俺たちの頭上、目前までメテオが迫ったあの日、それは一人の女──あいつの友人でもある女の発動した魔法と、各地から吹き出したライフストリームによって人類と星は滅亡は免れた。
 だが目に見える風のように駆け抜けたそれは必然的に舞台となったミッドガル──俺たちの帰る場所を容赦なく抉った。まるで、今までのツケを掻っ攫うかのようだった。そんなあの日に何を失ったやつばかりになった世界は、二年経ったって状況がよくなる兆しを見せるどころか星痕症候群によって悪化するばかりだった。
 毎日毎日次から次へとギリギリの任務をこなす日々に明け暮れた。いや、この点だけで言えば楽だったのだろう。“指示がある”というのはこの状況では恵まれていたと思う。やらなければいけない事が明確になっていた事の有り難さは、世界を見れば明らかだった。
 瓦礫だらけとなったスラムには剛鉄の板に鉄パイプ、どこに使われていたのか見当もつかない、どこにでも使われていた部品が散乱していた。簡易的に作られたこの建物の一室から見た雨の降る景色にも星が終わりかけた名残が未だ色濃く残っている。
 真っ直ぐ見据えた教会だって例外じゃない。だが多くの家や建物だけじゃなく、人や目に見えないものまでも押し潰されたミッドガルで、まるで何かの加護でも受けたかのように辛うじて原型を留めた数少ないモノの一つだった。

 一足先に準備を終えた俺は一人、そういえばあの場所でアイツと出会った時も雨が降っていたな、なんて思い出して一人微笑む。無鉄砲で明るくて誰からも好かれたアイツはただ一人、神にだけは好かれていなかった。いやきっと……神でさえ彼女を強く愛してしまっていたんだ。

「十年、以上か」

 言葉にすればたった四文字で片付いてしまう年月はその数字以上に重く、かつあっという間だったように思う。思う、と他人事のように言ったのは、俺にとっちゃその過ぎ去った一日一日が“願い”の積み重ねだったからだ。気付けばそんなに時は流れていたのだといま口にして初めて気付いたくらいには。

「……そんな顔してたな、アンタは」

 窓辺の縁に飾られたまだまだここらでは貴重な花が花瓶に挿さっている。それに重なるように現れたあの頃と変わらない黒のスーツに身を包んだ──幻。口の端から漏れた笑みに、やはりソイツはあの頃と変わらない“今を生きる笑み”を浮かべていた。自分の何も残さないよう、精一杯残りの短い今に咲く……徒花のように。

 人の記憶はまず聴覚から曖昧になるらしい。次に視覚、触覚、味覚、そして、最後に嗅覚だ。ああ、だからか。古代種であるエアリスがこの場所を離れた二年前まで俺らに渡し続けたこの花が、記憶の中のあいつを呼び起こしたのか。いつもあいつの傍にあった教会に咲く白と黄色の花。花言葉は確か純真と──再会。そんな余計な知識を覚えているのも、きっと彼女が言ってたからに他ならなかった。


───・・・


「あ、来ちゃった?」

 タークスに入って少しした頃、ツォンさんに言われ古代種のボディーガードという名の監視、あわよくば神羅に連れてくると言う仕事を任された俺の前に現れたのは、その古代種とともに伍番街スラムにある教会で花を眺めながら楽しそうに笑うアイツだった。タークスの制服に身を包んでいる辺り同僚なんだろうが初めて見た彼女に目を瞬かせた俺にソイツはそう蹲み込んだまま聞いた。聞いたと言うよりは俺が来た事によって“時間切れ”になってしまったと言うニュアンスの言葉だった。

(俺の他に誰か来てるなんて聞いてないぞ、と)

 傘をさしていたとはいえ馴染んで来たスーツの袖を撫で、ついた外の気温を含んだ冷たい水を払いながらそんな事を思った。当時派手な任務を求めていた俺はなかなかYESと言わない色気のないガキのお守りに今日の鬱陶しい天気も相まって道中不満を零しながらここに来た。その上聞かされもしてない俺以外のタークスの登場に思わず心で舌打ちを打つ。だったら俺はドンパチやれる仕事にでも行きたかったぞ、と。

 女のその口ぶりと俺らにはやたら冷たく当たる古代種が心を許したように綻ばせていた表情に俺よりも前に入ったと言うことだけは伺えるが、当時の俺は正直その光景は疑問しかなかった。古代種含め、任務対象であるエアリスと仲睦まじく話すソイツに。

「アンタ誰に言われて来たんだ、と」

 そう問いかけながら立ち上がった二人に近付けば、古代種が俺を警戒してソイツの背後に隠れ肩口から覗かせた瞳が親の仇のように俺を睨み付ける。お前が腕を掴んでる相手だって同業で虎視淡々と神羅に連れてこようとしている事には変わりないはずなのに、その扱いの差は歴然としていた。

「ああ、エアリスのお守りね」

 一人納得したように口を開いた女は俺の問いには答えず「なーんだ」と言わんばかりに安心したようだ。他にここにくる理由なんてないだろ。そう思った俺は微かに顔を顰めたが、逆にソイツは笑っていた。一体、何が面白いってんだ。

「イッテ!?」

 そんな俺を襲ったのは弾かれたような痛みだった。パチン!と軽快とは言い難い重い頭蓋骨から出たような音が俺の額から鳴り響き静かなこの場所にアホみたいに響いた。後に俺の額は一週間ツォンさんと“お揃い”見たいになったのは今でも少し恨んでいる。

