存在すら霞み滲んで


 それは偶然だった。少なくとも私はそう思う。人によっては運命だと感じる人もいるかもしれない。けれども私が前日早くに床について、翌日早くに目が覚めて、その日、滅多にしない朝の散歩に出かけたのは、本当にたまたまだった。

 特に疲れていたわけでも、翌日に予定が入っていたわけでもなかったが、午後九時にはベッドに入った。就寝前の日課の読書もそこそこに部屋の明かりを落として、未だ賑わう階下の喧噪を遠く聞きながらすんなり眠りに落ちたのは、きっと体が休養を欲していたからなのだろう。早く眠れば早くに目が覚める。夢も見ず、自然と瞼が開いたのはまだ外が夜闇に包まれている頃だった。時計を見れば午前四時。深夜とも早朝ともつかない頃合いだった。夏と秋の間の、とても心地よい気温でベッドから抜け出すのも容易だった。水を沸かし、白湯にして飲んで朝食をとろうかと考えてやめる。今食べてしまうと中途半端な時間にまた何か胃に入れなくてはならなくなりそうに思えた。二度寝する気分にもならず、かといって部屋にいたところで特にすることもない。この時間だとテレビもラジオも大したものはしていないだろう。そう思って散歩に出た。
 午前四時半はまだまだ暗かった。日毎夜毎に手作業で灯されるガス灯の明かりが煌々としていた。電気の普及した時代に未だ手作業での火入れをするその老人は何十年もそれを生業としているらしかった。彼が亡くなってしまえばこの町の街灯はすべて電気に変わってしまうかもしれない。
 温かい橙色の明かりの下を歩く。町には誰も出歩いている様子はなかったが、深夜を駆け巡っていたらしい猫は見かけた。こちらに気づいて一瞬足を止め、しかしすぐに町影に消えていく。音もない猫の足音の代わりに、首に下げた鈴がちりんと小さく鳴っていた。町はひどく静かで、鶏だってまだ眠っている。朝の早い女主人が何人か、台所の明かりをぽつりぽつりと灯していた。

 私の住む町は海から一つ丘を越えたところにあって、海丘町と呼ばれていた。緩い坂を上った丘のてっぺんから見える水平線は美しく、朝日や夕日を見にこの丘を何度も上ったことがある。しかし何年もここに住んでいるとそういう、毎日繰り広げられる日々の些細なことのための労力というのは衰えるものだ。朝日も夕日ももう何か月も拝んでいなかったな、と思い出し、丘をのぼりきったところではたと気付いた。一気に開けた視界に煌々と浮かぶ月があった。時刻は五時に差し掛かろうという頃だろうか。しかし未だ夜が明ける様子のないおかげか、月は白まず輝いていた。満月だった。
 丘から海の方が見下ろせる。坂を下った先の分かれ道、そこを左に行けば小さな港がある。漁のための港というより、物流の出入り口のための港だ。早朝の今は静かである。右の方へ下っていけば浜がある。丘から生える背の低い草が、次第に海辺に茂る植物に変わる。地面は土だと思っていたのに、気づけば足元が覚束ない砂地に変わっていた。波打ち際まで行って歩くと、穏やかな海面に月がぼんやり滲んでいた。紺碧は深く、昼間の淡い色合いを含む表情とはまた違う。遠浅の海は普段はエメラルドに近い色だが、今は深く濃い、夜の海の顔をしていた。
 波の音を聞きながら潮風を肌に浴び、磯の香りで鼻腔を満たす。誰もいない浜辺は静かで、徐々に白んでいく東の空を視界に見止めながら浜の終着点を目指す。そう遠くないところに岩場があってそこで浜が終わる。それ以上先は海釣りをする人がたまに足を踏み入れるくらいで、滅多なことでは人は立ち入っていかない。だというのに。水面に揺れる月影と空に浮かぶ月を交互に見ていて気付かなかったが、ふと視線を前方に向けると浜に何かが打ちあげられているようで黒く長い影がそこに横たわっていた。流木か、それとも深海の生物か。空が明るくなり始めて弱くなってきた月明かりでは離れたところにあるそれはよく見えない。とはいえ別段興味をそそるものでもないからと歩調は早めずにゆっくりと近づいて、それが何か視認できる距離まで近づいて足が止まった。人だった。

