一話


 壁を揺らすほどの「ドカン!」という音は、平和な日常には到底聞こえるはずもないものだった。教室にいる全員がその衝撃に肩を跳ね上がらせ、大欠伸をかまそうとしていた少女もまた、開けた口を思わず閉ざしてしまっている。ぱちり、驚いた二つの眼が瞬きをしたのは、ほんの一度だけだ。

「……」

 彼女にとって何事、と問うには些か聞き覚えのありすぎる音だった。教師を含む皆の視線が無関係であるはずの自分に突き刺さっていることもまた、それを物語っている。集まる視線の中には、迷惑がるモノもあれば憐れむモノもあった。須らくこの場にいる人間、いやあの音を聞いた全員がとの原因を瞬時に察している。それは皆が少女──ナマエを見つめている時点で分かりきったことだった。

(ああ、もう……!)

 鳥の巣になることを厭わず頭を掻き毟り、始業しているにもかかわらず椅子を強く押して立ち上がる。それを見ようとも教壇に立つ教師は咎めもせず「早めに戻れよ」なんて言うのだから世も末だとナマエは思った。
 どうして私が騒ぎの根源に向かわなければならないのか。悪態じみた自問自答、その答えは──

「勝己! 学校で個性使うなって何度言わせんのよ!」
「うるせぇ! テメェにゃ関係ねーだろうが!」

──この素行の悪い、幼馴染のせいだ。
 腹立たしさそのままに開けた隣にある教室の扉。その中ではひっくり返った椅子と机が転がていた。教室の後ろ、そこに悪名高い魔王の如く君臨している男子生徒──爆豪勝己は手の平から爆破を起こしナマエへと声を荒げた。そんな勝己の向かう先には壁へと追いやられ怯えながら座り込む、彼女にとってもう一人の幼馴染がいる。

「また出久いじめて! いい加減にしなさいよ!」
「うるせえ! さっさと自分のクラス帰れや!」
「あんたのせいで駆り出されてんのよ!」

 睨み合う勝己とナマエの間で、肩を窄めた出久は「あの、ちが、僕は」と言え切らない音を発している。正義感から二人の争いを止めようとしているのだろうが、その声は焦りと怯えで一つだって言葉になりはしなかった。

──いつもの事だ。幼稚園の時も、小学校の時も……そして、中学でも。幼馴染三人の関係は、変わらず最悪だ。

「お、爆豪の嫁が来た」
「嫁ー頼むぞー授業始まんねーから」

 ケラケラと揶揄う声が、あちこちから飛び交う。そんな声に対し「誰が嫁だ!」と二人の声が揃ってしまえば、勝己はバツが悪くなったのか「ケッ」と悪態吐いて席へと戻っていく。その丸くなった背中を見送りながら、ナマエは小さく息を零した。

 一体いつからこうなってしまったのか。その背中に問い掛けても答えは返って来ない。いや、それも分かりきっていた。元々ガキ大将だった勝己。だがこんなにも出久を目の敵にするようになったのはきっと──

「ごめん、僕のせいで……」
「なんで出久が謝るの。悪いのはどうせあのバカでしょ」

 眉を下げ俯く出久の肩に手を置いてそう言えば、勝己からは「誰がバカだクソ女ァ!」なんて声が飛ぶ。だがそれさえも聞こえなかったことにして、ナマエは出久へ「怪我ない?」と首を傾げた。「大丈夫だよ」と笑った顔に、覇気なんてものはあるわけもない。

 何度この言葉を聞いて、何度この表情をさせてきたのか。ナマエは考えて、だけどすぐにやめてしまった。途方もなかったからだ。
 積み上げられた年月を考えれば当然ともいえるのだろう。だけどこの関係性は落ち着くどころか年々悪化しているようにさえ思えて仕方なかった。そして幼馴染という代名詞は、こうして異常な方向性を持って周囲に浸透してしまっている。