「ッてえな!何すんだいきなり!」
「ごめーん、つい」

 親指をトリガーとして放たれた中指にわざとらしく息を吐いて、じわっと熱を持ち赤みを帯びたであろう額を押さえた俺を横目にソイツはけらけらと笑う。何っなんだよこの女……!とても一本の指から与えられたとは思えない痛みに目尻にはうっすらと涙が溜まった。

「そんな怖い顔しなさんなって」

 そう、ふっと口角を上げた表情は柔らかく、逆立っていた毛並みが体に纏わり付くように自然と落ちていったような感覚がした。細く尖った瞳孔が緩く丸みを帯び、はるか彼方でカチャン、と何かが開く音が響いた……気がした。

「にしてもすごい赤髪だねぇ、お花みたい」
「な、おい触んな……!」

 初めての感覚に自分の中で何が起こったのか分からずぼうっとしてしまった俺の髪をソイツはまるで呆気に取られ目を丸くした野良猫にでもするように乱雑に撫でた。いや、コイツにはそう見えていたのかもしれない。誰にも心を開かず誰彼構わず威嚇する、獣とでも。

 お花、こんなにガラ悪くないよ!なんて失礼な抗議をする古代種に「えーそう?」なんて俺に邪険にされたって気にも止めずソイツは言った。女の手を振り払った腕も、体のどこにも変化はない。背後の扉だって俺が入って来た時と同じままだ。……さっきのは一体何だったのか。答えを探そうにもその手掛かりすら今はもう完全に消えてしまっていた。

「……はいレノです、と」
『レノ、エアリスと一緒か?』
「もちろんだぞ、と」

 ポケットの携帯が鳴りそれを耳に当てれば電話の相手はツォンさんだった。俺は降り掛かった違和感を気のせいにして、いつもの調子で受け答えしていく。……やはり、自分の中で変わったものなんて見当たらなかった。

『そこにタークスの女はいないか』
「…」

 ちらりとその言葉を指す可能性のあるソイツを見れば、それだけで全てを察したように女は「シー!」と口元に人差し指を当てていた。その仕草に俺の中でその可能性は確定へとシフトする。まるでツォンさんが自分を探していることをわかっているかのようだ。……なんだ、ただのサボりかよ。そう思えば、続く言葉なんて決まっていた。

「いるぞ、と」
「あ、バラしやがった」

 額の仕返しだと言わんばかりに躊躇いもせずにチクリを入れれば「あーあ」なんて対して残念がってもいない口調でエアリスと顔を見合わせる女に、耳元からはそんな彼女を目の前で見ているかのようにツォンさんが酷く深いため息を吐いた。

『今すぐエアリスを家に帰して彼女を連れて戻って来てくれ』
「……それは仕事か?」

 タークスの任務でも古代種の確保は最重要案件だ。いくらこのガキを長い目で見てるとはいえ、それを強制的に終わらせてまでこの女をわざわざ俺が連れ帰る意図が分からない。ただ単に帰るよう伝える、とかでもいいんじゃないのか。サボっているとはいえ招集されて断るようじゃそれは単なる職務放棄だ。この女がそこまでするようにはとても見えなかった。

『いや、頼み……だな』

 いくらか声を落とすツォンさんの力のない声に咄嗟にツォンさんの女なのかとも思ったが、その声音からどうにも“訳あり”な気配がして深くは聞かず了承の返事をして電話を切った。

「おい、帰るぞ、…ッてえ!?」

 言われてしまった以上、引き受けてしまった以上今日に限ってはこの“面倒な頼み”を完遂しなくてはならない。それなのに、そんな俺の脛に与えられた容赦ない痛みに再び目尻に涙が浮かんだ。っとに何なんだよ今日は!?
 痛みにもがきそこを押さえながら顔を上げれば、ベーっと舌を出し俺に喧嘩を売る古代種と、「痛そ〜」と苦笑を浮かべる女がいた。いや、痛いは痛いがアンタのデコピンの方が千倍は痛かったからなクソ女!ったく、これっきりだ。こんなおてんばどもに振り回されるのは。意地でも二度と関わるもんかと、俺は固く決意した。

 その日からしばらくが経った。出会った日に共にビルへと戻ったにも関わらず、アイツは「ツォンの小言は聞き飽きた」と本部に寄ることなく俺に手を振りどこかへ消えて行った。タークスは忙しい。ほぼ外に出ずっぱりで営業担当顔負けだ。だから、もう次の日にはあんな女の事はきれいさっぱり忘れていた。あっという間に数ヶ月が過ぎ、俺が入ってから一年が経とうとしていたある日、ふとにアイツに会ったのは本当にあれっきりだった事に気が付いた。
 二度と関わるまいと思ったというのに、一度気にかけてしまうと何となく今日もいない、まだ会わないのか、なんて思う日々に突入した。当然、それまで会うことのなかった奴に数日で会うはずもなく、あっという間にあの日と同じ冷たい空気の漂う季節になっていた。

「あ、」
「あれー久しぶり」

 朝、いつものように本部に出社した俺の目の前に前触れもなく現れたのはあの日の女だった。軽く挨拶をしてくるソイツに、にわかにあの日の出来事すら曖昧になっていた俺は本当にいたんだと非現実な思考に駆られていた。

