「おいマスター、こりゃ如何いう事だ」
「済みません、中也さん」
俺は何時もの店に着いて目の前の惨劇にそう嘆かずには居られなかった。昼前にナマエの会社で此奴に会ってから結構な時間が経っていた。仕事であの会社に行き、首領への報告やら何やらで予定より遅くなってしまったのは否めない。
正直ああは云ったがナマエが来てくれる保証なんてこれっぽっちも無かった。だからこの店に入った瞬間、何時もの席に座ったナマエを見てホッとした。だがそんなモノは一瞬で吹き飛んだ。
「・・もう、飲めにゃい」
一升瓶を握り締めたまま、そう目を閉じているナマエに思わずため息が出た。
「止めたのですが接客中に勝手にカウンターに入って盗まれました」
「そりゃ災難だったな・・」
状況を見てマスターに心底同情した。そしてナマエの横に座れば寝顔が直ぐ近くにあって思わず笑った。
「此方の気も知らねぇで」
「んぐ・・中也の、莫迦」
その頬を人差し指で突けば、そんな声が聞こえた。
此奴に初めて会ったのは本当に偶然だった。仕事帰りに偶々入った店に此奴はいた。不思議な位一瞬で此奴を見付けた。其れこそ知り合いを見付けたかの様に。
俺は其奴から四つ離れた席に座った。直ぐ様マスターが注文を取りに来て、俺は好きな葡萄酒を頼んだ。そしてマスターと話すその女の声が聞こえた。
「マスター、あれ未成年じゃない?」
正直カチンと来た。殆ど囁く様な声だったが、無意識に耳を傾けていた俺はその言葉をハッキリと耳にした。
何処ぞの木偶であったならこの瞬間に殺してやってる処だが生憎そうもいかない。俺は勢いに任せて葡萄酒を流し込んでいき、立ち上がった。
「俺は二十二だ」
未成年じゃねえ、と云わんばかりにそう云ってやった。そしたらこの女は笑顔で一言だけ云って視線を戻した。当たり障りの無い感情の余り無い笑顔だ。それを俺は知っている。自分もよく使う笑顔だったから。
彼女から発せられる雰囲気は話し掛けるなとでも云わんばかりだったが、俺は其処へ居続けた。俺に向けられた笑顔では無く、先ほど店に入って来た時に見たマスターと話す楽しそうなその顔が見たいだなんて、俺は少し飲み過ぎたみたいだ。
「なんでこんな場所で女一人で呑んでるんだ」
気付いたら言葉を発していた。だが我ながら最もな質問だと思った。こんな裏社会の人間しか近寄らない裏通りにある店に、明らかに浮いた一般人の匂いしかしない女。だからこそ目を引いたのかも知れない。
「ナマエさんは私しか友達が居ないので」
「ちょっとマスター!」
彼女の代わりにマスターがそう答えを返して来た。それに女は目くじらを立てて机を一つ叩く。
(ナマエ、か)
一つ二つ遣り取りをして笑った。彼女の表情がさっきとは違う、本当の彼女のモノの気がしたからだ。
「俺は中原中也」
「え?」
「宜しくな、ナマエ」
俺達はこうして始まった。其れから俺は時間が取れればその店へと足を運んだ。そうすれば粗方ナマエはその店に居た。本当に友達いねぇんだな、なんて思いながらもその横へ座ってたわい無い会話をした。
ある時ナマエの会社の近くで事件が有ったと云う話しになった。彼女は「異能者が絡んでるらしい」と云い「そんな人本当に居るのか」と笑った。
だから不要で有るにも関わらず俺は自分が異能力者である事を話した。今思えば俺の事を少しでも彼女に知って欲しかったのかも知れない。出なければ仕事柄そんな事を、況してや一般人に口走ったりするはず無いからだ。
「何、今時はそれ云うとモテるの?」