「……え、死体?」

 誰に言うともなく、零れた言葉はそんなものだった。恐る恐る近づいてみれば仰向けに転がっていたその人はまだ年若い男の子のようだった。学生服のような格好は濡れて肌にまとわりつき、靴は履いていなくてスラックスの裾からは靴下が覗いていた。黒い髪は白い肌に張り付いている。何より我が目を疑ったのは、青年の手に握られた一本の小枝。それは当然ただの木の枝なんかではない。自分もかつて、毎日のように振るっていた、十一歳の時に買い与えられたもの。私が、もう長いこと箪笥の奥にしまい込んだままの物。
 いやまさか、そんな、と生きているのか死んでいるのかも判然としない青年の傍らまで寄ってその手にしっかりと握られていた小枝を奪う。まじまじと見てそこに施された装飾に疑念が確信に近づく。ふわり、と十年以上前にオリバンダーの店でしたように、軽く杖を振るってみた。きらきらと光る何かが杖先から出てきて、それが風をまとって宙を旋回した。いけない、と思って慌てて空を掻いてそれをかき消す。これをマグルに見られでもしたら一大事だ。周囲を見晴るかし、自分と青年以外にいないのを確認して杖を昔していたように腰にさした。
 水気を含んだ砂地に膝をついて青年を覗き込む。仰向けに横たわったその体は、僅かながらに胸を上下させていた。生きている。そう確信を得ると朝から死体を見たわけではなかったのだと安心してわずかながらに緊張が解けた。とはいえこんな時間、こんなところで全身びしょ濡れでいる人間が普通の状況下とは言い難い。良く言って遭難者。悪く言ってしまえば自殺に失敗した自殺志願者というところだろうか。まるで入水自殺をしようと海に身を投じたのに海から拒絶されてしまったかのようだ。
 ぺちぺち、と手の甲で頬を叩く。肌は冷たいが息はある。

「きみ、大丈夫? 起きて。死ぬよ」

 声をかけ、頬を叩く力を強める。割合すぐに「んん」と眉をしかめた青年にほっと胸を撫でおろす。

「大丈夫?」

 見下ろして、徐々に開く瞼に、その裏に隠れていた瞳が露わになるのを見て思わず不謹慎にも綺麗な顔をしているなと思った。どうにも煩わしそうにしているから額に張り付いた黒髪を払いのけてやる。薄く目を開いて虚空に視線をさまよわせた青年は唇を薄く開いた。

「みず……」
「水? ごめん、ない」

 手ぶらで出てきたから何も持っていない。普通ならここで水を探しに走るのだろうけれど周囲に水が得られる場所がないのは知っているし、第一こんな早朝に近くに人もいない。腰に差した先程の杖を振るえば水くらい出せるかもしれないが、生憎ともう何年も杖を振らない生活をしている私には、アグアメンティの呪文は唱えられても杖の振り方までは覚えていなかった。かといって今目の前で死にかけていた本人に杖を差し出して自分で水を出してというのも、それは違うだろうと思った。

「とりあえず立てる?」

 肩に腕を回して上体を起こさせる。片膝を立てた青年はゆるゆると自力で体を起こすとそのまま立ち上がった。ふらふらとした足取りで波打ち際の方へ行くから「ちょっと、死ぬ気?」と追いかける。自殺に失敗したから再度入水するつもりだろうか。だとしても目の前でそんなことをされては後味が悪いから、と引き止めれば「……ちがう」と波音にかき消されそうな声が風に乗って耳に届いた。
 ばしゃ、と膝をついた青年は波が寄せるタイミングで水面に手を突っ込んだ。両の掌に掬った海水を顔にかけているのを見て、ああ顔を洗いたかったのかと気づく。と同時に。盛大にせき込んでむせる様子に、そばに寄って背を撫でてやる。海水の塩分の濃さを失念していたのだろうか。

「……寝ぼけてる?」

 冗談を言う場ではないのは分かっているが自分の気を紛らわせるためにも言う。

「いや……」

 先程よりか瞼の開いた青年の横顔は眩しそうにしていて、そこでようやく水平線から太陽が昇り始めていたことに気が付いた。空はもう完全に明るく、太陽の光を受けた水面がきらきらと煌めいていた。すがすがしい朝の光景だというのに、目の前の青年が遠くを見る目はまるで生気が感じられない。立ち上がり、ふらつく体を支えてやる。背は私より高いが年は下だろう。