 その形は歪だった。どうしようもなく歪んでしまったトライアングルは、水底に沈んでいるかのようにゆらゆらと揺れている。水面に映る月のように手に取ることが出来ないことを知ってしまうのが恐ろしくて、彼女の手はただ虚空を掴んだままだった。
 この関係をどうにかしたいと思ってもう何年目か。ナマエは未だ、その糸口さえ掴めずにいる。

 

「あー! やっぱもういない!」

 放課後。ナマエは再び隣のクラスを訪れていた。が、目的の人物を見付けることは出来なかった。がらんとした教室にはほんの数名生徒が残っているだけで、その肩を盛大な溜め息と共に項垂れさせる。今日に限って担任に頼まれ事を押し付けられたが故に、今朝の事といい自分をこき使う担任を恨まずにはいられなかった。

(出久、大丈夫かな)

 脳裏を過ぎるのは昔から気弱な性格をした幼馴染。朝に見た勝己の不機嫌具合からして、あのまま終わるとは思えなかった。だからこそ出久と帰ろうと思ったのだが、こうして空回りをするに至ってしまっている。

「……」

 俯くナマエの脳裏に過るのは救いようのないくらい険悪な幼馴染たちのことだった。

『てめえが何をやれるんだァ? 無個性のくせによ!』

 朝、教室に入る前に聞こえた勝己の言葉。
 たったそれだけの言葉で彼女には全てのやり取りが透けて見えるようだった。無個性だろうともヒーローになりたいと願う出久への、無慈悲で、容赦なくて、現実を捉えた勝己の言葉。
 同じナンバーワンヒーローに憧れて、同じ先を見ているはずなのに、スタート地点で既にその差は大きく開いている。

 だが彼女にとって二人の幼馴染は対等だ。夢に向かう気持ちを同じくらい、同じように応援してる。だが、出久に至っていえば口でいうほど道のりは容易くはないだろうことは明白だった。だから、いつだって軽々しく「出久ならなれるよ」とは言えやしないできいる。彼がどれだけ本気でヒーローになりたがっているかを、彼女は知っているから。
 
「あ、いた! って出久!?」
「え?」

 悪足掻きの様に風を切り走ったその先、住宅街の通りに目的の人物はいた。ナマエも勝己も通る通学路だったが、彼女が見つけた出久は地面へと座り込み、腰を抜かしているようだった。

「どうしたの!?」
「いやちょっと敵に襲われちゃって」
「はぁ!?」

 慌てて駆け寄るも当の本人は「あはは」と後頭部を掻いている。そんないつも通りな出久の笑みに、ナマエの身体に入った力はゆっくりと抜けていった。
 個性を悪用する敵は多い。だがこのヒーロー飽和社会を見事築き上げた日本は、世界で最も低い犯罪率を誇っている。それなのに直接襲われるとは、不運にもほどがある。

「怪我は? どっか痛むとこない?」
「え!? だ、大丈夫だよ! 助けてもらったから!」
「助けてって……え、」
「やぁこんにちはお嬢さん。彼を巻き込んでしまってすまないね」

 ずっと出久の前に誰かがいたことは気付いていた。だけど座り込む出久しか目に映っていなかったナマエは、初めてその大きく伸びた影の終着地点へと視線を移し動きを止める。飽和社会を間違いなく牽引しているであろうその影に、その瞳は見る見るうちに大きく見開かれていった。

「オールマイト!?」
「ハハハ! そうだ! お嬢さんも私のファンかな?」

 優に二メートルは超えているであろう身長とナンバーワンたる風格を持つその人は、日本だけでなく世界中にいる多くの人間が憧れる男、その人だった。思わず瞬きを忘れたまま「いや、」と本音が漏れたナマエに肩を滑らせる姿はコミカルだが、間違いない。
 何度もその姿を見てきた。勝己の瞳の中に、出久の瞳の中に、このオールマイトというヒーローを。それが今、ナマエの目の前にいる。現実に存在していたのかとさえ思ってしまうほど雲の上の存在が、だ。俄には信じ難い光景に、彼女は次にオールマイトが口を開くまでただ呆然とすることしか出来なかった。

