「芥川君が攫われた!?」
仕事を終えた帰り道、中也の車で家まで送ってもらっていた車内にナマエの声が響いた。
「・・それで、首領は何て」
「・・何も」
中也の言葉をナマエは予想していたかの様に俯いて「そう」とだけ返した。
マフィアの世界は甘くない。任務の失敗=死に繋がる事も少なくないからだ。芥川はマフィアが海外の異能組織"組合"からの依頼であった人虎を捕まえられなかった挙句重傷を負った。仕舞いには彼が襲ったグループの残党に拉致される始末だ。
マフィアは何より面子を重視する。依頼を成し得なかっただけでも処罰ものな上に残党から報復を受けたと成れば面目丸つぶれだ。
仮に鴎外が部下を向かわせたとなれば組織同士での争いになり彼の非を組織の非と認める事となる。芥川は見捨てられたも同然だった。
「黒蜥蜴や樋口が動いてるらしい」
だからそんな顔するな、と中也は運転しながらそう呟いた。
「俺達幹部が動けば首領が図ったと同義になる。バカな事は考えんじゃねぇよ」
「・・分かってる」
そうは云ってもその手に力を入れずには居られなかった。車の助手席に常にある彼女愛用のクッションがその下で無残に歪められる。
身近な人間が危険な目に遭っていると云うのに、助けにも行けないなんて間違ってる。そう思いながらも何人も同じ様な事で死んだのを見て来た。その度唯黙って流れてくる報告を待つしか出来ない事に憤りを感じた。
(其れに、彼は)
ナマエは芥川に特別なモノを抱いていた。二人の共通点、それは拾い主だ。そして、お互いその人から棄てられた者でもある。彼も、あの人の影に囚われている一人なのだ。
「ねぇ、中也」
ふとナマエが横切る風景を見詰めたまま静かに口を開いた。そんな彼女に中也は一瞬だけ目線をやり「なんだ」と答える。
「私、如何してマフィアにいるのかな」
マフィアにしか居場所が無い。それは分かっている。だがこんな事が起こると遣る瀬無くなって、自分の為だけに此処にいて、人を殺して、仲間を見殺しにして、そうまでして生きたいのかと自分に問うてしまう。何の為に、生きているのかと。
自分を拾った人間が居なくなった。あの時点で此処にいる理由は無くなってしまった。なのに何故見苦しくも自分は此処に居るのだろうか。矢張り四年前のあの日にこの命を手放して置くべきだったのだろうか。終わりの見えない自問自答が頭の中を延々と続いた。
「せめて、芥川君と代わってあげられたらいいのに」
目の前に横浜の街のネオンが光る。思わずその眩しさに目を細めた。
「・・理由が欲しいのか」
中也の言葉に思わずその顔を中也へ向けた。そこには唯真っ直ぐ前を見据える彼の横顔があった。通り過ぎる対向車のヘッドライトが彼の顔を照らしては消えた。
「・・分からない。だけど、自分の命が未だあるのに他の人が死んで逝くのが遣る瀬無いだけ」
順序、順位、其れ等があるのなら無価値の自分の命から消えればいいと思うし、そうあるべきだと思う。
背もたれに身体を預けて仰け反る。椅子の横にある取っ手を引けば、それは角度を増し見上げれば窓から星空が見えた。
「手前はもう少し自分を大切にしろ」
「何それ」
中也の言葉にナマエは思わず笑ってしまった。彼は何を云って居るのだろうか。大切な家族をその手で殺した自分を、大切にしろだなんて。
「こんな自分を大事に出来る程おめでたくないよ」
途端踏み込まれる急ブレーキ、外れるシートベルトの音、側面の扉にぶつかる拳、顔の横に置かれた手の平。
「中、也・・」
彼のその短い名を呼ぶ間にそれらは起こった。目の前にはその整った顔。伏せた瞳の所為でナマエの顔にその明るい髪が掛かってくすぐったい。
「・・なら、彼奴が」
中也がゆっくりと何かを堪える様に言葉を絞り出す。街灯の無い場所に止まったからか表情は見えなかった。
「太宰が居れば、手前を大事にしたのか・・!」