だが彼女は莫迦にした様にそう云った。俺の言葉を信じて無いのだ。つくづく腹の立つ女だと思いつつ手袋を外した人差し指で彼女の腕に触れた。
「ん?」
「俺を莫迦にした事を後悔しろよ?」
不敵に笑って彼女の重力を無くした。すると彼女の身体がフワリと宙に浮かんだ。
「嘘!?嘘でしょ!?」
店には俺達とマスターしかいない。マスターは流石裏通りにある店のマスター。それを見ても眉一つ動かさない。
「どうだ?俺に謝る気に、」
「あはは!何これ!凄い!」
ハッと笑って云おうとした言葉は彼女の笑い声に掻き消された。
「見てマスター!私浮いてる!」
「浮いてますね」
「おいおい・・」
ビビらせる筈が喜ばせてしまった様だった。はぁ、とその度胸に関心しつつも呆れたため息が漏れた。だが心底楽しそうにする彼女の笑顔を見ればまぁ良いかと思ってしまった。
「ほらよ」
「ん?」
彼女に手を差し出せばナマエは首を傾げた。
「さっさと降りて来い」
「えー、残念」
「莫迦云ってんじゃねぇよ、誰か来たらどうすんだ」
俺がそう云えばナマエは渋々俺の手を取った。ナマエの手が直接自分の手に触れて、そこから温かい光が浮かんだ気がした。スッと重力を取り戻したナマエを抱き留めて、愛おしさが込み上げた。
(俺は、此奴が好きなんだな)
間近で見たナマエに自然とそう思えて笑えた。
「お似合いですよ」
「な!」
ふとマスターがそう云ってナマエが慌てて俺から離れ席へと戻って行った。そして名残惜しむ手を握りしめて、その背中を見つめた。
「唯の飲み友達よ」
不貞腐れた様な声でそう云う彼女の言葉に胸がチクリと痛んだ気がした。
だがそんな風に思えば思うほど謎は深まるばかりだった。極普通の女だ。勿論良い意味で。ある時マスターと二人の時にその話しになって聞いた事がある。「何故ナマエには友達が居ないのか」と暫く一緒にいるが自分では其れほど大きな欠点がある様には見えなかったから。寧ろこんな感情を抱いた位だ。
だがマスターは云った「貴方はその彼女に一瞬しか会っていないからですよ」と。その時にはマスターの言葉の真意は判らず、宛ら自宅に持ち帰っての宿題の様になった。
そして一つの考えが浮かんだ。初めて言葉を交わした時に見た違和感だらけの笑顔に何かあるのか、と。
だがそれも今日ナマエの会社へ行って同僚と話す姿や俺への対応を見て思った。これが普段の彼女なのだ、と。作られた笑顔で過ごす方が圧倒的に彼女は多い。其れこそ、あの席以外の場所全てだ。
だからあの席にいる間の彼女の友達は居ない。あの場所でしか彼女は彼女で居られないから。彼女を一番に見付けたマスターを羨ましくも恨めしくも思った。
出来る事ならそれは自分が一番であって欲しかったと思ったからだ。だがそんなエゴも無意味だ。だってマスターと話している彼女を見付けなければ、俺の感情だって始まっていなかっただろうから。
「本当、好き勝手云ってくれるよな」
寝息を立てる彼女に頬杖を付いて語り掛けた。マスターは他の客への接待をしている。俺の声を聞いている奴は居ない。
「俺は、手前が」
−−好きなんだ。
もう唯の飲み仲間じゃ居られなくなってた。なのに此奴は応援するだの頑張れだの、まるで俺が眼中に入ってない様な言葉を並べた。
そしてナマエが店に来なくなって思った。俺はナマエの何も知らないんだ、と。名前と何処かの会社の受付嬢って事しか知らない。
連絡先も住んでる家も判らない。それで良く好きだなんて思えたモンだとも思ったが、好きなモノは仕方がない。