「では私はコイツを警察に届けるのでね」

 そうポケットのペットボトルを叩くオールマイトに、ようやくハッと顔を上げる。その中には濁った緑色の液体と化した敵が納められていた。それが出久を襲った敵だということを理解するのは簡単で、隣で浮かれている出久とは逆に、ナマエは顔を顰めてしまう。これが出久の命を脅かしたとなれば、それは当然の反応だった。

「液晶越しにまた会おう!」
「え、そんな……もう」
「プロは常に、敵か時間との戦いだ」

 二人に背を向け屈伸をし始めたオールマイトに出久が焦りを滲ませる。何かを言いかけて、言えなくて、言いたいことはいつだって言葉にはならない。今日も、それは変わることはなかった。

「それじゃあ今後とも、応援……よろしくなー!」

 そう、オールマイトは飛び去る──はずだった。

「うっわ、すごい!」
「こらこらこらこらこらあー!」

もうほとんど、脊髄反射に近い衝動。オールマイトが跳ぶ瞬間駆け出した出久に、ナマエが飛び付いたのは。

「離しなさい! 熱狂がすぎるぞ! お嬢さんまで!」

 瞬く間に家の屋根を見下ろせる高度まで上昇した景色に、彼女は素直に感嘆の声を漏らした。出久はオールマイトの言葉に「今離したら死んじゃう」的なことを言うが、あまりの風圧にまともに言えてはいない。

「あなたに、直接……あなたに……!」
「オーケーオーケー! わかったから!」

 出久の必死の訴えに、呆れ混じりにオールマイトが返事をする。そんなやり取りを横目にしながら、長すぎる滞空時間にナマエはどういう原理だと素朴な疑問が浮かんだ。だが同時に思う。これがヒーロー≠ネのかと。その片鱗をもう一度垣間見てしまった気さえしていた。

「怖かった……」
「出久大丈夫?」
「うん……というかなんでナマエはそんな平気そうなの?」
「まぁオールマイトは落ちても助けてくれそうだし」

 目に付いたビルの屋上に降ろされ、出久は魂が半分出かかったように顔面蒼白にしてコンクリートの床に座り込む。「そう言う問題?」と引き攣る出久には命綱なしのアトラクションは刺激が強かったようで、その背を顔色一つ変えてはいないナマエが摩った。
 そんな二人に背を向けたまま、オールマイトは「全く、」と咎めるような声を発しては遠ざかって行く。その足取りは急いでいるようで、出久が引き止めようとも速度が緩まることはなかった。

「待って!」

──それでも出久は手を伸ばした。ずっと、ずっと見つめていたヒーローに。静かな彼女の視線が、そっとその頼りない指先を見つめている。
だが「待たない」と拒絶する背中に震えた手が力なく身体に沿うように落ちていく。何度も、何年も繰り返している葛藤。それを、今もしているようだった。だけど、

「個性がなくても、ヒーローはできますか!?」

 ああ、と、ナマエの中に吐息が落ちた。

「個性がなくても、あなたみたいな人間になれますか!」

 足を、握った拳を震わせ、だけど立ち向かう姿。世の中にヒーローはたくさんいる。そしてそれに憧れる人たちは必ずと言っていいほどそれぞれのオンリーワンがいて、勝己みたいに、出久みたいに目を輝かせている。
 彼女はその中でも珍しく、世に出ているヒーローなんてものに興味はない人種だった。だけど、ナマエの中にそんなヒーロー≠ェいるとしたなら、それは──

『か、かっちゃん! おんなのこに手をあげちゃダメだ……!』

 記憶の中にいる幼子はとてもじゃないが頼り甲斐なんてものはない。だけど、護ろうとしたはずのナマエを護ってくれた彼女のヒーロー。憧れとは違うが、応援していたいと思える相手。その一人。だから……だから──ナマエはそっと目を閉じた。もうこれ以上は、見ていられないとでもいうように。

 

