- 立夏 -


五月五日
かわず、はじめてなく


 玄関の、引き戸の取っ手に手をかけたらふにゃりとした感覚がして思わず「ぎゃっ」と可愛げの欠片もない声と共に肩が跳ねた。指先に感じたその感触は日頃感じたことのないもの。ぱっと視界に入った緑に、その正体が分かって余計にぞわわと鳥肌が立った。

「むにゅってした!」
「なんです?」

 買い物袋を持って後ろに立っていた菊さんが怪訝そうに首を傾げた。その菊さんと後ろに回って引き戸を指させば「ああ、かえるですか」とそれをそっと手の平で包んで庭木の陰に逃がした。ぴょんと跳ねた蛙はすぐに見えなくなった。

「大袈裟ですねぇ」

 笑う菊さんに、「だって、不意打ちです」と零しながら玄関を開ける。カラカラカラと音を立てて開いた戸の向こうにはぽちくんが座って出迎えてくれていた。体の陰からちらちらと覗くしっぽが揺れている。

「ただいま」

 買い物袋を「よいしょ」の掛け声と一緒に下ろした菊さんは年寄り臭く腰をトントンと叩いた。
 今年のゴールデンウィークは旅行に行けそうにないからと、二人で家で映画、ゲーム三昧といたしましょうと話していろいろ買い込んできた。祝日と土日の間に休みを取ったから、連休はまだ折り返し地点だ。
 ここ数日菊さんがずっと家にいることに、ぽちもたまも心なしか喜んでいるように見えた。

***

五月十日
みみずいづる


 たまが庭に出て飛び跳ねていた。地面のなにかに飛びついたかと思うと後ろ脚二本で立ち上がって、くねくねと体をくねらせている。おもちゃにじゃれついているときの動きだ。
 からりと晴れた日。朝から干した洗濯物は昼過ぎにはもう乾いていた。それを取り込もうと外に出たら新緑に彩られた草木が眩しいくらいに青々しかった。花の散ったあとの桜の木は完全に衣替えを済ませて初夏の風に揺れている。

「なにしてるの?」

 きっと虫でもいるのだろうと思いながらたまに近寄れば、そこにいたのはミミズだった。ミミズは昔から土を耕してくれると聞く。他の巣籠りをしていた虫たちに比べて出てくるのが遅いというのは、菊さんから聞いた話だ。
 たまの動きから見るに、仕留めようとしているのではなくちょっかいをかけて遊んでいるようだった。本気で狩猟本能を見せるときは庭に一瞬低く飛んで入ってくる雀さえ捕まえる気概を見せる。それを目の当たりにした瞬間には驚いて咥えていたせんべいを落としたものだ。
 庭の隅の方に生えだした雑草を見て、そろそろ草むしりをしないといけないなぁと思う。土が柔らかいうち、根が浅いうちは抜くのが簡単だ。人がよく歩く場所は土が踏み固められて雑草が生えてこないというのは誰かが言っていた話だが、さすがに庭の隅の方まで踏み固めて歩けるわけもない。
 今日は日差しも柔いしそこまで暑くない。土も、昨日の雨でまだ柔い。洗濯物を畳んだら草むしりをしようかなと、たまの背を撫で家に戻った。

***

五月十六日
たけのこ、しょうず


「たけのこを頂きました」

 帰宅した菊さんを出迎えたら、片腕にビニール袋を抱えてほくほくとした笑顔の彼がいた。「おかえりなさい」「ただいま」の挨拶の後、すぐにそれを伝えてきた菊さんは、たけのこを貰えたのがよっぽど嬉しかったように見える。

「大坂さんですか?」
「ええ」

 彼の実家は確か西の山奥のほうだったと聞いたことがある。いや、もしかしたら実家ではなく親戚かご近所さんの誰かに貰ったのかもしれない。何はともあれたけのこの生える季節になったのだ。
 菊さんから受け取って袋の中を見ればまだ瑞々しさの窺えるたけのこが見て取れた。たけのこは成長が早く一晩で一節伸びるとも言われている。ほっといたらすぐに食べるのに適さない大きさまで成長してしまう。採れたてのそれはさっと湯通ししただけでも食べられると聞くし、掘った直後なら生でも食せるらしい。
 たけのこは部位によって柔らかさが違う分、様々な料理に使える。先端の姫皮はお吸い物や酢の物にして、穂先は煮物や和え物に。歯ごたえのある中心部分は煮物や炒め物、天ぷらなんかにも向いている。硬めの根元は炊き込みごはんにするといい。

「今日はたけのこ御膳ですね」

 すでに夕食の準備に取り掛かっていたものの、菊さんの様子を見るにきっと率先してたけのこ料理を作るのを手伝ってくれるだろう。「旬のものは旬のうちに」菊さんがいつも口癖にように言っている言葉を思い出した。

20210505

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