会いたくてナマエが来なくなった日以降も毎日あの店へ顔を出した。居ないと判っても突然来るかも知れないと一人唯座っていた。マスターもナマエの話しを自分からはして来ない。それが歯痒くて仕方無かった。
二人の唯一の接点であるこの店に来る事以外思い浮かばなかった俺は途方に暮れた。だが今日表向きは一般企業の会社へと商談に向かった時に受付の女がナマエだと気付いた時、思わず息が止まった。
「ずっと、待ってたんだぞ」
顔に掛かった髪を撫でれば、思わず目を細めた。思った以上に柔らかく滑らかに指を通り抜けたからだ。
「う〜ん・・」
するとナマエは顔を歪めてそう唸り声を上げた。その長い睫毛が揺れてゆっくりとその瞳が開かれた。
「・・中、也」
その瞳が俺を捉えて、思わず笑った。
「悪い、遅くなった」
そう微笑めばナマエは重そうに頭を抱えながら起き上がった。
「・・呑むか」
「は!?手前また呑む気か!?」
ふとそれが使命かの様に呟いてグラスに入った酒を口へ運ぶナマエの手を思わず掴んだ。
「手前何時から呑んでんだ・・」
「三時過ぎからです」
ナマエの代わりにマスターが答えをくれた。という事はかれこれ彼女は五、六時間飲みっぱなしという事か、と思わず頭を抱えたくなった。
「・・呑まなきゃ、云えないのよ」
「は?」
俯きながらボソッと零した言葉に首を傾げた。
「中也に、好きだって」
「!」
そしてナマエから出て来た言葉に目を見開いた。云おうとしていた言葉を先に云われて、言葉に詰まった。すると突然ナマエがキッと俺を睨み付けながら顔を上げた。
「あんたの恋なんて応援してやらないわよ!」
「はぁ!?」
なんだよ急に、と云うか手前は勘違いをしてるんだ。なんて言葉を云う隙は無かった。
「振られてしまえ!玉砕して砕け散ってしまえ!」
「おい、落ち着け・・」
「莫迦・・!本当、私・・っ」
そう云ってナマエは俯いて肩を震わせた。
「・・ナマエ、」
その肩に触れようとした瞬間、ナマエは勢い良く立ち上がって走って行ってしまった。一瞬呆気に取られて、それでもハッとして立ち上がった。
「また逃げられてたまるかよ・・!」
そして俺もその背を追って店の外へと飛び出した。
「ナマエ!」
その腕を捕まえるのに時間は掛からなかった。
「・・私、最低だよね」
振り返りもせずにナマエはそう声を漏らした。
「ナマエ、こっち向け」
「・・やだ」
俺の言葉にそう子供みたいに呟いてナマエは俯く。鼻をすする音がして泣いているのか、と思った。
「手前が云ったんだろ」
「え?」
そこでようやくナマエが顔を上げた。矢っ張り泣いていた。それにフッと笑ってそっとその頬に手を当てて涙を拭った。
「云う時は真剣に、相手の瞳を真っ直ぐ見て云えってな」
「何、云って」
潤んだ瞳を瞬かせてナマエはそう云った。多分俺が云おうとしている事が判って居ないんだろう。だから俺はナマエの瞳を真っ直ぐに見て、笑みを消した。
「俺は、ナマエが好きだ」
瞬いていた瞳が更に大きく開かれた。それに口角を上げた。
「残念だったな、俺は振られも玉砕もしねぇ」
「・・っ」
ようやく俺の言葉を理解したナマエは顔を歪め、そしてしがみつく様に俺の肩へとその顔を埋めた。
「・・本当、残念過ぎて泣ける」
「素直じゃねぇな」
そう呟いて笑いナマエの背中に手を回してギュッと抱き締めた。髪に一つ口付けをすれば「嘘、」なんて声が聞こえて、愛おしくて仕方無かった。
このタイトルを付けたかっただけ。
化け猫ラバーズ 3