「ちょっと此れどうするのよ」

 目の前には散々騒ぎ散らし百面相の末に食卓へと伏せた中也さんと樋口。私は溜め息混じりに視界にすら入れないと他人を決め込んだ芥川にそう云った。

「僕に聞くな」
「って云っても樋口連れて帰りなさいよ」
「捨て置けば良いだろう」

 あんたの部下でしょ、と私が云えば芥川は心底迷惑そうな顔をした。普通は私が樋口を連れて帰るべきなのだろうがそれは屹度当の本人が厭がるであろう事に加え芥川が手を出すとは毛程も思えず、まぁ樋口もそっちの方が喜ぶであろうと云う訳だ。

「中也さん、帰りますよ」
「あァ!?まだ呑むに決まってんだろ!」

 斯く云う私もこんな上司を置いて帰りたいのは山々だがそうもいかない。つくづく上司を持つと云うのは面倒だ。



愛と呼ぶ狡猾さ 伍





「ねぇ芥川」
「なんだ」

 帰ると云い出したらまた呑み始めた二人の横で私は緑茶を啜る芥川を頬杖を着いて呼んだ。

「今度は銀ちゃん連れて来てよ」
「ああ、銀もお前に会いたがっていたからな」

 芥川の言葉に一瞬驚いてフッと笑った。この兄妹は本当に居心地が良くて助かる。芥川と引けず劣らずな銀ちゃんが脳裏に浮かんでそんな事を思った。

「そうしたら私が聞いてあげるわよ、色々」

 私の口角を上げた表情に芥川は伏せていた瞳を鋭くさせて私を見詰めた。だがそんな瞳に私の口角は更に上がる。

「銀ちゃんの恋なんて楽しい酒の肴ね」
「貴様...!」
「い、いたたた!」

 私の顔面を片手で握りつぶそうとする芥川に私は思わずその腕を掴んで無理やり引き剥がす。

「羅生門を噛ますぞ」
「っ本当、シスコンよね」

 自分の顔を撫でながらそう云えば芥川はフンッと鼻を鳴らす。全く、私にそんな事をする男は此奴位だ。だからこそ色香を使う気にもならないのだけれど。

「...帰るぞ」
「え、もう良いんですか」

 私達がそんなやり取りをすれば中也さんがそう云って突然私の腕を引いて立ち上がった。樋口と芥川に目もくれない辺り本気で帰る気なのだろう。私は「また」と手短に二人に挨拶を残して引き摺られる様にその場を後にした。

「中也さん、一人で帰れるなら私は自宅へ帰りたいのですが」

 私の腕を引きながら足早に歩く其の背中にそう云っても返事も無ければ振り返りもしない。どうしたものか、確実に彼の家に向かっている足取りに頭を悩ませる。

 応えを出せないまま中也さんの家の前へと辿り着く。ポケットから鍵を取り出し鍵穴に差し込む。少し捻れば其処からはカチャン、と音がした。

「私は此処で、」

 そうもう一度声を上げたが力を込めて腕を引かれ雪崩込む様に部屋へと足を踏み入れた。

「中也さ、」

 月明かりの届かないそこで私は玄関の扉を背に唇が奪われる。荒々しい口付けだ。

「...っ」

 この人のそれは本当厭になる。拒む腕を掴まれて身動きが取れないのも然ること乍、背中にピリピリと電気が走りそれはあっという間に私の脳を痺れさせる。

 息つく間もなく与えられるその感覚に思わず目を細める。だが荒々しくも矢張り数日前の其れとは違う気がして戸惑う。だから厭だったのに。

 心で呟く。行為に拒絶反応が出る日が来るとは思いも寄らなかった。彼のそれには私が何時も繰り返していた一方的な欲のぶつけ合いを感じられない。彼が触れた処から何か言葉や感情を感じるのだ。

 それが何か判らず、また判りたく無くて行為に集中出来ない。殺しとセックスをしている時にある開放感は最早彼との行為には無くなっていた。其れは昨日散々抱かれて思った事だ。

「ん...っ」

 彼の手が私の内腿をなぞり下着に触れる。それに耐える様に私は目をギュッと瞑った。

「彼奴とシた事あんのか」
「...彼奴?」

 僅かに離れた唇で中也さんが私にそう問い掛けた。私は何の話しをしているのか判らず復唱する。すると中也さんは「芥川だよ」と先程まで一緒に居た彼の名を口にした。

「私と寝た男は貴方を除いて一人だって生きてないですよ」

 質問の真意は判らずにそう応えた。その応えに彼は「そうか」とだけ呟いて私の肩に額を当てた。何なんだ、この状況は。私の腕を掴んだ侭其の状態で固まる中也さんに私は矢張りどうしたモノかと頭を悩ませる。