「……はぁ、」

 一人、とぼとぼと家路を歩く。あの後、突如オールマイトを隠すように発生した煙に驚いたのも束の間。その煙が晴れたあとに見えた人物の姿は、そこにいたはずの平和の象徴とは真逆ともいえる細身の男だった。
 自らを「オールマイトだよ」と名乗った八木俊典は、五年前に負った怪我の影響で活動限界だと急いでいた理由を諦めを含んだ口調で告げた。他言無用だと二人に釘を刺すその表情に、先程までの威厳も明るさもありはしない。
 人間が萎むだなんて現象が起こり得るのか。だが、ナマエたちが理解する間もなくオールマイトは事実≠セけを告げていた。
 脇腹の傷、政府にさえ口止めしている秘密を聞かされている。きっとこれは、自分たちみたいな一般市民が聞いていい話じゃない。それを悟り、無関係な上に\不可抗力とはいえ、事の重さに冷や汗が彼女の背筋を伝った。そして一通りその姿の説明を終えたオールマイトは、出久の問いに答えた。抑揚も色もない、無慈悲な声で。

「力がなくても成り立つとは、とてもじゃないが口にできないね」

 それは、出久にとっては死刑宣告のようなものだ。彼の顔は、当たり前のように絶望を塗りたくり、悔しさに顔を歪ませている。当然だ。ずっともがくように、抗うように世間の声を否定し続けていた。自分の声を、願いを言い聞かせて今日まで前を向いて来た。だがそれは、苦しくも彼が一番憧れた存在によって打ち砕かれようとしている。

「夢を見ることは悪いことじゃない。だが相応の現実も見なければな、少年」

 オールマイトの言葉はきっと正しい。勝己の言葉が、間違っていないのと同じように。
 ナマエもポケットに入れられた敵を見た時、オールマイトが容易く跳躍した時、これは個性が備わっていない人間には到底出来ないことだと思った。いくら願っても、祈っても、抗えず拭い去ることの出来ない、現実。

「あ、あはは……はっきり言われちゃった」

 オールマイトが去った後、そう無理して笑う出久に、結局ナマエは出久が逃げるようにその場を後にする時だって、何も言えやしなかった。
(だから嫌だったんだ)
 きっといつかあんな表情の出久を見る羽目になると、分かっていたから。
 憂鬱な溜め息がコンクリートの地面へと落ちていく。もうあるはずのない冬の空気が春を邪魔して、ナマエの身体が僅かに震えさせた。予感めいた物さえ携え、鞄の中の携帯も。

「……はい、っ!」

 力なくそれを耳元に当てた──瞬間、猛烈な爆発音が鼓膜を刺激した。
 電話の相手は勝己とよく一緒にいるクラスメイトだが、彼の声が激しすぎる喧騒に掻き消されて微塵も聞こえやしない。だけど、それと比例するように緊迫した雰囲気は嫌という程伝わって来ていた。

「ちょっと! 何があったの!?」
「……きが! ………て…!」
「聞こえな、」

 向こうも動転しきっているのか、とてもじゃないがこちらの声が聞こえてる様子はない。強張っていく表情につられて耳に押し付ける携帯を握る手の力もだんだん強くなっていく。

「っ!!」

 一際大きな爆発音。後、目を細め微かに聞こえて来る誰かの声を必死に拾おうと集中していた。
(中学、抵抗……個性)
 断片的な単語を辛うじて拾えはしてもあまりにも声が遠くてそれらが繋がらない。彼から掛かって来たということは、勝己もそこにいるはずだ。何かに巻き込まれていることは分かる。事件か、事故か。どちらかだとしたら絶対に前者だという確証は、ナマエの中で瞬時に浮かんだ結論だった。
 仮に事件に遭遇したとして顔を突っ込む勝己を止めて欲しいがために自分へと電話をかけて来たのか、それとも。憶測が頭の中を駆け巡る。だが、
(本当に?)
 ふと、疑問がナマエの中に浮上した。
 ヒーローはまだ来ていないのか。いやそんなことはないはずだ。何かあれば基本的に誰かしらはすぐに来る。
 到着しているヒーローに逆らって勝己が何かしているのか。否、ヒーローの資格がない者は例え敵相手だろうとも個性を使うことは今の法律では認められていない。そのことを勝己が知らないわけがなかった。……なら、どうして。
 逡巡するも見付けられない答えに、心臓の音が喧騒と共に脳へと直接響いていた。だけど、