「ちょっと!」

 意識が朦朧としているのか今にも瞼が閉じそうだった。正面から両肩を支えてやれば肩に頭をのせられた。はぁ、とため息を吐いた青年は蚊のなくような声でつぶやいた。

「生きてる……」



 水平線から日が昇る。夜が明ける。久方ぶりに見たその光景はやはり美しくて感慨深い。けれども今後一生、私の人生には日の出の光景と一緒に今日のこの出来事が思い出されるだろう。
 普通なら警察に連絡して引き取ってもらうのがいいに決まっている。けれどもこの時はそうしない方がいいと思った。それは、彼が杖を所持していたからかもしれない。彼が本物の魔法使いならばマグルの警察に世話になるのはいろいろと厄介なことになるだろう。闇の魔法使いたちが台頭しているこの時代、生死も危うい状況でいる魔法使いが事件に巻き込まれていないという保障もない。警察に引き渡さない理由を考えて自分を納得させようとする自分に苦笑が漏れる。なんだかんだ考えて、けれども結局、ただ放っておけないと思ったのだ。うつろな目、覚束ない足取り、朝日を受けてそのまま消えてしまいそうな儚ささえ感じた。まるで生気が見られなかったから。人情乏しい、事務的な扱いをされてしまう警察には預けられないと思った。

「……うち来る?」

 雨の日に子猫を拾うように、無意識にそんな言葉が口をついていた。


存在すら霞み滲んで


 普段はなんて事のない小高い丘も、人ひとり支えて歩くのは大変だった。自分が濡れるのも厭わず肩を貸したのはいいけれど、町に近づくほどに往来を行く人々の視線が痛くて仕方がなかった。幸い今日が日曜日で通勤する人は多くはなかったが、それでも少なくはない人数に見られた。
 一人暮らしのアパートにたどり着いて早々に青年をバスルームに押し込んだ。ベッドに寝かせるにしても海水でべたついたままの人をそのまま寝かせるほど、私は良心の塊ではない。一人で大丈夫かな、と思いつつ、けれどもいい年をした青年の入浴を手伝うほどおせっかいでもない私はとりあえず飲料水を与えて飲ませ、多少意識がはっきりしているのを確認してからその背中を見送った。浴室からシャワーの音が聞こえてきたのを確認して脱衣所に脱ぎ捨てられた衣服を回収した。砂だらけの服をそのまま洗濯機に入れるのは嫌なので、彼が出てきたら浴室で幾分か手洗いをしよう。そういえば男物の着替えなんかないぞと気づいて腰に手をやる。そして「あ」と声が漏れる。腰に差したままの彼の杖を思い出した。次から次へと問題が噴出する。さてどうするか、と在学中レイブンクローで培った頭脳をフル稼働させるが、しかしマグル然とした生活が長かったせいでなにもそれらしい名案は浮かばなかった。どうしようかと頭を悩ませているうちにシャワーの音が止まった。浴室から出てきた彼と鉢合わせないように「タオル置いてるから」と言い置いてそそくさとそこから退散した。
 手の内でくるくると回した杖をどうしようかと思案する。「これ君の?」と差し出したところで警戒した彼に記憶を消されては元も子もない。私も魔女だから記憶を消されるいわれはないのだが、しかしその事実を彼は知らない。かといって魔女だということを証明しろと言われてももう何年も杖を振るっていないせいでまともな魔法を使える自信はない。となれば身の証明も出来ない。それに何より、闇の帝王全盛期と謳われているこのご時世に見知らぬ魔法族に不用意に杖を与えるのは危険なように思えた。私が魔法界から離れて生活しているのは、偏に闇の魔法使いから身を守るためでもあったから。だとすれば。
 その思考を数秒のうちにしたのち、私は彼の杖を箪笥の引き出しにしまい込んだ。下着が入っている段の一番奥、私の杖をしまっている場所に一緒に隠した。ここなら間違って引き出しを開けたとしても彼くらいの年頃の子なら慌ててすぐに閉めるだろうと考えた結果だった。
 数年ぶりに杖に触れて思い出したのはかつての学び舎の古城とそこで過ごした日々だったが、今はもう過去のものだと、そっと引き出しの奥にしまい込んだ。

