とるにたらない日常


「シリウス・ブラック!」

 よく通る女の声が廊下に響いた。ぞろぞろと群をなして歩いていた集団は首だけを回して反応し、すぐに興味が失せたようにそれぞれの目的に意識を向ける。名を呼ばれた当の本人は人混みに紛れるように肩をすくめたが、しかし女の杖先がシリウスの首根っこを捉えた。まるで見えない釣り糸で手繰り寄せられるかのようにずるずると後退させられたシリウスが観念したように天を仰いだ。

「っだぁ、もうなんだよ」
「なんだよじゃないのよ」

 首根っこを掴まれた猫のように無抵抗で群衆から炙り出されたシリウスは、途端、ふっと途絶えた魔法にどさりと床に腰を落とした。そのまま胡坐をかくシリウスの前に仁王立ちしたナマエは「なぁにサボろうとしてるのよ」と見下ろす。

「ちげぇよ、荷物置きに戻るだけだよ」
「寮はそっちじゃないでしょ」

 グリフィンドールの寮とは真逆の方向をちらとみたシリウスははぁ、と小さなため息をこぼしながら立ち上がる。見下ろしていた生徒を今度は見上げ、背と態度だけはどんどんと大きくなるなと思いながらちょうどナマエは目の前にきたシリウスの首元を注視した。

「ネクタイくらいちゃんと結びなさい」

「何回同じ事言わせるの」と告げたナマエは所在無げにローブのポケットに突っ込まれているグリフィンドールカラーのネクタイを杖先で示す。するとシリウスはにやりと口端をあげて「ナマエちゃんやって」と腰を曲げた。まるで挑発するような態度に、ナマエが一振り杖を振るえばポケットに収まっていたネクタイはひとりでに宙を舞い、シリウスの首に巻き付いてするするときれいに結ばれた。

「年上に対してその口の聞き方はなんなの」

 最後にギュッと締まったネクタイがシリウスの首を絞めつける。「うげっ」と変な声を漏らしたシリウスはすぐさま人差し指をひっかけてそれを緩めた。

「年上っつったって六個だろ」
「一個だろうと十個だろうと年上は年上よ」

「そもそもこっちは教師であなたは生徒なのよ」と小言を漏らすナマエはホグワーツを卒業したばかりのまだ新米と呼べる教師で、シリウスとは一年だけだが在学期間が被っている。年が近いからと生徒たちからは慕われているが、とはいえシリウスのように度の過ぎる馴れ馴れしさを持つ者も少なくはない。

「先生、もしくは教授をつけなさい」

「この際敬語を使えとはまでは言わないから」と頭を抱えるナマエに「ナマエちゃん先生」と揚げ足をとるのがシリウスで、その言動は目に余る。
 はぁ、と今度はため息をこぼすナマエに、シリウスが勝ったといわんばかりにうれし気に肩を揺らす。

「二人とも、授業に遅れますよ」

 二進も三進もいかない会話を繰り広げていれば通りかかったマクゴナガル教授がそう告げてきた。やばい、とシリウスの腕をぱしりと叩いたナマエが「サボらず行くのよ!」とその背を送り出してマクゴナガルの傍らへ駆けた。

「ああいうのはあまり構うとかえって調子に乗りますよ」

 先輩からの一言に「うぐ」とナマエが言葉に詰まる。でも、と言いかけてすぐにその通りだと思って返す言葉が見当たらない。

「どうやったら威厳って出ますかね」
「時間がたてば」
「……先は長そうだなぁ」

 年下のくせに背が高いからと見下ろしてきて、言うことは聞かないし生意気にも口答えもしてくる。腹が立つことだって当然ある。けれどもやっぱり、後輩でもあり生徒でもあると思うとどうにも憎み切れないものなのだ。
 自分が学生の頃は、教師というのは生徒の顔と名前をたくさん憶えていてすごいと思っていたけれどいざ自分もなってみれば憶えられるものだと気づいた。一度覚えてしまえば毎年一学年分ずつ覚えていけばいい。もちろん記憶力は無限ではないから卒業していった生徒たちの顔と名前は少しずつ忘れてしまうけれど、時折教師陣で「あんな生徒いたな」と話せば、誰か一人は覚えているもので、そうやってみんなで記憶を共有するのも大人の楽しみだと、ナマエはここ数年で知った。

「あの子は後世、語り継がれる生徒になりそうですね」

 トロフィーに名が刻まれるわけでも、主席で表彰されるわけでもない。そんな生徒でも時折ひどく記憶に残る生徒というのはいる。スラグホーン教授の言う「一廉の人物」とはまた違うのだろうけれど、それでも記憶に残らないよりはいいのかもしれないと、ナマエは手のかかる生徒を思い起こして小さく笑った。

20211017


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