「何?人をお化けみたいに」
「……別に、そんなんじゃないぞ、と」

 つい思っていたことが口に出ていたか、それとも顔に出ていたか。やはりけらけらと笑う女に罰の悪くなった俺は、ヴェルド主任が本部にいないことを見てそのままソイツの横にいるツォンさんに今日の仕事をもらうため近いた。

「まーたそんな顔してる、の?」

 必然的に隣に立ったソイツの掲げられた腕を掴んだ。二度と同じ手を喰らうか……と言う目論見だったのだが、視線の交わったソイツの目は一つ、大きく瞬きをした。一瞬にして微妙な空気が流れた刹那、糸を切ったようにソイツは笑い出し、今度は俺が大きく瞬きをする羽目になった。

「髪、撫でるのもだめか」
「……当たり前だろ、と」
「もうデコピンはしないよ?」

 ふふ、と未だ笑いを引きづりながらそう言う女にチッと舌打ちをこぼして腕を離す。それを見ていたツォンさんもまた数秒前の俺らみたいな顔をして、そして軽く握った手を口元に当て肩を揺らした。くそ、調子狂うったりゃありゃしねえ。

「同行者はレノに任せるとしよう」
「え、いいの?行かなくて」
「ああ、代わりに伝えてくれ──おめでとう、と」

 伍番街スラム、教会。一年前と、同じ場所。俺の意見なんか元からなかった、と言うかまぁ反対もしなかったわけだが二人並んでそこへ向かった。──二月七日、古代種であるエアリスの誕生日。今日という日、そして昨年の俺たちが出会った日、らしい。さすがに俺は日付までもを覚えていたわけじゃなかった。だがこの日だけコイツはエアリスの元へと向かうらしいことを道すがら聞いた。だから「おめでとう」か。と一人納得し、誕生日ねえ、と唾を吐く。どうにも俺には二人の感覚は理解出来そうになかった。

 その中でこの一年何をやっていたのかを聞こうとしたがやめた。秘密のお仕事が多いタークスにとって互いの仕事を詮索することはタブーみたいなものだし、コイツが“訳あり”なのも一年前に知っている。関わらないと言いつつ関わってしまったが、深入りはしたくなかった。なかった、が、俺はこの後この一年コイツが何をしていたのかを知る羽目になり、そしてこれからほぼ毎日顔を合わせる事になる。


◇◆◇◆


 丸っこい最低限の座面しかない椅子に座り片足を上げたそこに肘をついた。神羅ビルのとある階にあるとある白い部屋で、白い安物のベッドに座った色の薄い病院服を纏った女は、相変わらず何が面白いのか、口元の笑みを隠そうとも消そうともせず口を開いた。

「私、休職中なんだよね」

 聞いてもいないことを話し出したコイツの声は軽く、弾んでさえいた。なんでも過去に倒れてそのままこの状態になったらしい。言動からはどこも異常があるようには見えないが、本人も「ツォンが過保護すぎて」とそこだけは困ったように笑った。

「と言うわけで暇な私の“話し相手役”、頑張ってね」

 一日の空いてる時間に顔を出すだけの決まりも強制力も薄い任務だった。これまではツォンさんが行っていたが、めでたく俺にそのお役目が回って来たと言うわけだ。なんでこんなことに。やっぱり関わるんじゃなかったと、俺の直感は間違ってなかったのだと一年越しに知った。

「どんな仕事も、楽しんだらいいよ」

 ソイツの、そんな言葉がやたらと耳に残ったのを、今でも覚えている。


◇◆◇◆


 最近変わったな。そう言われたのは今日の任務でのことだった。同期で何かと共に仕事を任されることも多いが仲良しこよしには程遠く、あまり会話という会話もなかった。まぁ別に嫌っていた訳でもないし怪訝にしていたわけじゃないが、この頃はライバル視の方が強かったと思う。十年後には互いに「相棒」なんて呼び合う未来は、まだまだ見えちゃいない。そんなルードが移動途中珍しくしゃべりかけて来たと思ったらそんなことを言われ、無自覚な俺は素直に「そうか?」と首を傾げた。

「ああ、爪切りでもしたか」
「は?」

 ルードの言葉に自らの爪を見る。コイツ俺の爪事情把握してんのかと思ったが「比喩だ」と言うから要は丸くなったとでも言いたいんだろう。別に、初めから尖ってたつもり……はなくはないが、それを表に出していたつもりはなかった。まぁその辺りはさすがにタークスになる人間には隠し通せはしなかったと言うことか。これは完全にこの組織を少し甘く見積もりすぎてたと言わざる得ない。

 そしてルードの言う通り俺がもしその言葉を借りるなら、爪を切ったのは病室に篭るアイツなのだろう。俺が“話し相手役”に任命されてから数ヶ月。俺は、あの場所に行くのが日課となり、少し、楽しみになっていた。

 どう言う心境の変化かと問われれば答え辛くもあるが、アイツの傍はなんとなく居心地が良かった。いつ行っても陽だまりに包まれるような、そんな場所。こりゃ完全に絆されちまったな、とアイツに出会った日の俺が嘲笑う。今の俺だってそう思わなくもない。だけど、一度“鍵の開いてしまったそこ”はもう閉められそうにない。この暖かさを、知ってしまったから。人間そんなもんだろ。なんだかんだ自分に甘い。だけど俺はわかってなかった。これから始まる──本当の“面倒事”を。