「!」
「太宰がいりゃ理由も価値も見出せたって云うのか!」
悲痛な叫びだった。彼の事ではない。自分の事だ。なのに何故目の前の彼はこんなにも苦しそうで、今にも泣きそうな声を上げて居るのだろうか。
思えば彼があの人の名前を自分に向かって口にしたのは、もう何年振りだろうか。紡がれている言葉とは別の事を考えていた。
「・・中也」
「太宰がいれば手前はくだらねぇ事で悩む事も!」
「中也」
「太宰がいればそんな顔する事も無かったのかよ・・!」
名前しか呼ぶ事が出来ないのがもどかしい。こんなに近くにいるのに。
・・そうだ。彼はずっと、傍にいてくれた。
だからこそ彼に置いて行かれる恐怖に襲われた。如何して気付かなかったのか。彼は知ってたんだ。あの人が消えたあの日から私がその影に囚われている事を。
其れでも何も云わずに敢えて何時もと変わらずに接してくれていた。四年越しに彼の優しさに気付くなんて、本当に自分は大馬鹿者だ。
彼は云ってくれた。死なせないと、置いて逝かないと、手放さないと。
なのに自分は死にたくて、自らの命を蔑ろにして、彼の気持ちを踏み躙り続けていた。最低だ。彼の優しさに甘え過ぎた。
「俺は、手前が」
「ごめん、中也」
触れられない代わりに膝にあったクッションを上げた彼の顔に当てた。
「ごめんね」
「・・っ」
穏やかな声だった。クッションごと彼の顔が落ちて来て額がぶつかった。
「あんたは顔に似合わず優し過ぎるのよ」
「・・一言余計だ、バカヤロウ」
ふふ、と笑みを零せばそんな声が返って来てまた笑った。
意外だった。あの人の名前を聞いても取り乱さない自分が。そう云えば鎮圧任務に行っている時からあの人の影は薄れた気がした。
服を変えたからかも知れない。赤い服を着て鏡に立つと何時も彼の姿が見えていた。自分を後ろから抱き締めるあの人の姿が。
だが今はそれもない。如何やら自分はいつの間にかあの人の影を振り切りつつある様だ。そしてそれは、他でもない彼のおかげなのだと云う事に気付いた。
紅葉が云っていた。鎮圧任務から帰って来て変わったのは服装だけではない様だ、と。屹度無意識の内にそれが滲み出ていたのかも知れない。
「あんただってまた相棒失くすのは嫌だよね」
「・・・」
気付いてあげられなくてごめんね、何て云うナマエに中也は顔を顰めた。
「バカヤロウ」
「だからーごめんって」
「ばーか」
「・・ちょっと、段々腹立って来たんですけど」
二人の間にある物が邪魔だ。だけどこれが合って良かった。出なきゃ、屹度自分は死んでる。
(どんだけ鈍いんだよ)
相棒とか前の事とかそんなモノ関係ない。唯手前だから、好きだから、こんなに苦しいんだ。
中也の言葉の本質までは届かず、もどかしさが胸に残った。だけどこれを伝えてしまったら、手を出さずにいる自信なんて無かった。
「私はもう大丈夫だよ」
約束するよ、貴方と一緒に居たいから。もう囚われるのは辞める。これ以上彼を苦しめたくはないから。
でも自分は弱いから、またこんな弱音を吐いてしまうかも知れないから、マフィアに居る理由に貴方の名前を貸して欲しい。
「ずっと傍に居てくれてありがと、相棒」
「ああ、」
「これからも宜しく」
「・・バカヤロウ」
当たり前だろ、と云って中也はクッションを退けた。
「!」
其処には優しく笑う彼の顔があって、胸から甘い音がした。
「中、・・ぶわ!」
彼の名前を呼ぼうとしたが、バフッと音を立ててクッションが顔に降って来た。それと同時に彼が自分の上から退く気配がして、ナマエもその身体を上げる。
「飯でも行くか」
「・・そうだね」
「その間に何かしらの報告があんだろ」
「うん」
ありがと、と呟いて、そのクッションを抱き寄せれば「相棒だからな」と中也は笑った。
それがこそばゆくて、嬉しくて、あの人の顔なんてもう忘れてしまったと、錯覚した。