私は混乱していた。あの後の"お仕置き"はその名に反して甘ったるくて仕方なかった。今でも彼に口付けされた箇所がむず痒い。
思えば同じ男と寝るのは彼が初めてだ。それは私が寝た男は彼一人を除いて凡てこの世に居ないからだ。行為の終わる直前、否、絶頂期につい殺してしまう。返り血を浴びながら迎えるそれは堪らなく快感だ。
我ながら飛んだ悪趣味だとは思う。それこそ欲求が爆発している時の私は自分とは違うもう一人の自分かとさえ思ってしまう程に。だがそれを思い出して笑ってしまう辺り矢張り彼女は私なのだろう。
だからだろうか、何度も同じ相手と身体を重ねると云う事はこうなるのが自然なのか?と疑問さえ湧く。優勢だと思っていた関係が覆りつつある事に私は戸惑いを隠せなかった。
愛と呼ぶ狡猾 肆
「怪我は平気?」
「無論、かすり傷だ」
目の前の七輪越しの芥川に私は酒に口を付けながら問い掛けた。すると肉を焼く事に集中しながらも彼はそう視線も合わせずに応えた。
あの後医務室で治療を受けた私達は仕事を無いのをいい事に夕食には少し早い時間にも関わらず近くの焼肉屋にて顔を合わせていた。
彼とこうして食事をするのは私が黒蜥蜴を抜ける日以来だ。そして彼が唯一と云っても過言では無い私の飲み仲間でもある。と云っても病弱な彼は酒を口にはしないが。
「お前こそあの後平気だったのか」
「ああ...みっちりヤラれたわ」
半ばウンザリとして云う私に芥川は肉から目を離し私を見る。
「殺られた?傷はどうした」
「重傷だよ」
「そうは見えんが」
芥川の言葉に「見えない処なだけよ」と云えば芥川は少し驚いた表情を見せた。
「中也さんは意外と、その...陰湿なんだな」
云い辛そうに言葉を紡ぐ芥川に思わず酒を口から零すかと思った。その言葉を私の上司に直接聞かせてやりたいと心底思った。私が彼と飲む理由はこれだ。会話が噛み合っていない。
彼は私が相手と寝て殺す手法も「マフィアらしい」と云う。私がターゲットの寝込みを襲っているのだと未だに思っているのだ。今だって"殺る"と"ヤル"の違いは彼にない。彼にあるのは"殺る"と云う文字のみ。
だが不思議と会話が成立してしまうから面白い。彼に殺しの欲をぶつける事はあっても、行為の欲をぶつけた事はない。だってどうせ通用しないからだ。ある種の天然、純情、私の中の彼のイメージはそんな可愛らしい私には微塵も無いものだったりする。
だからこそ気楽にこうして食事なんて取ってたまに愚痴のこぼし合いをしたりする。宛ら乱れに乱れた私の人間関係の中の唯一の友人の様なモノだ。
「上司って面倒ね」
「藪から棒だな」
頬杖を付いて零した言葉に芥川は箸を置いてそう云った。もうお腹は膨れたらしい。本当に相変わらず少食だ。
「黒蜥蜴にいた時は広津さんも居たけど力は私が上でしょ?あんたは同期だったしね」
はぁ、と一つ溜め息を吐く私の言葉を芥川は無言で聞いている。それも私が楽でいれる一つの要因だった。
「でもあの人にはどう遣ったって勝てない」
それを今日まざまざと見せ付けられ思い知らされた。認めざる得ない程ハッキリと。正直、不愉快極まりない。敗北なんて文字は私も芥川も一番に毛嫌うモノの一つだから。
「しかも何か昨日からおかしいのよ」
「おかしい?」
芥川の問いに小さく頷く。
「優しいの」
触れる手も唇もその視線ですらも。何かを悟ったかの様に突然変わった上司に疑心暗鬼になる。その前まで私に触れるのも触れられるのも嫌々そうにしていて、でも行為が始まればその瞳は意に反して獣と化し慈悲も無く荒々しく私を抱く。
そしてそれが終われば忌々しそうに冷たい視線を私に向けていた。私からしたらそれが良かったのだ。私の事を嫌っている。だが少し誘惑すれば堕ちずには居られない。その葛藤に苦しむ彼がこの上なく私の欲を掻き毟しり荒々しい波を立てていた。
「それは悪い事か?」
「悪い事よ」
芥川の言葉に私は即答した。彼は視線を流しまるで「何が悪い事なのか」と己の中で自問自答している様だ。まぁ彼に応えが見つけられるとは思えないが。
「樋口が突然中也さんみたいに口悪くなって目付きも悪くなったら驚くでしょ」
「どうしたらそうなる」
「例えばの話しよ」
私がそう云えば彼は手を顎に当てて想像している様な仕草を見せた。
「...何かあったのか」
「そう、それよ」
私は芥川の言葉に指をさした。それを芥川は一目見て少し怪訝そうにする。だが私は構わず言葉を続けた。
「なんでいきなり態度が変わったのかが問題なの」
一緒に考えて、と漏らす私に芥川は「皆目検討もつかぬ」と即答した。まぁ、彼らしいが。