「あの」

 バスルームの扉が開いて腰にタオルを巻いた彼が姿を見せた。

「すいません。何か着るものって」

 ないですか、と尻すぼみに言葉尻を小さくさせたその様子に、謙虚さは持ち合わせているようだった。クローゼットからオーバーサイズの服を出して彼の肩幅に合わせてみたけれど、生憎私の服では彼の体は包めそうになかった。

「ごめんね。とりあえず服を洗って乾かすから、それまでは我慢して」

 そう言いながらバスルームに入って洗面台の棚からドライヤーを出した。スツールに彼を座らせて乾いたバスタオルをブランケット代わりに肩にかけてやる。怪訝そうな顔でこちらを見上げてくる様子に「どうかした?」と問えば「……いえ」と私の手にしたドライヤーを見ながら言う。

「髪乾かすよ」
「……はい」

 男の子は大抵髪の毛を自然乾燥させる、というのは学生時代によく目にした光景だった。だからといってドライヤーというものを知らないわけではないだろうに何故そのような反応をしたのか、その時の私には考え至らなかった。後になって思えば彼は純血の魔法族の出身で、電化製品というものを一切知らなかったからなのだと理解した。
 ドライヤーで乾かした髪はふわふわと柔らかい髪質をしていた。その手触りがとてもよくて、髪が乾いた後も少しの間ドライヤーで風を当てながらその頭を撫でてしまった。

「終わったよ」

 ドライヤーの電源を落とすと、彼はうとうとと船をこいでいた。私だって美容室で髪を乾かしてもらうときは眠ってしまいたくなるけれど、かといって初対面の人間を前にしてこんなに無防備になって大丈夫なのだろうかと些か心配と不安を覚えた。
 とんとん、と軽く肩を叩くとゆるりと瞼を開けた青年がこちらを見上げてきた。その時初めて気づいたが、彼は綺麗なグレーの瞳をしていた。黒髪に端正な顔立ち。さぞかし女子に人気だっただろう。

「とりあえず、一回ベッドに横になってなよ」

 言えば、素直に私の言う通りにする。背の高い彼には私のベッドは窮屈そうに見えた。枕元にスツールを置いてそこにグラスに注いだ水を乗せる。「休んでて」と布団を首元までかけてやってからバスルームに戻って服を洗った。やはりというか、砂がざらざらと床に流れた。スラックスのポケットから出てきたハンカチにはR.A.Bの刺繍がされていた。彼のイニシャルだろう。上質そうなそれだった。
 ワイシャツとスラックスを洗濯機にそのまま入れてしまうのはどうかと思ったが、背に腹は代えられまい。どことなく見覚えのあるスラックスはホグワーツ指定のそれのように思えたが、もしかしたら似ているだけのものかもしれない。そう思っていたがワイシャツの胸元に刺繍された蛇を冠するエンブレムは、ホグワーツの寮の一つを示すそれだった。つまり彼は学生ということだ。一体どうして、何があったというのだろうか。
 洗濯機を稼働させ、疑問を抱えたまま部屋に戻るとベッドの彼は静かに寝息を立てていた。その寝姿はあどけなく、子供そのものだった。完全に朝日が昇った後だったが、カーテンを閉めて部屋を薄暗くし、私は静かに部屋を出た。


***


 とりあえず服を買い与えないと、と思い近所の大型スーパーに来た。サイズは先程みたから大丈夫だが、さて何を着せようかと思案する。きっといいものを着せれば見目好く整うのだろうけれど、見ず知らずの人間に金をかけられるほど私の生活は豊かではない。スーパーの一角にある、誰が着るのかと問いたくなるような地味でダサい服の中から、いたってシンプルで無難なものを見繕う。彼氏でもない相手の下着を買うのは些か躊躇いを感じた。
 帰宅するとドアの開閉音で目を覚ましたのか青年がベッドで体を起こしていた。すぐに買ってきた服を与えると、ダサいはずのそれが器量のいい彼が着ると、そういう、「ダサいものを着るのがおしゃれに見えるファッション」のようでもあった。見目がいいと人生得をするんだなと思えた。
 時刻はすでに九時を過ぎていて、私が起きた時間から考えると遅すぎる朝食に取り掛かる。いつも食べるトーストとベーコンと卵、それからコーヒーのセットを用意する傍ら、彼にレトルトのリゾットを見せながら「食べれる?」と問いかけてみた。一瞬不思議そうな顔をされたが、パッケージの文字を読んでそれが何かを理解してから小さくうなずいた。



