが触れられるなら此方こっちからも触れるよな」
「・・まぁ、理論上はね」
「!」

太宰の言葉にナマエは顔を上げた。嫌な予感がしたからだ。

「ちょ、待って中也!」
「待たねぇ」

ナマエの思った通り案の定歩み寄る中也。手袋を外し乱暴に捨て去る。そんな中也にナマエは思わず視線を中也へと向けたまま急いで後ずさった。

「まず何かで試してから・・!」
「なら、俺で試せばいいだろ」
「莫迦云ってんじゃ、」

ナマエが言葉を云い終える前に中也の手がナマエへと一直線に伸びた。そしてその手が逃げて行くナマエの頬にそっと触れた。まるで壊れ物に触れるかの様な優しい手付きだった。その肌の感触に二人は目を細める。視界にはお互いしか映っていなかった。

「やっとだ」

フッと柔らかく中也が笑う。そのまま反対の手でナマエの腰に手を回し身体を引き寄せた。その動きに中也の帽子が背後へと綺麗な弧を描いて舞い落ちていった。

「・・っ」

唇が重なる。中也の髪が、ナマエの髪が、顔に掛かってくすぐったい。頬を包んだ中也の手に僅かに力が入って、ナマエはその手にゆっくりと触れた。

−−あの時の手だ。ナマエはふと微睡みの中で自分を引き上げた手を思い出した。その途端胸がギュッと締め付けられる感覚がした。

ゆっくりと唇を離して中也はナマエを抱きしめその肩に顔を埋めた。

「中也、苦しい」

その背中に手を回してナマエはそう云って笑った。その瞳からは一筋の涙が溢れた。

「好きだ」

ナマエの耳元に聞こえた言葉は甘くて、それでいて少し震えていた。身体を少し離してお互いの頬に触れた。コツン、と額が音を立てた。

「泣かないでよ、もう」
「泣いてねぇよ・・っ」

目を固く瞑った中也にナマエは困った様に笑った。大袈裟だな、とこそばゆさを隠す様に呟いた。

「ナマエ、」
「なによ」
「好きだ」
「さっき聞いたよ」
「好きだ・・っ」
「はいはい」

まるで子供の様に言葉を繰り返す中也にナマエは名前を呼んで「ほら」と優しく諭す。それにゆっくりと目を開けた彼に彼女は笑いかける。

「私も、大好きだよ」
「・・っ」

中也の瞳から堪えていた涙が一筋、頬を伝った。彼はこの四年間彼女への言葉を探して来た。でもそれは要らなかった。だって彼が探していたのは慰めの言葉、太宰の事を考える彼女への言葉だったからだ。

そんな言葉を見付けられなくて良かった。彼が一言「太宰の処へ行け」なんて云っていたらこんな結末はなかっただろうから。死なせなくて、手放さなくて、諦めなくて本当に良かった。中也はナマエを自分の腕に収めてその温もりを匂いを、そして気持ちを感じ取って心底そう思った。

ずっと抱え込んでいた想いは無駄じゃなかった。口では強気な事を云っていたって何時だって不安だった。何時か太宰の元へ行ってしまうのでは、と。

『彼女は私の元に来るよ、''どちらにせよね''』

ふと四年振りにマフィアの獄舎で会った時の太宰の言葉が中也の脳裏に浮かんだ。−−そう云う事か、と今更乍に納得した。太宰はこうなる様に動いていた。

いけ好かない奴。だけど矢張り頭では敵わないらしい。だが今はどうでもいい。ナマエに触れられる。指でその感触を確かめる。

「くすぐったいよ」

そう云って笑う目の前のナマエが愛おしくて堪らなかった。







「でも、良かったんですか太宰さん」

ふと皆でその光景を微笑ましく見詰めている中で淳が太宰に声を掛ける。

「って!顔!太宰さん顔!」
「なんだい敦君・・私は今中也に呪いを掛けているのだよ」

ブツブツと念仏でも唱えているかの様に陰気臭い太宰に敦は思わず苦笑いを溢した。

「でも、探偵社とマフィアの恋人カップルなんて聞いた事ないですよ」

大丈夫なんですか、と問う敦に「大丈夫じゃないだろうね」と太宰は即答した。それに敦は表情に影を落として俯く。

「じゃあ・・」
「だが、二人がその事は一番良く判っているだろう」

敦の言葉を遮って、太宰はその背中を伸ばした。

「だから立場は守る筈だよ。もう屹度、元には戻れないだろうからね」
「成る程・・」
「まぁ仲違いしたらそれこそ其の侭だろうし、問題無いだろう」

私の心を除いてね、と太宰は二人を切なげに見詰めた。

「太宰さん・・」

その横顔を敦は複雑な表情で見詰めた。敦はその時初めて彼の人間らしい表情を見た気がした。

「さて、そろそろ邪魔しに行こうかな」
「そうですねって、ええ!?」
「ふふーん」

そう太宰は先程の表情が嘘だったかの様に鼻歌を歌いながら二人に歩み寄る。

「あっれー小さい人が泣いている!迷子かい?」
「煩え!手前は消えろ!」
「そんな事云って良いのかな、もう少し私に感謝しても良いと思うのだけれど」
「ぐっ・・」

ナマエの肩を抱きながら中也は太宰の言葉にそう言葉に詰まりながらも睨み付ける。そしてゆっくりと視線を逸らしぶっきら棒に言葉を発した。

「あ、ありがとな・・」
「え?全っ然聞こえなかったー!」
「なっ!手前、態とだろ!」
「小さいんだから声くらい大きくしないと」
「誰が小さいだ!」

そんな二人の云い合いにナマエはクスクスと笑った。

(そう、この感じ・・)

思わずその光景に目を細めた。底に沈んだ自分を照らしてくれた二つの光。人は彼らを"双黒"だなんて呼んでいたけれど、彼女にとってそれは眩し過ぎる"黒"だった。

マフィアに来た時も、そして四年前も、この光が有ったからこそ絶望を抱えようとも過ごして来れた。私は私でいられた。ナマエは心でそっと呟いた。ありがとう、と。

「矢っ張り、二人とも大好き」
「なっ・・!」
「じゃあ私とも愛の抱擁を!」
「殺すぞ手前!」

両手を広げる太宰に、中也はナマエを抱き締めながらその足を太宰へと伸ばした。

その中也の腕の中でナマエは嬉しそうに笑っていた。