「男が態度を変える時なんてヤリたいかヤリたいかヤリたいかなのよ」
「一択だな」
私の言葉に芥川はそう云って寒くも無いのに温かい緑茶を啜る。爺か。
「でもそれなら態々態度を変える必要なんてない」
「いつでも殺れるからな」
「そう」
なのに何故。私の頭には疑問しかない。
「芥川が女に優しくする時ってどんな時なの?」
「僕は誰かに依って態度を変える事などない」
「...確かに」
駄目だ。微塵も参考にならない唯一の友人に思わず頭を抱えたくなった。
「だが、」
途方に暮れそうになった私に芥川は静かに口を開く。それを私は芥川が焼いてくれた肉に手を付けながら聞いていた。
「愛は人を変えると聞いた事がある」
「っごほ!!ごほっ!!」
芥川の言葉に私は思わず噎せ返った。彼の口から彼に似つかわしく無い最も縁遠い様な言葉が出たからだ。
「どうした?」
「...何でもないわよ」
飛び散りそうになった口のモノを酒で流し込みお絞りで口元を拭って苦し紛れにそう返す。彼との付き合いは長いがそんな言葉を聞いたのは初めてだった。
「詰まり、中也さんが私に惚れてると?」
「僕は一般論を口にしたまでだ」
「そうでしょうね」
真逆、と心で笑う。そんな事は有り得ない。否あったとしても勘弁して欲しい。愛だの恋だのは所詮絵空事だ。私が身体を重ねた奴の中には妻や恋人がいた奴なんて五万といた。
だが其奴等は平然と私と寝る為に愛を囁いた。やれ「愛してる」だの「一番は君だ」だのどれも虫唾が走る様な甘ったるいモノばかり。
愛自体を否定している訳ではない。だが私は真のそれに出会った事がない。故に私は誰とでも寝れるし寝る相手のパートナーに同情はしても負い目は無かった。
所詮人間なんてそんなモノだ。自分の欲には勝てない。私と何が違うのか。それを表に出して蔑まれるのは些か不本意だ。皆裏では同じ様な事をしていると云うのに。
でもだからこそ私と身体を重ねる奴等は私と同じなのだと思えて安心した。欲に塗れた汚い人間同士だと云う事が判った気がしたから。
「愛だの恋だのくだらないわ」
「同感だ、それ等は感情の起伏を生むと聞く」
「感情の起伏?」
芥川の言葉に私は首を傾げた。
「些細な変化が大きな感情の波となってその身に襲い掛かる。それは自分の意志ではどうする事も出来ず、唯流されるしか術はないらしい」
「...それは何処ぞの情報かしら」
私が問い掛ければ芥川は少し間を置いて「銀だ」と云った。彼の妹だ。それを聞いて少し納得した。それは明らかに女の言葉の様な気がしたからだ。
「銀ちゃんが恋ねぇ」
「...何故そうなる」
私の言葉に芥川は怪訝そうにそう云った。
「明らかに体験談じゃない」
その瞬間芥川の手の中の湯呑みかピシッと音を立てた。相変わらずのシスコン振りだ。
「銀が、恋だと...!?相手は誰だ!」
「知らないわよ」
荒ぶる芥川に対し私はさぞ興味無さそうにそう呟いた。だが彼の高ぶりは収まりそうにない。
「僕の妹に手を出すとは...!殺す!!」
「落ち着きなさい、私が悪かったから」
私がそう云って水を差し出せば彼はそれを一気に流し込み一つ息を吐いて口元を抑えた。どうやら少しは落ち着いた様だ。
「...ねぇ、芥川」
「...なんだ」
彼は冷静になって自分の荒ぶりに少し恥ずかしそうにしている様だった。そんな彼に一つ笑みを零して私は言葉を続ける。
「それはどんな気持ちで云ったの?」
私の言葉に芥川は口元から手を退けチラリと私を見てから腕を組んで背もたれへと寄りかかった。屹度腑抜けた顔をして問い掛ける私に呆れたんだと思う。
私には親も兄妹も居ない。そんな事を悲観した事か無いと云えば嘘になるがもうそんな感情は遠い昔に置いて来てしまった。代わりに芽生えたのは私を埋め尽くす性欲。殺しとセックスだ。
私は他人の一番深い其処に触れ過ぎたのかも知れない。だから何かが私から欠落ち私は不良品となった。何に対しても何も感じない、人形の様な私の心。普段心を揺らがせない彼がこんなにも取り乱して言葉を向けられた銀が少し羨ましく思えた。
「大切だからだ」
ふと視線を逸らしたままそう云った芥川に俯いた視線を上げる。彼は少し照れ臭そうに、だけど真剣に言葉を紡いだ。
「誰しも大事なモノにそう易々と触れて欲しくは無いだろう」
芥川のその言葉に私は目を見開いた。
『もう誰とも寝るんじゃねぇ』
そんな上司の言葉が何故か頭を過ぎったからだ。私はあの時笑った。矢張り彼も同じなのだと思ったから。結局欲には勝てない。私と同じ。でも、芥川の言葉を聞いて咄嗟に私の頭が私の言葉を否定する。
「...そう云う、ものかしらね」