「──…」

 柔らかな掌が俺の頭を行ったり来たりしていた。撫でると言うよりは髪を梳き、時たま束を摘んでみたり、遊ばれているに近いがどこまでも優しい手つきだった。そういや初めて会った日に俺の髪を見て『花みたい』と言ったんだか。確かに、俺が寝ている時の扱いはそんな感じだった。それが、どこまでも心地良い。

 開けた窓から秋の風が鼻腔に花の香りを届け、俺は微睡で一つ息をする。乾いた空気は微かにひんやりとした冷たさを孕んでいた。──もうすぐ、三度目の冬が来る。

 肺いっぱいに広がった甘く冷ややかなそれに、俺は逆立つ毛を撫で下ろすどころか、ルードに言われた通り爪も、そして牙もソイツの前ではただの虚飾となっていた。全く、蓋を開けてみればとんだ猛獣使いだった。この女は。ツォンさんも、こうして絆された口なのだろうか。この時俺はまだまだ浅はかで、目に見えたものしか見えてないただのガキだった。なぜツォンさんがあの時『頼む』と言ったのか。俺はまだ、知らない。

「あ、やっと起きたね問題児くん」

 職務怠慢だぞ、とこいつ特有の笑いを聞きながら顔を上げ彼女が撫でていた場所を掻く。ほんわりと暖かさを感じたのは日差しの影響か、それとも別の何か。肌か、それとも別の場所か、寝ぼけた思考では分からなかった。

「今何時だ」
「うーん、もうすぐ十三時。そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
「そうだな」

 うんと背中をのけ反らせ伸ばせば、同じ姿勢をしていた背骨が一つ鳴る。身体の突っ張りを心地よく感じてから吐く息と同時にその天井に掲げた腕を下げた。行くか、と両膝をパシッと叩けば、ソイツの視線が気になった。

「羨ましそうだな」

 ふと、なんとなく思ったことを口にすれば、その瞳が大きく開き言ったこっちが驚いた。

「羨ましいのか?」

 今度は疑問形で同じ言葉を発した。そこにいつもの笑みはない。あったのはツォンさんが過保護だと言った時の、困ったような笑みだった。

「まぁ、丸一日病院にいる生活してるとね」
「そりゃそうか」

 俺だったら耐えられねえなと部屋を見回せば、そこはさながら真っ白なワンルームマンションのようだ。キッチンはないがトイレもシャワー室も完備された階級の上のやつしか利用できない病室には、ベッドの他には俺の座っている椅子と辛うじて呼べるものと木製の棚、その上に生けられた花だけ。ツォンさんが勝手にやっていただけであろうこの任務がなければ、こいつはただ一人ここで長い長い一日を過ごすことになる。

「ちょっと、レノ……!?」

 思い立ったらすぐ行動。俺はこいつの手を取り立ち上がった。戸惑う彼女に、歯を見せて笑った。

「ツォンさんには内緒な」

 見開いた彼女の目が、キラキラと光って眩しかった。




───・・・


「──」

 幻の名前を呼ぶ。返事はない。当然か、と思いつつも寂しさは拭えなかった。達観した眼差しから放つ雰囲気は彼女の本来ならまだあどけなさも青さも、あるはずのものを打ち消している。それは、今の俺だからこそ思うものだ。当時同じ歳くらいの俺がそんなものに気付くはずはない。それでも、明るい彼女の瞳に宿る希望がその日限りのものだということは気付いた。いや、気付いてしまった。こいつの希望は、──未来にはない。

「バカだったよな、お互い」

 いや、若かったと言うべきか。あの数日間の俺たちは秘密を共有する共犯者であり、周りの見えない子供だった。それに浮かれていたのは俺も、きっとこいつも変わらない。──楽しかった。あそこまでそう思った任務は後にも先にもなかったと思えるほどに。だけど、間違いだった。それをいうとアンタは怒る……いや、また困ったように笑うんだろうな。だけど、そう思わずにはいられなかったんだ。少なくとも、すでにアンタを好いていた俺は。

 自分の掌を見つめれば、そこにひらりとひとひらの花びらが落ちて来た。指で摘めば柔らかなそれはまるであいつの掌のようだった。いや、あいつの人生、と言った方が正しいかもしれない。あいつだけじゃない。生きとし生けるものは、こうして月日を消費している。これは、俺たちの過ぎ去ったもののような気がして、ギュッと、握り締めた。俺の後悔と、一緒に。



───・・・



 もうすでに通い慣れた道すがら、エレベーターを降りてからその異変を察知するのに時間は掛からなかった。医療班の連中が入れ違い立ち替わり忙しなくしている。先生はまだか、早く連絡を、聞いたこともない装置や薬品の名前が怒号まじりに飛び交いさながら戦場のように静けさとは無縁だった。

 入院中の誰かに何かあったんだろうな、とそいつらを横目に歩いても、そいつらは俺を追い越し駆けずり回る。おいおい、他にも患者はいるだろ、なんて思いながらも俺は数日前の出来事に想いを馳せていた。

 初めて彼女を自分の任務に同行させれば、まぁよく出来た“先輩”で拍子抜けした。休職させてるのが勿体ないくらいに戦闘も頭のキレも申し分ない。「タークスの心得、覚えときなさい」とナメてかかって来た大男をいとも簡単にボコボコにしたあいつにおっかねえ、と笑ったのを思い出して口元が緩む。最高だ。そう思った俺はそれ以降単独任務の度に上には内緒であいつを連れ出していた。そして今日も、そのつもりだった。