「きみ、名前は?」
「……レギュラス」

 朝食を終えて、ベッドの上でぼーっとする姿はまるで魂を半分あの世に持っていかれてしまったかのように見えた。あの状況、「生きてる」と呟いていたのを思い出し、推測するに、死にかけたことに変わりはないのだろう。本人自身も死んだと思ったからこそ、先の言葉が出たに違いない。

「星の名前なんてロマンチックね」

 姓を名乗らないのは言いたくないからなのだろうか。それとも言う必要性を感じなかったからなのか。茶化すようなことを言っても表情を変えない横顔は窓の外を見ている。綺麗な顔をしているからどこかの王族の子で、命からがら逃げてきたのかも、なんて夢物語のようなことを思っていると、そういえばそんなおとぎ話があったなと思い出した。
 確かあれは、船が難破し海に投げ出された一国の王子が浜に流れ着く描写があった。ああそうだ。

「人魚姫の話だ」

 ぽつりと零せば、窓の方を見ていたレギュラスがこちらを振り返った。不思議そうな顔をするので「ほら、あったでしょ」と目を合わせる。

「……何ですか?」
「人魚姫が海でおぼれてた王子様を海岸まで運んで助けてあげる話」

 プリンセスの話だから男の子は興味がなかったかな、と思いつつ、けれども世界的にも有名な話だ。

「デンマークの有名な童話。知らない?」

 確かあれは嵐にあって船が難破して、王子に一目惚れをしていた人魚が咄嗟に彼を助けようとしたんだっけ。それから岩陰から王子が目を覚ますのを窺っていて、と思い出しながら話して「あ!」と声を漏らす。

「だとしたら私はたまたま通りかかった隣国の姫ポジションの女じゃん」

 そんな冗談を飛ばしてもレギュラスはきょとんとした顔をしたままで「え、ほんとに知らない?」と再度問いかければ「……人魚は知ってますけど、そんな童話は聞いたことないです」と返された。そこまで言われて、はたと気づく。彼はきっと純血の魔法族で、マグルの世界の童話を知らないのだと。

「……女の子向けだからかな」

 そうフォローを入れたが、どことなく気まずそうな様子を醸し出したレギュラスにそれ以上冗談を言える雰囲気でもないな、とほかの話題を探した。


***


 問題というのは次から次へと連なるもので、私はシャワーを浴びながら一人悶々と思案した。それは今夜二人の人間がどこで寝るかという問題で、ベッドは一つ、セミダブルのものがあるのだが、そこに二人で眠るか否か。枕代わりのクッションはある。セミダブルと言っても背の高いレギュラス一人が眠るのにちょうどいいサイズ感なので二人で眠るにはいささか狭さを感じる。生憎この部屋にソファはないので、どちらか一人がベッドで眠るならどちらか一人が床で眠る羽目になる。当然ここの主である私が床で眠るという選択肢を念頭から除外し、かといって今朝行き倒れていた人を床で寝かせるのも良心が咎める。さてどうするか。レギュラスは学生らしく、自分の年齢から考えれば最低でも五つは年下の男の子だ。ましてや今朝死にかけていた人間だ。一緒のベッドに寝たところで間違いが起こるとは到底考えられないだろう。よし、と腹をくくった私はシャワーのノズルをキュッと締めた。
 髪を乾かして部屋に戻るとレギュラスは私が何か言うよりも先に「俺、床で寝るので」と言ってきた。しかし私ももう腹をくくった身。「それはだめ」と一蹴し、それから少しの押し問答があって結局二人で背中合わせにベッドで寝ることに落ち着いた。



 人と一緒に寝るのなんて何年ぶりだろう。学生の頃の恋人ともそう多くは一緒に寝たことはない。全寮制の学校でそういう場がなかったから仕方がないのだが、学校を卒業してからそんな機会も増えるだろうと思っていたけれどそれらしい人も出来ず結局一人寝ばかりだった。なかなか寝付かれないだろうと思っていたが、今朝は起きたのが早かったからかすぐに眠気がやってきた。人の気配が気にならないこともなかったが、眠気の方が勝っていたのは確かだった。
 異変に気付いたのはふと目が覚めた夜半過ぎだった。夢の途中で目が覚めてうつらうつらとしている最中に、背後から唸るような声がした。寝ぼける頭で何だと振り返ればそこにいた人物に一瞬驚いたが、すぐに覚醒した頭が昨日のことを思い出した。それと同時に、レギュラスの唸り声はどうやら、魘されているそれだと気が付いた。こちらに背を向けたまま、体を縮こまらせるようにして眉間にしわを寄せてうんうんと唸っている。

