「何で私がお使いなんて行かなきゃ何ないのよ」

ったく、と呟いた手には一枚の紙切れメモ。其処にはビッシリと必要な物が書かれている。

「エリスちゃんのお菓子、エリスちゃんのクレヨンエリスちゃんの・・」

上から順に読めば思わず眩暈がした。「あの幼女趣味ロリコンめ」思わず呟いてしまった。だがそんな悪態とてもじゃないが本人の前では云えない。

だがこんな買い物内容だからこそ自分に回って来たのだと納得した。

「中也がいれば車で回ってもらうのに」

そう云って辺りをキョロキョロと見回す。昼間のこの時間帯にこの横浜を歩くなんてどれ位振りだろうか。普段歩く裏路地とは正に表と裏。本来華やかなこの街は彼女には少し眩しい。

「なんで中也が調査で私が買い物なのよ」

如何やら彼は鴎外から別の任務を言い渡された様だった。

『精々頑張れよ』

なんて嫌味ったらしい笑いと捨て台詞を思い出して思わず手の中の紙切れがグシャッと音を立てた。

「おや、これは・・正に運命かな」
「!!」

前方から聞こえて来た声に、くしゃくしゃになった紙切れを必死に伸ばしていた手が止まった。

そんなはず無い。空耳だ。思考とは別にその聞き覚えのある声に手は僅かに震えた。

「久しいね、ナマエちゃん」

夢なら覚めてくれ、今すぐに。
そう思わずには居られなかった。顔を上げた先に見えたその人物に。

「−−・・っ太宰さん」

彼女がそう呼べば、彼は優しく笑った。ナマエは大きく息を吸い込んだ。瞬間に乱れてしまった呼吸を整えようとしたのだ。

「随分雰囲気が変わったね。・・服も」

ゆっくりと近付いて来る太宰はそう云って僅かに目を細めた。

「・・っ来ない、で」

彼に自分の異能は効かない。ならば、とスカートの下に隠してあった小型銃ハンドガンに手を伸ばした。

「此処は街のど真ん中だ。"そんな物"を出せば君は二度とこの場所を平然と歩けなくなるよ」

だがそれは太宰によって直ぐに隠されてしまった。そう、彼の身体全てによって。

「離して、下さい・・っ」
「君にそう云われる日が来るとはね」

正面から抱き締められて声が震えた。声も匂いも鼓動も、昔と変わらない。突き放したいのに、何年振りかの人の温もりに安堵して振り払えない自分が厭になる。

太宰はナマエにそう云われ様ともその身体を離そうとはしなかった。

「懐かしいな、君の匂いも抱き心地も」

そう云ってナマエの感触を確かめるかの様に髪を撫でて顔を近付ける。その優しくて懐かしい手付きに、あの日に引き戻されている気分だった。

「・・如何して、あの日」

自分の全てが震えた。声も手も思考すら、目の前の彼に一瞬にして侵蝕された。でなければ自分が彼の背に手を回すなんてする筈ない。裏切り者の彼を、抱き締め返すなんて。

「私を、」
「ナマエちゃん」
「!」

名前を呼ばれてハッとした。自分は何をして、何を云おうとしていたのか。

「君とこうして抱き合っているのは凄く嬉しいのだけれど」
「・・っ」

咄嗟に腕を伸ばしてその距離を取ろうとした。だけどそれは叶わない。彼がナマエの腕を取り、腰を引き寄せたからだ。

「少し、私に付き合ってくれるかな」

間近で見上げた顔に何も云えなかった。息すらも忘れた。だってそれは、ずっと消そうとしても消えなくて、何年もの間自分に纏わり付いていたモノだったから。

「さぁ行こう」
「・・ちょっ、待って太宰さん!私は任務が」
「任務って、これの事かな」
「!」

ナマエの手を握ったまま歩き出す太宰の手には先程まで自分が持っていた筈の紙切れ。「いつの間に」そう呟けば彼は悪戯に笑った。

「此れが無ければ君は任務を遂行出来ない。でも悲観する事はないよ。私に付き合ってくれたら、ちゃんと返してあげるから」

それに何も云わないナマエにフッと笑って太宰は足を進める。

彼に触れられていれば異能は使えない。現に常に傍にあった筈の"風"が止んだ。それも実に四年振りの事だ。その上この距離で銃を使おうとしても先程の様に成るだけだろう。利き手を塞がれた状況で彼に悟られず其れを抜くのは至難の技だった。

(否、そんな事が無くても私は)

半ば引きづる様に自分の手を引くその背中を見詰める。此方の気も知らずに彼は鼻唄なんて歌っている。実に不愉快だ。不愉快な筈だ。なのに其の温もりに安心している自分を、今直ぐ殺してしまいたかった。