「勝己が敵に捕まってて……!!」

 スッと、耳は途端に全てを遮断した。

「おい! 聞いてるか!?」

 滑り落ちた腕は力を失くし、その中で叫ぶ声はまるで現実味を帯びていない。

 出久とビルの屋上にいた時、街に爆煙が上がるのを見ていた。今日はよく敵が出るとうんざりする彼女の傍らで、反射的に現場へと向かおうとしながらもハッとしたように俯いた出久のことしか頭になかった。もう行ったって意味なんかない。その横顔はそう考えているようで、彼女は出久に掛ける言葉を探すのに必死だった。
 だがもし、勝己が巻き込まれた事件があれだったのなら、もう時間はどれくらい経つ? その間ずっと、勝己が捕まっていたのなら──脳裏に嫌な予感が走る。同時に、静かで、だけど燃えるような感情も。

 瞬間、爆発的な風が彼女を下から突き上げた。瞬く間に二階建ての一軒家まで高度は上昇し、腹の底から込み上げて来た浮遊感に一瞬たじろぐ。高い場所は怖くない。だがそれは、確かな命綱があればの話だ。
 今は何もない。使い方も熟知していない個性を突発的に発動させたに過ぎないのだから、己の命を左右するのは他でもない自分自身だった。気を抜けば、使い方を誤れば、地面に急降下する。この高さから落ちたら、怪我だけでは済まないだろう。
(でも、いける……っ)
 そう目に映る目的地を睨み付けた。幸い目の前に障害物はない。一直線に進めばいいだけだ。そう恐怖に押し潰されそうになっている震えた両手をぐっと握る。行かなきゃ。突き動かす感情は、それだけだった。

「あれだ……!」

 空に立ち込める黒煙を頼りに、最短距離を突き進むためビルの屋上に辿り着いた瞬間見えた現場は騒然としていた。すぐさま転がるように降り立った場所から向かい側まで駆け寄り、フェンスに手を掛ける。だけど、彼女はぐっと、自分の息が詰まるのが分かった。
 今いる建物は地上七、八階はある。高さでいえば二十メートルくらいだ。着地に失敗すれば……きっと死ぬ。目と鼻の先では爆発音が響き、怒号が飛んでいた。あの中心に、勝己がいる。たった二人しかいない幼馴染が同じ日に襲われるなんて、これじゃ本当の不運は誰なのか分かったもんじゃない。
 今にもプツリと切れてしまいそうな緊張感は、そんな悪態でも吐かなければ今にも脆く崩れ去ってしまいそうだった。張り詰めた糸は精神をギリギリと締め付けている。

 だが現場は目の前。何も飛び降りずとも階段を駆け下りればいい。そうすれば、命の危険は微塵もありはしない。そんな言い訳じみた思考が脳裏をよぎる。
 いや、これは選択だった。齢十四才の少女に課せるには、あまりにも重い選択。目の前には引き留めるように柵を握り閉まる自分の手が映っていた。──瞬間、ざわざわとした喧騒が頭上で聞こえた。それはいつかの遠い日──始まりの、記憶。

『ピーピーないてんな!』

──あの時、勝己はそう手を引いてくれた。
 出会った頃から仲が悪くて喧嘩ばかりして、きっと互いにいけ好かない奴だと思っていた。悪友とも呼べず、天敵のような関係。幼稚園の先生に怒られ、親に怒られ、それでも負けん気の強かった二人はぶつかり合うことを止めはしなかった。──だけど、初めて喧嘩以外で触れた小さな手の平が、勝己とナマエの関係性を大きく変えた。あの日の恐怖や心細さに震えた彼女救った、もう一人の小さなヒーロー。