「...僕とて判りはしない」
はぁ、と私が溜め息を吐けば芥川も同じ顔をしていた。如何やら私達にこの案件は難し過ぎた様だ。
「で、樋口とは如何なの」
話題を変える様にそう問えば芥川は何の事だとでも云う様に私を見詰めた。彼の鈍感さも最早折り紙付きだ、とフッと笑った。少し樋口が憐れに思ったが、同時に私を見るあの矢の様な瞳が浮かんで静かに笑みを消した。
ああ、彼女も同じか。とふと思ったからだ。私に芥川に触れて欲しくないのだ。屹度出来れば関わってすら欲しく無いのだろうと思えた。
「悪い事しちゃってるのね、私」
現在進行形の罪に思わず苦笑いが溢れた。そんな私の呟きに芥川は「僕にも判る様に云え」と少し不機嫌そうに云った。
そんな芥川に口を開こうとしたその時、机に置いてあった携帯が鳴り響く。それを手に取れば画面には上司の名前があって如何したモノかと悩む。だが出ない訳にもいかず私はそれを耳に当てた。
「はい、名前です」
『何処にいる』
随分と完結的な言葉に笑いそうになる。グダグダくだらない事を話す男よりかはよっぽど良いと思うからだ。そんな処は嫌いじゃなかったりする。
「芥川とご飯食べてますが」
『...二人か?』
「はい」
間が空いたのは気になったがそれに対し何かを云うでもなく私は短くそう返した。横目で芥川を見れば彼も誰かと電話で話しをしていた。
『何処でだ』
「本部の近くの焼き肉屋ですが」
『五分で着く』
「え?」
私の問い掛け虚しくその電話からは既に何も聞こえはしなかった。
「中也さんか?」
電話を終え画面を見詰める私に芥川はそう問い掛ける。
「うん、何か来るみたい」
「そうか、樋口も来るそうだ」
それに「そう」とだけ返した。先程の電話の相手は彼女だったのか、と何となく予想していた事だった為差して驚きもしなければ何かを思う事も無かった。
「.....」
「.....」
そしてその場に元から居た私と芥川に加え中也さんと樋口で食卓を囲んだ。「お疲れ様です」なんて最初の挨拶を終えて大の大人が四人も居るにも関わらず妙な静けさがその場に流れた。
「夕食食べました?樋口も」
ピクリとも動かない彼等に何しに来たんだと突っ込みたくなったが一応目上の彼にそう云ってメニューを手渡す。ついでに彼同様無言を決め込んだ樋口にも。
「厭まだだ」
「私もまだです」
中也さんと樋口はそう云って各々メニューを見詰める。
「手前等はもう良いのか」
「ああ、じゃあ後菓子でも食べようかな」
中也さんの言葉に私は後菓子のメニューを芥川と見る。「今日はどれにする?」と問い掛ければ芥川もメニューを眺めて顎にで当てた。
「ぜんざい」
「あんたそれしか頼まないわよね」
「無論だ」
「今日はこっちにしようよ」
「ぜんざい以外僕は受け付けない」
ふん、とそっぽ向く芥川に舌打ちする。本当に此奴は頑固だ。頭が固くて食べ慣れた物しか食べない。まぁ私もその類いだが偶には冒険したくもなる物だ。だが彼が意見を曲げた事がない為私は仕方なく芥川の云うぜんざいを中也さんへと伝える。
「一緒に頼んで下さい」
「二つか?」
「いえ、一つでいいです」
私の言葉に中也さんは驚いていた。それは中也さんの前に座る樋口も変わらない。私達がぜんざいを食べる事がそんなに珍しいのかと首を傾げる。
「私だってぜんざい位食べますよ」
「否、そうじゃねえけど」
驚いた表情のままそう言葉を濁す中也さんに「なら何です」と問い掛ける。
「二人で食うのか?」
「ええ、お互い少し食べたいだけなので何時もそうです」
「何時も...!?」
私の言葉に反応したのは樋口だった。表情は顔は伏せているから判らないが両手に持った水の入ったグラスが小刻みに揺れていて何事かと思う。見れば隣の中也さんも同じ様に手に持ったメニューに皺が寄っている。本当に何なんだ此奴等は。
「...手前等は仲良いのか」
ふとそのまま中也さんがそう口を開いた。その言葉に私と芥川は一つ目を合わせて中也さんを見る。
「「 唯の同期です 」」
揃った私達の声に樋口は机に額を、中也さんは後頭部を席の仕切りへと思い切っきりそれ等を打ち付けた。ガシャン!ゴン!っと凄い音がして私と芥川は二人の奇怪な行動に目を見開いく。
「...樋口」
「...何でしょうか中也さん」
揺らりと頭を元の位置に戻した二人はそう云ってお互いを見た。何だが目が血走っている。
「呑むか...!」
「御付き合いさせて頂きます...!」
二人はその後食事もまちまちに酒を流し込む様に呑んではよく判らない事を半ば叫んでいた。その光景に私と芥川は他人の振りをしながら隅でぜんざいを突っ付き合った。