 あいつの病室に向かう廊下の角を曲がった真ん中あたり、右側の部屋にあいつはいる。フロアの奥まった場所にあるため三度、角を曲がる必要があった。道中、手の中のツォンさん経由で受け取った古代種からの一輪の花を指で遊ぶ。それはさながらこの後の時間が待ち切れないとでも言ってるようだった。

「…」

 最後の角を曲がりあいつの病室に差し掛かろうとして足が止まった。思考もだ。このフロアに来て少しした後から鳴り響く喧騒……それが、あいつの病室から一際大きく聞こえていた。

 俺の手から花が音もなく滑り落ち、グシャ、と無機質な廊下に軽く跳ねて横たわる。それが合図かのように、糸を切ったように駆け出した。開けっ放しになった扉を突き抜ければ、一つのベッドを大勢の医者が囲んでいた。俺の手から落ちた花のように横たわる人物の顔は窺えない。

 さっきも聞いていた医者の怒号まじりな声は先ほどよりもだいぶ近いというのに、その声をかき分け嫌な機械音がダイレクトに俺の脳に響いていた。これは、俺の心臓の音か?そんな錯覚さえ覚えるほど気が動転していた。ゆっくり、ゆっくり医者たちの間を縫ってその人物を確認できる位置に移動する。──どうか、あいつじゃありませんように。無意識にそう願っていた。そんなこと……あるはずもないのに。

──彼女だった。当然だ。俺が部屋を間違えるわけもないし、部屋が変わったなんて話も聞いていない。腕に何本もの点滴を繋がれ、口元は酸素マスクに覆われて呼吸の度に曇っている。それだけでそいつの息の荒さが窺えた。

 前髪が汗で張り付き苦しみを堪えるように固く閉ざされていた瞳が微かに開き、俺を捕らえる。ドクン、と一際大きく自分の心臓が脈打った。──これは、誰だ?知らない。俺は、陽だまりみたいな暖かさを放ち微笑む顔や、何が楽しいのかこっちが分からない時でもけらけらと笑ったりする顔しか、俺は。

「!」

 ゆっくりと何十キロもあるかのように重たそうに持ち上がった腕、その先の掌が俺に伸びる。息を吸った時に見えた口角は上がり──俺の名を紡いだ。

「──!!」
「外に出てください!」

 名前を呼んで駆け寄ろうとした俺に医者の一人が両肩を押してぐいぐいと俺を外へ追いやろうとする。それを跳ね除ければ、また一人二人と暴れる俺を押さえつけるように人が増え、病室の外からも次々と人が押し寄せては俺をあいつに近付かせまいとした。

 うるせえ。鼓膜に、脳に、全身に声が響いていた。何度も、何度も、何度も叫んでいた。うるせえ。耳障りだ。全部、何もかも。俺は、あいつの手を握らなくちゃいけないんだ。俺に向けられた、いつも俺の髪を撫でる手を、俺は。黙れよ、黙れって言ってんだ……!!

 だけどそれは苛立つ俺を無視し続けた。それもそうだ。だってそれは、馬鹿の一つ覚えのようにあいつを呼ぶ──俺の声だったから。



◇◆◇◆



 静かだった。陽が沈んだというのにカーテンの開けっ放しな窓からは天高く上がった月の光が眠ったままの彼女の横顔と、いつもの椅子に座り項垂れた俺の背中を照らしていた。
 容赦なく打ち付けられた左頬がジンジンと痛む。まるでそこにも心臓があるみたいだった。それはあの後医者の連絡を受け駆けつけたツォンさんが、未だこいつの名前を呼び暴れる俺を冷静にさせるために殴った痕だった。

「──彼女は、心臓が悪い」

 容態が落ち着き病室に入りいつもの席に座った俺とは別に、別室にて医師の話を聞き終え俺の横に立ちこいつを見下ろしたツォンさんはそう切り出した。

「前にもこうして倒れた。俺との任務中だったな、あれは」

 思い出話をするにしては暗い声だった。

「いつ死んでもおかしくない、そう言われた」

 いつか、『ツォンは過保護すぎる』と言ったこいつを思い出した。ツォンさんが俺に『頼みだ』と言った言葉も。当然だ、と思った。あんな姿を間近で見て、そんな事を言われて、平気で働かせられるわけがない。ツォンさんは正しく、そして俺は、大馬鹿野郎だった。

「エアリスがなぜ彼女に懐いているか、分かるか」

 俯き自分を殴り殺したい衝動を抑え込んでる俺はもはや声を発することもやめていた。それに構わずツォンさんは言葉を続ける。

「『私もうすぐ死ぬから、友達になって欲しいの』」
「…」
「そう言った。俺の目の前でな」

 口の端から出た息は笑みか、自嘲か。その時にいたのが俺じゃなくて良かったと心底思った。いや、それが俺だったとしたなら、恐らく今日こいつはこうなってなかったのかもしれない。そう思うと複雑さが拭えなかった。

「その後俺は半ば無理やり彼女を休職扱いにして入院させた。外に出るのはエアリスの誕生日だけ。俺と同伴という条件で、だ」

 一人の時に倒れられても困るからな、とツォンさんは付け足した。そして俺がこいつに出会った日──エアリスの誕生日の日は、どうしてもツォンさんが外せない任務を請け負ってしまったが故に中止、となったのだが、こいつは一人古代種の元へ赴いた、ということらしい。