「!」

 だが顔を上げたと思った瞬間、彼はまた私の腕を引いて部屋へと入って行く。私はよろけながらも靴を慌てて脱いでその後を追った。

「...何がしたいんですか」

 ベッドへと座らさせられ私を見下ろす彼に問い掛ける。そんな私に彼はフッと笑った。まただ。真意の読めない微笑みとも取れる笑いに私は怪訝そうに顔を顰める。

「そんなもん、判ってんだろ」

 私の頬を撫でる手はその笑み宛ら甘ったるくて私は更に眉間に皺を寄せる。問いたいのは其処ではない。そんな事判ってる癖に彼は敢えてはぐらかす。

「っ、」

 両頬を包まれ顔を上げさせられる。唇を合わせれば触れるだけの口付けが何度と無く繰り返されてまどろっこしくて仕方ない。

 バサッと押し倒されて私の上に彼が覆い被さる。だが彼は私の髪を掻き上げてそんないじらしい口付けを繰り返すばっかりだ。

「物足りねぇのか?」
「...当然です」

 中也さんの言葉に彼を見詰めてそう云った。こんな口付けはした事が無くてどうしたら良いのか判らない。恥じらい、私は今自分でも驚く程その感情を抱いていた。何で今更、たかが触れるだけの口付けなのに。

「俺は此れだけでも充分だがな」

 そう云って彼は私の頭を自分の胸に押し付けて私を抱き締めた。その行動に私は目を見開く。包まれた温かさと彼から伝わる鼓動が聞こえる。

 此れが、心臓の音。肌を重ねる事なんて五万として来た。彼とだって何度も寝た。だけど、その音を聞いたのは今日が初めてだった。何だかほっとするリズムに私は無意識に目を閉じてその音に耳を傾けていた。

「っ!」

 だが少し離れ額に口付けをされてハッとした。何をしているのか私は。急にカーッと顔に熱が集まる。それを誤魔化す様に私は身体を起き上がらせた。

「帰ります...!」

 だが矢張り彼の腕が私の身体を後から抱き竦め動きが止まる。どくんどくんと自分の心臓が煩い。髪に触れて背中に流れたそれを片側に寄せる。開けた首元に彼はその唇を落とした。

「中、也さん...っ」

 その擽ったさに身を捩り名前を呼べば再び布団へと倒される。見上げた瞳はまるで懇願する様に切なく私に「行くな」と訴えているかの様だった。

 ゆっくりと落ちて来る唇に抗う事も出来ずに小さく口を開けた。リップ音だけが響く部屋。恥ずかしさに眉を寄せる。だけど今度は徐々にそれが深く激しくなっていく。

「はぁ...っ」

 荒くなる息に彼の手が私の服へと伸びていく。それだけの事なのに私は何処か安堵し、そしてこの先に訪れるであろう快楽に厭でも胸が高鳴った。

「ん、っ」
「名前、」

 優しい愛撫と耳元で囁かれる自分の名前に思わず顔を背ける。だがそれさえも優しく遮られ耳を執拗に責められる。

「名前、」
「...っ」

 甘い声が脳に響く。名前なんて何度も呼ばれているはずなのに少し低く、そして耳元と云うだけで身体が震える。そんな私に彼が一つ笑った気配がした。

「耳が弱かったんだな」
「違い、ます...っ」

 意に反して彼がそこに一つ口付ければぴくんと身体が反応して、羞恥心が私を襲う。

「やめて、下さい...!」

 思わずその腕を伸ばしてそう云った。何で、どうして、私の思考は昨日と変わらない。そして応えが見付からない事も変わらなかった。

「中也さんっ...!」

 だが私が幾らそう云っても彼が其処への口付けを止める気配はない。唇と舌と言葉とが私にこそばゆい刺激を与え続ける。

「...名前、」
「え?」

 ふとゆっくりと顔を上げて彼が私を見下ろす。釣られて私は自然と彼を見上げる形になる。

「二人の時は呼び捨てにしろ」
「貴方は私の上司ですよ」

 そんな事出来る訳ない、そんな言葉に彼は一瞬顔を顰めた。だがそれも一瞬で元の柔らかい表情に戻った。

「俺は手前を部下だなんて思って抱いてねぇよ」

 その言葉に私は目を見開いた。「なら何て、」そう問い掛けても彼は悪戯な笑みを浮かべるだけだ。

「ほら、呼べよ」
「厭、です...!」

 顔を近付けられてその手は私を弄る。彼の指が動く度に震える身体を抑えながらそう抗った。

「呼べ」

 耳元で囁かれて身体が震えた。見上げれば真っ直ぐに私を見つめる瞳が私の身体を射る。

「...中、也」

 そっと僅かに開いた口でそう云えば中也さんは笑った。さも嬉しそうに、満足気に。

「もう一度だ」
「っ、」

 再び耳に口付けを落とされて理性が飛びそうになる。動く指が激しくなって私の限界も近くなっていた。

「中也...っ」

 私がそう呼べば応える様に彼が私の名前を呼ぶ。その度に胸がギュッと締め付けられて息苦しさを覚えた。

「名前、」
「っ、」

 一つになった私達の汗が滴る。名前を呼んでいるだけなのに身体の奥から甘い刺激が漏れて私を酔わせた。理解が追い付かないまま私達はその晩も行為に明け暮れた。