「此処は、」

ナマエは既に後悔していた。何故先程自分を殺さなかったのか、と。−−武装探偵社。目の前の扉の横に堂々と書かれた其の文字に冷や汗が背中を伝った。

「ただいまー!」

まるで自宅にでも入るかの様に彼はそう云ってその扉を開けた。

「太宰ィ!貴様は仕事もせずに、」

眼鏡を掛けた男が彼が帰って来たと思った瞬間にそう声を上げた。だがその腕の中に居るナマエが目に入り言葉を遮らせた。

「おい太宰」
「なーに、国木田君。この子はあげないよ」
「そうではない!貴様は何故職場に無関係の女性をだな!」
「あれ、太宰さんが女性を連れて来るなんて初めてですね」
「谷崎君、お茶でも用意してくれるかな」
「分かりました。ゆっくりしてって下さいね」
「って!俺の話しを聞いているのか太宰!」

目の前で繰り広げられる怒涛の会話ラッシュにナマエは思わず目を瞬かせた。そして騒ぎを嗅ぎ付けて武装探偵社の皆がナマエを興味深々に見つめた。

「へぇ、意外と素朴な趣味なんだねぇ」
「可愛らしいじゃないですか」
「大丈夫ですか?太宰さんに無理矢理連れて来られたとかですか?」
「敦君、後で少し話しがあるよ」

注目の的になり過ぎて言葉が出ない。逃げなきゃ。そう頭では分かっていても後ろから太宰に抱き締められていて身動き一つすら取れない。名の通り絶対絶命の状況だった。

だが幸い顔も知られて居なければマフィアだと云う事も彼らは知らない様だった。どう云うつもりなんだ、と首だけ振り返っても、その顔は笑うだけだった。

「彼女はナマエちゃん、皆宜しくね」
「僕、中島敦って云います」

ふと太宰の言葉にそう名乗る少年はナマエに手を差し出した。

「だめ!」
「!」

だがその手を一人の少女が掴んだ。それに探偵社の皆だけで無くナマエも目を見開いた。

「貴女は、」

少女の名は泉鏡花。ポートマフィアの紅葉が半年前程から世話をして居るその子だった。報告では探偵社に囚われているとの事だったが、見る限りそうでは無いのだと一瞬で判断した。

「鏡花ちゃんヤキモチかな?」
「え!?」

太宰の言葉に敦は大袈裟に反応して顔を赤くする。だがそれを無視して太宰は鏡花を見つめた。

「唯の挨拶だよ」
「・・っ」

その瞳は射るかの様に鏡花に圧力をかける。まるで、黙っていてと云っているかの様だった。

「ほら、ナマエちゃんも挨拶」
「・・何云って」

耳元でそう促されて後退りたくなる。だけれども囁いた人物が背後にいる為それは叶わない。

「彼女も異能力者なんだ。触れた者を灰にしてしまう異能だよ」
「!」

背後の彼は次々と自分の個人情報を晒して行く。本当に何を考えているのか分からないとナマエは顔を顰めた。

「そうなんですね」
「でも私がこうしてれば大丈夫だよ」
「それはまた災難な異能力だな、色々な意味で」

ナマエは僅かに驚いていた。自分の異能力に対して最も煙たがれたり怪訝そうにされると思ったからだ。

初めて太宰と中也に会った人身売買の容器コンテナ内で、一般人を殺した後の皆が自分を見る目は今でも覚えている。まるで化け物や死神でも見るかの様なあの瞳を。

だが彼等は如何だろうか。騒つく処か眉一つ動かさない。それに加え敦とやらは微笑みながら再びナマエの前にその手を差し出していた。

「・・私が怖くないの」

漸く口を開いたナマエのか細い声と言葉に、皆がキョトンとその目を丸くした。

「怖くないですよ」
「お前の後ろの男の方がよっぽど恐ろしく質が悪い」
「それまた違う意味じゃないですか国木田さん」
「妾らは天下の武装探偵社だよ、舐めた事云ってんじゃないよ」

ナマエの中で、何かが壊れた気がした。それが良いのか悪いのかは分からない。それでも彼女は泣きたくなった。此処が敵地である事も忘れた。

「宜しくお願いします、ナマエさん」

そう云う敦の言葉を聞いて、ナマエは太宰に目配せをする。其処にはやっぱり微笑む彼が居て、ナマエは恐る恐る敦の手を握った。

「・・っ」

その温もりに思わず唇を噛み締めた。こんな自分でも触れられる。太宰以外の人でも。そう思ったら込み上がって来るモノを抑えきれなかった。

「え、あれ!?ナマエさん!?」
「あーあ、敦君泣かした」
「敦、女泣かしは探偵社に二人も要らんぞ」
「ええ!?ちょ、ちょっと待って下さいよー!」

そんな探偵社の皆に、目尻に溜まった涙を指で掬って気付いたら笑っていた。それに気付いた探偵社の皆もナマエを温かな目で見つめ、微笑んでいた。