「有能な人材をみすみす見殺しには出来なかった。いや、大事な同僚──友人を」

 例え、彼女の意志に反しても。その言葉はやたらと俺の肩にのしかかった。こいつは外が好きなんだ。それだけじゃない。仕事も、人も、花も、全て。ここから連れ出した時の眩しいくらいの瞳がはっきりと物語っていた。それを、ツォンさんも知っている。だからこそ天秤にかけ悩み苦しんでいるんだ。きっと今この瞬間も何がこいつにとって最良で、最適解なのかを。

「俺は戻るが……お前は好きにしてくれ」

 明日は非番にしておく、と言い出口へと向かって行く。ふと扉を開いた所でその足が止まった。廊下の明かりが部屋に差し込みその眩しさに俯いたまま顔を顰めた。

「……悪かった」

 小さな小さな音を立て再び部屋が月明かりだけになる。その謝罪は一体何に向けたものなのか。俺を加減もせず殴ったことか、それともそんな大事なことを今まで黙っていたことか……それとも、俺にこんな役回りを当てたことか。答えをくれる奴は、もういなかった。


「!」

 ツォンさんが退出してからどれくらい経ったか、わずかに布が擦れる音がして俺は数時間ぶりに顔を上げた。顔を歪めかけられた布団揺れる。俺が立ち上がりベッドに手をついてその名前を呼べば、その瞳がゆっくりと開き、やがて俺を捕らえ……笑った。

「仕事は、楽しく……だよ」
「なに、言って」

 そこまで言ってハッとした。俺は、ツォンさんから言われた“仕事”でここに来ていた。いつしかそんなことは忘れていたが、俺は今、明らかに楽しんでる顔をしていないだろう。当たり前だ。こんな状況で楽しめる奴なんているわけない。
 だけどそれは、タークスとしての非道さや闇を慣らしめるための言葉のように聞こえた。まるで、自分の命を持って教えている──きっとその言葉を初めて言った時から、こいつはいつかこの状況が来ることを分かっていた。だから、もし自分が死んだとしても心を揺らすなと、そう言われてる気がした。

「お花、みたいだね」
「っ……」

 伸びた手が俺の頭を撫でる。初めて会った時よりも力なく、俺が眠っている時よりも、優しく。それに熱くなった目の奥を隠すようにシーツをギュッと握り締め、奥歯を噛み締めた。

「全部、聞いたんでしょ?」
「ああ、……おい!何やって、」

 俺が頷いたのを見てか、こいつは酸素マスクを外し上半身を起き上がらせようとした。咄嗟に肩に手を伸ばしそれを支える。暗闇の中、顔を上げたそいつと間近で視線が絡み合い、息を飲んだ。

「もう、ここには来なくていいよ」

 そいつから放たれた笑みも、声も、いつもと変わらなかった。だけど、その言葉だけが違っていて疎外感を俺に与えた。

「なんで、……俺が、あんたの病気を知ったからか?俺が……あんたが死ぬのを耐えられないと思ってるからかよ…っ…!」

 見捨てられる事に怯えながらも虚勢を張る獣のように全身が震えてる気がした。……耐えられるわけ、ない。だけどそれ以外、こいつがこんなことを言う理由が見つからなかった。ふざけんな。ここでお別れで、次にこいつの名前を聞く時はもう死んだ後で、会う時は、こいつはもうしゃべらない、笑わない。もう……俺をこんな風に見つめてはくれない。そんな事ってあるかよ……俺はもう、こんなにもこいつを──好きなのに。

「違うよ、レノ」

 だけど、こいつは首を横に振った。その顔は、いつもの困った笑みだった。

「ずっといつ死んでもいいように毎日笑ってようと思った。この日が最後、明日はもう目覚めない。そう思って毎日生きてた」

 言葉が、出なかった。そんな言葉すら笑って話すこいつは、まるで自分にそんな呪いをかけてるように俺には見えた。

「ツォンが心配してくれてるのも知ってる。こんな個室にいさせてもらって、治療を受けさせてもらえるのも、すごく感謝してるの」

 だから、例え外に出たくてもそれは恵まれた自分にとってはただの我が儘だと思っているかのようだった。「まぁ、たまに反抗しちゃうけど」と肩を竦めたこいつは十分過ぎるほどわかっているんだ。自分がツォンさんを、あんな過保護にしてしまっていることを。それを……酷く後めたく思うくらいには。

「後悔したくなくて、神羅にくれば大変な目に合うだろうエアリスにも少しでも今を笑っていて欲しくて、タークスって自分を抜きにして友達にもなってもらった」

 彼女の誕生日を祝えなくなるのは少し残念だけど、それでも悔いが残らないようにその日はたくさん話をしてる。そう、棚に飾られた花を見て微かに目を細めた。

「死ぬ準備はとっくに出来てた」

 そう、伏せた視線が俺に向けられる。

「あなたに、出会うまでは」

 最初は先輩風を吹かせようと思っただけだった。あんまりにも、その綺麗な瞳が、沈んでいるように見えたから。少しでも、今を、未来を見据えて欲しかった。私には見ることの出来ない、未来を。