「ッ……!」

 食いしばった奥歯が、聞いたこともない音を脳に響かせた。汗ばんだ手に握ったフェンスが、叫けびたい衝動を抱えたナマエの代わりに悲鳴じみた声を上げる。

「!、あれは」

 ふと、人だかりの中にさっきまで一緒にいた人物を見付けた。反応からして事件現場にはいないだろうと思っていたが、そうじゃなかったらしい。そんな簡単に捨てきれるような夢でないのは分かっている。だが目と鼻の先で敵が暴れているのだから、悪意の矛先がいつ野次馬に向くのかなんて分かりはしない。
(あんなところにいて巻き込まれたらどうすんのよ!)
 そう、思った。なのに、
──え、
 あろうことか出久は人を掻き分け、細い通路に向かって一直線に走って行った。

「なに、やってんのよ……!!」

 そう足をかけ、飛んだ。
 ヤケクソに、我武者羅に風を纏い、だけどこの出力を上げれば落下のクッションになるはずだと冷静に予測を立てる。いやそれよりも風を落下地点に放って下からの風で速度を落として──急速に近付く地面に、焦りが拍車をかける。冷静なんて言葉がナマエの中にあるはずはなかった。一瞬でも思考を手放せばぺしゃんこ。そんな経験が、ただ普通に暮らしていた少女にある訳がない。
 出来るのか? いや、やるしか、ない。視界の先、細い通路の奥に敵らしい蠢くものを見付けた。その中でもがく、見慣れた髪色も。
 ぐっと胸を強い力で胸を押されたように苦しくなった。──行かなきゃ。弾け飛んだのは、そんな衝動だ。失いたくないから、失うわけには、いかないから。

「ビビってる、場合か……っ!」

 瞬間、右手を掲げ地面へと振りかぶった。放たれた風の塊は下から身体を突き上げ、跳ね返りの風に両腕をクロスしてその衝撃に堪える。
(っ、体勢……!)
 だが彼女に空中でその身体の向きを保つほどの筋力はなかった。それでもなけなしの腹筋に力を込め、水泳の折り返しに似た動作でビルの壁を地面とする。あとは、さっき上昇した感覚を思い出せばいい。思い出せ。二人の元に、向かうために。

「え!? ちょっと!!」

 巨大化したプロヒーローの横を抜ければ背後にそんな声が飛ぶ。だけどその声に振り返ることはなかった。パチリと、飲まれかけた勝己の驚いた瞳がナマエを捉え、ゆっくりと見開かれていく。

 炎の熱さも、鼻に付く焦げ臭さも、なにもかもがナマエの意識外だった。瞬きすら忘れ去られた世界で、伸ばす手は真っ直ぐに勝己に向かう。頭の中にあるものはたった一つ。
(今、行くから)
 ただ、それだけだ。

「!、う、わぁ!」

 だが一瞬にして横切った影に驚いたのも束の間。急速に進行方向から猛烈な風が吹き、身体は容易く空中でくるりと一回転した。その時に見えた金髪は今日見たばかりのモノで、堪えようとも圧倒的な力に飛んできた速度よりも段違いの速さで舞い戻らされてしまう。

「っ、」

 咄嗟に何かを掴み、その爆風に耐える。なにが起きたのか、揺れる身体に振り落とされないよう耐えるのが精一杯で、状況がどうなったのか分からなかった。

 ……やがて、風が止んだ。その代わり、ぽつりぽつりと雨が降ってくる。確か今日の降水確率は十パーセント。でもその僅かな確率が的中したわけじゃなかった。足を付けて向かおうとした場所を見る。そこには、ナンバーワンヒーローがいた。その人の一撃が、この雨を降らせていたのだ。
 敵はその威力に散り散りになり、出久と勝己は地面で伸びている。見る限り、大事には至らなそうだった。
(よかった)
 事件は無事解決。周囲の建物への被害はそこそこあるが、敵が派手に暴れた割には最小限に抑えた方だ。全ては、無事終わったんだ。

「……」

 そう、思うのに、ナマエの口元は一才の笑みを浮かべることはなかった。群衆との境目、その外側から見る景色はなぜか、彼女の表情に影を落としたのだった。