「レギュラス。レギュラス?」

 肩を揺すってもなかなか目を覚ます様子がなく、余計に唸り声をあげる様に心配になって背中をさする。

「レギュラス、大丈夫?」

 ベッドから降りてレギュラスの正面に回り込んで、背中をさすりながら顔色を窺う。額に汗が滲んでいた。

「だれ……」
「私。わかる?」
「ナマエ、さん……?」

 昼間教えた私の名前をきちんと憶えていたから意識があるのは確認できた。冷蔵庫から冷えた水を出してグラスに注ぐ。

「大丈夫? すごい魘されてた」
「……すいません、起こしてしまって」

 体を起こしてベッドに座ったレギュラスを、床に膝をついて下から見上げる。薄暗い部屋の中で尚、顔色の悪さが窺えるほど、レギュラスは憔悴しきっているように見えた。
 浜辺に打ち上げられていて、何もないはずはないと思っていたが、これはやはり訳ありだよなと思う。

「水飲んで」

 喉が動き、グラスが空になるのを見てほっと息をつく。昨日出会ったばかりの他人ながら妙に他人と思えないのは、同じ魔法族だという認識からだろうか。
 空になったグラスにもう一杯水を注いでレギュラスの枕元に置き、ベッドに戻って「おいで」とレギュラスに腕を広げる。

「いえ……」
「いいから」

 無理矢理に抱き寄せるようにして背中をさする。

「ナマエさん、俺」
「弟にもよくこうやってたの」

 腕を回した背中は思った以上に大きかったけれど、その背を撫でているとどうもそんなに大きくはないようにも思えた。とんとんとあやすように背を叩いていると、レギュラスがそろそろと腕を回してきた。

「ナマエさん、……ナマエさん……」
「大丈夫だから」

 本当は私に弟なんていない。けれどもそう言わないとレギュラスは遠慮してずっと一人で抱え込んでしまいそうだと思ったから、咄嗟にそんな嘘を吐いた。譫言の様に私の名前を呼ぶレギュラスが肩口に額を押し当ててくる。乾かした直後はふわふわとしていた髪も今はぺたんとしていて、けれどもさらさらとした手触りは変わらなかった。

「ごめんなさい、ナマエさん……」
「大丈夫だよ」

 譫言の様に謝罪の言葉を紡ぐレギュラスに、私も譫言の様に大丈夫という言葉を連呼した。

「ごめんなさい、俺、……なんて言ったらいいか分からないけど、その……」
「大丈夫だから」

 昨日初めて会った人間に身の上話をするのなんて勇気がいる話だ。ましてや異性で、比較的年の近い人間にだと、どうしても生い立ちを比べてしまうだろう。「俺、どうしたらいいのか分からなくて……」そう零すレギュラスは何かに怯えたているようで、そんな彼に、私には優しく抱きしめてあげるしかないと悟る。

「ゆっくりでいいよ」

 何があったかは知らないけれど、やはり警察に届け出なくてよかったと思った。「ナマエさん……」私の名を呼ぶレギュラスの声音にどことなく懐かしさを感じた。ホグワーツに通っていたころ、私のことを慕ってくれていた後輩が私を呼ぶとき、こんな感じだったなと思い出した。ホグワーツを卒業して以来杖を握らなくなってしまった私は、同時に魔法界での記憶もほとんど思い出すこともなくなっていた。だから忘れていた。あの頃は仕様もないことを言って笑いあったし、他寮生に意味もなく嫌味を言って喧嘩を吹っ掛けたりもした。思えば本当に子どもだったあの頃の自分は、思い出すと少し恥ずかしい。
 明日は仕事に行かなくちゃいけないけれど、レギュラス一人置いて行って大丈夫かなぁ、と眠りに落ちて体温の上がり始めた大きな体を抱えて一人ぼんやり考えた。

20211125
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title by 誰花


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