「だけどね、なんでだろ。いつの間にか楽しみにしてた。レノが来てくれるの」

 明日はなに話そう。でもレノのことだからまた寝ちゃうかも。でも、それでもいい。ただ、傍にいられれば。

「任務に連れってってくれた時ね、この部屋から外に連れ出してくれる王子様に見えたんだよ」

 レノが手を引いてくれた瞬間、全てが輝いて見えた。壊れかけた心臓が、まだ生きてるって叫んでた。そしてこの気持ちに気付いた。気付いてしまった。

「まだ、死にたくないって思っちゃった」

 だけどそれは叶わない。そう思えば今まで確かに持っていた“覚悟”はいとも簡単に崩れ落ちた。乱れた情緒は想像した以上のダメージを私の心臓に与えた。そして、今日の発作に繋がってしまった。

「私、どんどん我が儘になっていっちゃう」

 叶わない願いを抱いてしまう。だから、

「だから、もう来ないで」

 そう言って、俺の頬を撫でた。ツォンさんに殴られ切れた口の端を見て一瞬、その瞳が曇る。そして小さく「ごめん」と呟いた。まるで、これが最後だとでも言うように。それを黙って聞いていた俺は一つ、息を吐いた。──苛立っていた。これまでこいつの入院してる理由を問い詰めなかった自分、ただ心地よさに身を委ねるだけだった呑気な自分、そして、自分の明日を否定し自分を願いを蔑ろにして、しまいには勝手に俺たちの関係を終わらせようとする、こいつに。

「ッい、た……な、なんで」

 どうして額を弾かれたのか、分からないという顔だ。ふざけんな。俺の尖った部分にも、ツォンさんの想いにも、自分のわがままにも気付いておいて、なんで分からねえんだよ。それが……わがままでも何でもなくて、ほぼ全ての人間が当然のように抱く感情だって事を。

「好きだ」

 瞬いていた瞳が、俺の言葉と真っ直ぐにそこを見つめた視線に更にゆっくり、でも確かに開かれていく。時が止まったかの様に見つめ合う俺たちの間に静かな静寂が流れる。それを破ったのは、音もなく流れる彼女の涙だった。

「レノは、意地悪だね」

 俯き顔を隠すように俺が弾いた額を押えたそいつは何かを思案し、ぐっと歯を食いしばったと同時にそこにあった髪を握った。堪えるように、耐えるように、押し込むように。こいつは今まで何度、こうして自分の感情を殺して来たんだろうか。
 "今を生きる"なんて綺麗事に聞こえるそれは、俺から言わせりゃただの諦めだ。いつ死ぬか分からないから笑ってる?なんだそりゃ。バカくせえ。いつ死ぬか分からないなら、もっと我が儘を言えよ。泣いて、怒って、欲しいものを叫ぶくらいしてみせろ。俺みたいに、そいつが縋るように握り締めてたもんを全て踏みにじって告白するぐらいしろよ。

「今気付いたのかよ」
「……私、死ぬんだよ」
「俺だって明日の任務で死ぬかもしれないだろ」

 正論だ。いつ死ぬかなんて誰にも分からない。一般人だって明日隕石に当たって死ぬかもしれないだろ。そう言えば彼女は「なにそれ」と俯いたまま小さく笑った。それもそうか。普通の奴は情緒が乱れたぐらいで勝手に死にやしない。俺だってわかってる。こんな言葉がずっと死と手を繋いで歩いて来た人間に、響かない事くらい。

「ならせめて、明日まで生きろよ」
「え……?」

 そう言って膝に置かれた彼女の手に触れた。顔を上げたそいつの濡れた頬を反対の手で撫でて、俺は笑った。

「明日まで、俺と生きてくれ」

 何年、何十年が難しいなら、たった一日でいい。明日になればまた、俺は同じ言葉をあんたに言うから。また次の日も、そのまた次の日も。俺のこの願いで、たった一日を一緒に歩いてくれ。

「簡単だろ、と」
「……っ、そうだね」

 目にいっぱい涙をためながら、ぽろぽろ零しながら、月明かりきらきら反射させながら……彼女は笑った。

 綺麗だった。何かを見てそう思ったのは初めてだ。きっと後にも先にも、俺はこれ程に綺麗なものを拝めやしないんだろうと、この時思った。



───・・・



 それからはあいつをよく外に連れ出した。勿論、身体に負担の掛かる事はさせてない。時にはあいつをおぶって戦闘をしたりもした。そんな時は彼女の笑う声が耳に直接響いて、なんだか俺まで楽しくなったりもした。

「安心しろよ。もう大丈夫だぞ、と」

 その幻の頬に触れて、いや触れられはしなかったが、手を添えてあの頃の彼女に微笑む。もうアンタがいないように、あの頃の俺だってもういない。痛みも知らず、失う恐怖も知らず、願うことすら知らなかった俺は。だから──


「──だから、さよならだ」


 そっとその唇に口付けて、別れを告げる。一筋の涙がキラキラと窓をすり抜け雨の降る空へと消えていく。その視線を彼女に戻せば、もうそこに、愛した幻はいなかった。

 ちくりと胸が痛む。例え幻だって、彼女を失ったのだから当然だ。……全く、俺はどんだけ貪欲なんだよ。今も、昔も。でもだからこそあの日々がある。小さくて、何気なくて、当たり前みたいに繰り返す日々は、奇跡の塊だった。そしてその積み重ねた奇跡と願いの先に──今がある。

「レノ、」

 呼ばれた声に振り返る。瞬間、呼吸が止まった。俺は、あの日以上に綺麗だと思うモノに出会っていない。もう出会う事なんてないとさえ思っていた。だけど、目の前の圧倒的な純白に瞬きすら忘れた。

