その晩、ナマエは結局答えは出ずに太宰の下宿している部屋へと上がり込んでいた。ベランダから見た月は高く上がり、夜独特のヒンヤリとした空気が頬を撫でた。

カチャ、と手の中で小さな音が鳴った。携帯電話だ。電源の入っていない其れを今日太宰から手渡された。其れを掲げれば繋がったキーホルダーが目の前で揺れる。

鎮圧任務に行った時にエリスにお土産で買った猫の縫いぐるみと同じ顔をしている。結局あれは自分の家に有るのだけれど。それを小さくしたキーホルダー。目付きが悪く帽子を被った其れをただジッと見つめていた。

「・・選ぶ、か」

太宰は自分に選択肢が有ると云った。だが太宰が良いと云ってもそれが社員皆に云える事では無い。昼間、あの話しをした時に国木田を見れば、彼は「好きにしろ」と矢張り自分に選択肢を与えた。

正直戸惑った。だってそれは私のマフィアにいる理由を真っ向から否定するものだからだ。だがそれも既に過去のモノになりつつある。だって今私がマフィアに身を置く理由、それはたった一人の存在。

「私は、何を悩んでるんだろう」

傍に居たいと願う人がハッキリとしているのに、悩む必要なんて無い。ナマエは携帯電話を開きその電源を入れた。そして慣れた手付きで電話帳を検索し、一つの名前を見付けて通話のボタンを押した。

『ナマエ!?ナマエか!?』
「・・うるさいなぁ」

コール程で出て、自分の名前を必死に呼ぶ彼に思わず笑ってしまった。

「私だよ」
『・・っ遅ぇんだよ、バカヤロウ』

僅かに震えた声にナマエは「ごめん」と言葉を返した。

『もう身体は平気なのかよ』
「うん、探偵社のおかげでね」
『そうか』
「紅葉さんは?」
『もう帰って来てる』
「そっか、良かった」

随分久しぶりに彼の声を聞いた気がした。思えばずっと隣に居た。こんな風に電話でやり取りをしたのは初めてに近いかも知れない。

『だから手前も早く、』
「私、探偵社に残るよ」

私の言葉に彼の呼吸が止まった気がした。

『な、に・・云ってんだよ』
「・・・」
『太宰か!太宰がまた手前に・・!』
「確かに太宰さんに色々云われたよ」
『なら・・!』
「でも違うの、中也」

此れは、私が決めた事だよ。そう云って彼の言葉を遮れば彼は言葉を詰まらせた。そう、悩む必要なんてない。だって私の願いは、彼が在り続ける事だから。

「太宰さんは私が何時か中也を殺すだろうって云ってた」
『はぁ!?そんな訳ねぇだろ!手前はそんな言葉を鵜呑みにしたってのかよ!』
「・・うん」

それはここ最近ナマエが自分で知りながらも気付かない振りをしていたものだった。そして「だって、」とナマエは声を荒げる中也に言葉を続けた。

「否定出来なかったの」
『なんで・・』
「だって私は」
『手前の異能なんて百も承知だ!今までだってそうだっただろうが!此れからだって・・!』

中也の必死さに思わず頬が緩んだ。彼はこんなに自分を必要としてくれている。そう思えたから。見上げれば雲を纏わない月が綺麗に輝いていた。無駄に泣きそうになった。


「中也が好きだから」


本当は太宰に云われる迄もなく気付いてた。彼を好きな事も、だからこそ彼の傍には居ない方がいい事も。

「だから私は何時か中也を殺してしまう」
『何だよ、それ・・っ』

意味が判らないとでも云うように中也は言葉を振り絞る。ナマエはまるで手の届く事のない月を彼と重ねて手を空へと伸ばした。だが矢張り自分の手には何も触れられない。哀しくともそれが現実だ。

「もうずっと、中也に触れたくて仕方ないの」
『!』

中也が自分の髪に触れたあの日から、自分も髪になら触れられるか、服越しなら腕を掴んでも平気だろうか。少し位なら。そんな事ばかりが頭に浮かんだ。だがそう思っても出来はしなかった。もしそれで消えてしまったら?そんな不安が何時も脳裏に過ぎり、その度胸が押し潰されそうになった。

何時か屹度、無意識に触れてしまう時が来る。それは一緒にいる時間が永くなれば永くなっただけその可能性は日増しに高くなる

「私は中也に触れられない。どんなに想っても、ううん・・想えば想う程、唯この想いは辛いだけ」

判っていた筈だ。二人の間に恋愛感情は成立しない事を。其れは鎮圧任務に行く途中のヘリコプターの中でも思った事だ。

でももう、気付いてしまった。戻れない処まで来てしまった。既に、手遅れだった。

「目覚めてからさ、太宰さんに触れられた時にこの手が中也だったら良いのに・・って思ったの」

最低だ、と我ながら思う。でも思わずには居られない。死を恐れずに触れられる相手が、貴方だったら良かったのに、と。ずっと、あの人の温もりを探していた筈なのに。

『巫山戯ンなよ・・っ、俺が好きなら傍に居ろよ!』
「居たかったよ、ずっとね」
『・・っ』

自分の何を捨てても云い。自尊心も常識も感情も、この命も。彼と居られるなら。だけどその気持ちよりも大切なモノがある。失くしたくないモノがある。それは彼のたった一つの命。

「ごめんね、中也」
『っ手前は云ったよな!すぐ帰るって、また後でって・・!』
「・・うん、そうだね」
『俺は・・ずっと待ってんだぞ・・っ』
「うん・・だから」

ナマエはそっと目を伏せた。彼が撫でてくれた髪が風に舞って、其処に触れれば自分の髪を撫でる彼の顔が浮かんだ。

その笑顔は愛おしくて、組合ギルドと対峙して死ぬと思った時にも流れなかった涙が静かに流れた。


「−−さよなら、中也」


彼からの言葉は無かった。否、聞くのが怖くて気付いたら電話を切っていた。狡い。そう自嘲して思わずその携帯電話を握りしめて笑った。

「・・っ」

でも直ぐに俯いたその瞳からポタポタと雫が溢れた。ベランダの手摺りに額を付けて落ちる其れを見詰めた。

カタン、と背後の窓が開く音がした。近付く足音、そして其れはそっとナマエを後ろから抱き締めた。

「・・もし君が、生まれたその瞬間からその異能を持ち合わせ天涯孤独の幼少期を過ごしていたなら、マフィアにも居られたのかも知れない」

ナマエの耳元で太宰はそっと囁いた。

「だが君は知っていた。人の温かさも、希望も」

だから何度絶望してもその瞳から光が完全に消える事は無かったのだろう。でもだからこそ、傍に居るだけなんて出来ない事も知っていた。

「私を中也だと思っても構わないよ、其れで君が少しでも救われるなら」
「・・っ」

太宰の言葉にナマエは思わずその胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。如何して、ずっと求めて来たものが此処にあるのにこの心はただ切なく痛みに震えるのだろう。嗚咽が漏れて自分を制御出来ない。−−ああ、私はこんなにも彼が好きになっていたのか。

そんなナマエを抱き寄せて、太宰はその髪に顔を埋めた。

「済まない、ナマエ・・」

泣き続けるナマエに、顔を歪めて呟いた。

「私が、中也でなくて」

その辛辣な瞳と言葉は、哀しみに打ち拉がれた彼女の耳に届く事は無かった。