「やぁ、ご機嫌如何かな」

ガチャッと音を立てて鍵の掛かっていない其の扉を太宰は開けた。

「なんじゃ、戦時中にも関わらず良く来る奴じゃのう」

・・わっちはついでじゃろうが、とその部屋のベットに腰掛けながら本を開いていた紅葉は笑った。

「ナマエは未だ目覚めんのか」
「・・残念ながらね」

紅葉の問いと太宰の応えに沈黙が部屋を包む。あれから数日が過ぎた。だが彼女が目を覚ます事はない。延命処置はしているものの日に日に衰弱していく身体は弱々しい。

「あの子を如何するつもりじゃ」

ふと発した紅葉の探るような言葉に太宰はフッと笑みを零し「如何もしないさ」と返しす。

「唯、私は彼女に選択肢を与えたい」

マフィアじゃ無くても、生きる場所は有るのだと。

「触れた者を灰にする能力を垂れ流している彼女の居場所は少ないだろう。だが一つでは無い」
「それがこの探偵社だと?」

そう云って紅葉は太宰から視線を外し昔を思い出す様に遠い目をした。

「四年前のあの子は、拠り所を失った屍のようじゃった」
「・・・」

その言葉に太宰から笑みが消え、その漆黒の瞳を隠す様にそっと目を伏せた。紅葉にはそれだけでは彼の心中を察する事は出来なかった。だが彼女は追い打ちをかけるかの様に言葉を続けた。

「だが漸く、ようやっと"別の其れ"に気付いたのじゃ」

紅葉から僅かに殺気が漏れた。太宰には無意味だと判っていても、思わず金色夜叉が其の背後に現れた。

太宰の後釜の様に中也と共に過ごしていたナマエを紅葉は見ていた。ナマエや中也が気付いていたかは判らないが、お互いがどこか気を遣い、普通にしようと努力していた様に見えた。

だが西方の遠征から帰って来たナマエを見て何処か垢抜けた様な、永く背負っていた荷物をようやく下ろしたかの様な清々しさを感じた。ああ、これで二人はもう大丈夫だ。そう思った。なのに、

「其方はまた"其れ"を奪うのかえ?」

紅葉の言葉をただ黙って聞いていた太宰がゆっくりとその瞳を開いた。其処に光はない。ただ儚く、遥か彼方を見詰めている様だった。

「・・例え今辛くとも」

そんな紅葉に動じる事無く太宰は静かに口を開く。

「それがこの先、何十年後の彼女の為になる」
「其方の傍に置く事が、か?」

飛んだ大儀じゃな、と紅葉は顔を顰めた。

「・・中也は如何なる」
「そう云えば、姐さんは中也の世話係りだったね」

視線を流す紅葉に太宰は困った様に笑った。

「彼女次第だ。何せ彼女の心までは読めないからね」
「ふ、其方に読めぬモノがあるとはな」
「私にだって判らない事はあるよ。兎も角、今は彼女が目覚めるのを祈るだけだ」
「話しは其れから、か」

発した言葉の歯痒さに二人は目を伏せた。

そして三組織の闘争は激化して行く。探偵社は敦を、ポートマフィアは獄中から解き放った夢野久作を組合ギルドに拉致される。

敦以上に夢野を拉致された事は死活問題であった。彼女の異能力は自分を傷付けた者の精神を崩壊させ、無差別に残虐させる精神操作の異能力だ。

此れが何らかの形で悪用されれば探偵社、及びポートマフィアと云えど壊滅は必須。だが無情にも其れは最悪の形で彼等を襲った。

夢野を傷付けた証。精神操作を受ける刻印が彼等だけで無く街中の人間に現れた。形振り構わず殺戮を広げる者達に依って、横浜の街自体が廃墟と化そうとしていた。

処々で火が上がり、華やかな街は数十分と掛からずに地獄絵図と化した。

「交通網を死守しろ!襲ってくる奴は撃て!」

街の一角にて、中也の切羽詰まった声が響いた。状況は最悪だ。何せポートマフィアが封印していた夢野を外に出したが故にこの状況が生まれて居るのだから。

「此の侭だとうちが商売する場所まで灰になっちまう!首領の指示だ!死ぬ気で守れ!」

街にはポートマフィア全構成員が送り込まれていた。だが目の前の惨劇の根源を如何にかしない限りどうしようもない。

「くそ・・っ!」

終わりの見えない戦いに思わずそう漏らさずにはいられなかった。だが足を、腕を、声を止める訳にはいかない。

(ナマエ・・!)

此の直ぐ近くに探偵社のビルがある。彼女は其処でまだ眠り続けている。暴徒と化した者が増えれば危険は増え、更に組合ギルドに依る空からの攻撃が無いとも云い切れない。

銃撃でもされて建物が崩壊すれば、それこそ彼女は死を受け入れるしか無くなる。それだけは避けたかった。

「こんな形でしか守れねぇなんてな・・!」

やり切れない思いが口に出る。それでも何も出来ないよりかはマシだと、洗脳された民間人を薙ぎ倒しながら思う。顔も見れない。声も聞けない。けれどあの日以降、今が一番彼女の近くにいる。其れだけで少し心が救われた気がした。

「また後でって手前は云っただろうが・・!」

だから早く目を覚ませバカヤロウ。どれだけ待たせる気だ。こんな気が気じゃ無い毎日何てもう懲り懲りだ。手前が居ない、こんな日々なんて。

「俺は手前に・・」

まただ。息がし辛い。胸が苦しくて呼吸の仕方を忘れちまったみたいに喉に何かが詰まる。

「隣に居て欲しいんだよ・・!」

ギュッとその拳を握り締めてビルを見上げた。でないと込み上げる何かが溢れて来てしまいそうだったから。

「俺達は相棒だろうが。独りにするンじゃねぇよ・・っ」

それは、願いにも似た呟きだった。







彼女は微睡みの中にいた。目を閉じているから此処が何処か、況してや其の場所が明るいのか、暗いのかも判らなかった。

唯ゆっくりと、堕ちている様な気はしていた。それが心地良いのか、不愉快かも判らない。それを考える思考すら止まっていた。

だが彼女の耳に微かな声が聞こえた。今にも泣き出しそうな、自分を呼ぶ声が。

(誰・・)

初めてその瞳を開けた。辺りは暗闇。感覚的には底のない湖を堕ちて行っている様だと思った。

(誰か、呼んでるの・・?)

そっと手を伸ばした。疾風を得たあの日の様に。唯闇雲に。

(・・矢っ張り)

朧げに水面に見えたその影に思わず笑った。その手は彼女に向かって真っ直ぐと伸び、その手に自分のそれをゆっくりと重ね指を絡ませた。

その感触にナマエは思わず目を細めた。手と一緒に心も掴まれた気分だったからだ。例え夢の中だとしてもこうして触れられた事に一筋の涙が顳かみを伝って底の無い暗闇へと堕ちていった。

(ありがと・・)

引き寄せられる手に、堕ちていた身体が浮上する。


「−−・・・中、也」


その瞳が、漸く開かれたのだった。