「似合う?」

 そう小首を傾げる彼女の笑みは、先程まで会っていた幻よりも年齢を重ね、大人びた雰囲気がようやく追い付いたようだった。そしてその輝く瞳は──確かに"未来"を見ていた。

「ああ、最高にな」

 そう微笑めば、より一層彼女は美しく笑った。純白のウエディングドレス、俺はタキシード。世界はまだまだ平穏には程遠い。だけど復興に歩き出した俺たちは今日、式を挙げる。

 メテオ災害の時、神羅ビルにいた俺たちをライフストリームが包み込んだ。それに触れた瞬間倒れ込んだ彼女に、俺の心臓は止まりかけた。だがやがて目覚めたこいつはこう言った。──「女神に会った」と。

 死にかけて頭でもおかしくなったのかと思ったが、彼女がまだ生きてる事に心底ほっとしたのもつかの間。そいつは走り出した。突然、前触れもなく、全速力で。焦った俺と、一緒にいたルードはそりゃもう慌てて追い掛け、その腕を掴んだ。そんな運動をすれば、何が起こるか分からなかったから。
 だけど振り返った彼女は、信じられないくらい……いや、信じられなかった。彼女が叫んだ「治った!」という言葉を。

 いつ死ぬか分からないと言われた彼女が、本当に奇跡を手に入れちまった。神様だか女神様だかも、こいつを愛してくれた。俺から、奪わないでくれた。喜びはしゃぐそいつに、なぜだか俺が、咽び泣いた。

「ありがとう、レノ」
「あ?なんだよいきなり」

 その言葉が「綺麗だ」と言った事に対してじゃないことは見下ろしたその表情で分かった。

「私に我が儘を言わせてくれて」

 それはいつかの夜の話で、きっとそこからの日々の事だった。我が儘、なんて大層なモノじゃないと言ったのに、彼女は未だにその言葉を口にする。だけどそれでもよかった。だって、我儘なんて誰かがいなきゃ成り立たないものだ。俺がこいつが居なければ知ることが出来なかった事があるように、こいつも俺がいなければそれを言うことが出来なかった。……そう思えば、今更そんな言葉を否定なんかしない。

「いくらだって聞いてやる。十年二十年、三十年後だってな。簡単だろ」
「……そうだね」

 あえてそう言った。だからこいつも、あえてそう返したんだろう。もう、明日だけなんて言葉は言わない。瞳が潤んだってやっぱり笑うこの笑顔だってもう呪いなんかじゃない。それはずっと見てきた俺が言うんだ。誰にも否定はさせねえ。そう言えるだけの年月を、俺たちは過ごしていた。

 どちらかともなく手を繋ぎ部屋を後にする。建物の扉を開ければ季節柄仕方ないとはいえそれなりの雨が降っていた。俺は立てかけてあった大きめの傘を広げ彼女の肩を抱く。

「行くか」
「うん、行こ……、!」

 教会内で待つ見知った顔共の元へ一歩踏み出す、その刹那、彼女の足が止まった。不思議に思い見下ろせばそいつは逆に雨の振り続く空を見上げていた。

「声、」
「声?」

 うわ言のように呟いた言葉のあと、俺は自分の耳を疑った。……音が、しない。パッと彼女が見上げる先に視線を向ければそこに雨はなく、ただ空から差し込む光があった。

「嘘だろ……」
「っ、ありがとう、エアリス……っ」

 彼女から出たのは死んだこいつの友人名前で、瞠目し見たその先で俺は更にその目を見開いた。どんなに目に涙を浮かべたって笑ってたこいつが顔を覆い、声を震わせて泣いていたから。これはきっと、奇跡でもなんでもない。自然と、そう思った。

「わ……!」

 不要になった傘を投げ捨て、そんな彼女を腰から抱き上げればその手が反射的に俺の肩に添えられた。そのままぐるりと一周回ればふわりとその裾が花のように揺れて俺の身体をなぞり、やがて静かに凪いだ。驚いたその身体を抱えたまま濡れた頬にそっとキスをして、俺は眩しさに目を細めた。──ああ、やっぱり綺麗だ。
 見上げた彼女の背景は俺たちが出会った教会と、十字に掛かる七色の虹。ふっ、と俺が笑えば、彼女は顔を歪め瞳の奥を滲ませて俺の首に目一杯しがみつくように抱き付いた。

「好き…っ…愛してるよ、レノ」
「ああ、俺も……あんたを愛してる」

 噛み締めていた。この想いを、この時間を。噛み締めて、噛み締めまくって、彼女を抱く腕にぎゅっと力を込めてそう言った。くるりと巻かれた髪が頬に触れて少しくすぐったい。だけど──死ぬほど幸せだと思った。

「全く、気が早いなお前たちは」

 なかなか俺たちが教会内に現れないからか、様子を見に出て来たツォンさんが抱き合う俺たちを見るなりそうため息を吐いた。だけどそこに含んだ呆れなんてほんの少しで、直ぐに「おめでとう」と口角を上げた。
 そんな事をしていたら中にいた奴らがぞろぞろと澄み渡った空の下に現れた。誰かが言った。──「永遠を誓いますか」と。


「誓います!」
「誓うぞ、と!」


 俺たちは笑い合い天高くそう宣言して口付けをした。はらはらと俺たちの頭上から舞い散る花弁は過ぎ去った過去なんかじゃない。これはきっと、この先俺たちが二人で掴む── 祝福みらいだ。









NOT ALONE