瓦解した世界


 ハリー・ポッターがホグワーツ城に現れて、闇の帝王の声が城中に木霊した。戦争が始まってそこかしこで破壊音、破裂音が響くなか、戦う意思のある成人に達した魔法使いたちは闇の陣営に立ち向かっている。未成年と戦う意思のない在学生は、逃げようにも逃げられないこの状況下では安全な避難場所に退避して事が過ぎ去るのを待つほかなかった。
 そんななかスリザリン生はそうというだけで隔離に近い扱いを受け、当然闇の陣営に相対しようと名乗り出る者はなく、ほぼすべての生徒が地下の寮へ閉じ込められていた。一部、闇の陣営に加担していた生徒を除いては。



 今期、学校へ戻ってこなかった生徒は今頃家族と安全な場所で肩を寄せ合っているだろう。もしかすれば誰かの親は今この城の外でここに攻め込もうとしているかもしれない。
 スリザリンが闇の魔術に傾倒しがちとはいえすべての生徒がそうというわけでもない。何も知らない下級生は恐怖に友人知人と肩を寄せ合っている。それぞれの寝室に戻らないのは、談話室の方が何かあった時に逃げやすいからだ。
 スリザリンの寮はホグワーツ城の地下、湖の下に位置している。地上階からけたたましい音がして、地下通路の石壁が揺れ砂ぼこりが降ってくれば、ホグワーツ城が破壊が危惧される。そうなれば地下にあるこの場所は破壊こそ逃れられても湖の水が流れ込んで皆溺れてしまうだろうことは容易に想像できた。それでもここを避難場所にしているのは、考え得る防護策が施されたホグワーツの一部であるからこそ。
 これだけ多くの人間が一所に集まっているのにこうも会話がないのは、それだけ今が切迫した状況だからだろう。普段は人だかりの中心にあるはずの姿がないだけで、普段の景色が一変してしまったように思う。
 ドラコは今、どこにいるのだろう。普段から行動を共にしているクラッブとゴイルの姿もないということはおそらく三人でいるのだと想像がつく。新学期が始まる前、何やら意味深な物言いをしていたのを思い出して嫌な考えがよぎる。元よりマルフォイ家は以前から闇の陣営に属していたから危険に身を置いていることに変わりはないのだが、それでも。
 握った手が冷たい。まるで真冬の寒空の下にいるかのように指先に感覚がない。地下は冷えるとはいえ、この指先の冷えはそれだけではない。
 窓の外には揺れる湖水。窓枠には生した苔。ガラス越しに湖の生物も騒ぎ回っている。窓に打ち寄せる水音は、普段なら心地いいものなのに今夜ばかりは不安を煽るものでしかない。
 外の様子が気になる下級生が廊下に出ようとすれば扉横を陣取っている監督生が阻止をする。外にはきっとフィルチもいる。何も自ら危険に首を突っ込むことはない。スリザリン生は大丈夫だ。皆そう言いたげな面持ちだ。狡猾とはよく言ったもので、私たちはただ狡賢いだけだ。今だって戦争の真っただ中にいて、あれだけ普段から闇の魔術に傾倒していると言われているのに、こういうときだけは安全な所に身を置いて胡坐をかいている。楽をして生き逃れようという魂胆が見え隠れする。勇猛果敢なグリフィンドール生と相性が悪いのは当然だ。だがこれがスリザリン生たる賢い生き方なのだから仕方がない。
 そうだというのに。普段あれだけ狡猾であったドラコが、この安全地帯を離れるなんて。スリザリン生ならマルフォイ家の噂は耳にしている。良い噂も悪い噂も。もちろんドラコが闇の陣営に加わったという噂も。ヴォルデモート卿は女子供にだって情けはかけない。成人したばかりの子供でさえも使い捨ての駒のように扱える人だ。

「ドラコ……」

 どうか無事でいて。祈るように組んだ指。そこに唇を寄せて彼の名前を呟いた、その時だった。ドォン、と一際大きな音が地下室にまで届いた。仲間内で会話をしていた者も舟をこぎ始めていた者も全員がばっと視線を天井に上げた。出入口の傍に居た監督生が廊下に頭を出して様子を窺う。フィルチもまたミセスノリスを抱いて地上に続く廊下の先を見ていた。



 どれくらいの時間が経過しただろうか。
 談話室で雑魚寝をする人の多くが、自室から布団を持ってきていて、談話室のいたる所に緑の苔のような山がいくつもできあがっていた。交代で扉の番をしていた監督生も転寝を始めていて、談話室で目を覚ましているのはほんの一握りの者しかいないように思えた。そんな中をなるべく人を起こさないように移動して、扉を押してそろりと廊下に頭を出した。扉の横の壁には座り込んだフィルチがいて、その隣には伏せていたミセスノリスがこちらを見上げて、けれどもすぐに興味なさげに瞼を下ろした。
 外は静けさに満ちていた。深夜のホグワーツを思わせる静けさ。それまでの騒音の一切がなくなり、誰もが寝静まった明け方の気配。ミセスノリスの隣を抜けて廊下を進む。自分の足音しかしない空間。しばらく歩くと地上に続く階段が見えて、数段上れば、普段はない小石がいくつか転がっているのが目に付いた。上れば上るほど瓦礫は大きくなり、地上に出る頃には壊れた石像、石壁の一部と思われる大きな岩が転がっているのが視界に入ってきた。その光景に絶句した。最後に見たホグワーツ城の面影もないほどに崩れた城内。思わず息をのむ。火薬を使ったのか、硝煙が立ち込めていて口元を覆わないと咳込んでしまいそうになった。
 最後に見た城の記憶を頼りに大広間に足を向ければ、そこには想像を絶する光景があった。床に等間隔に並べられたあの人たちは。頭まで布をかぶせられているその理由は。大広間の端に寄せられたテーブルに座る人々は安堵、悲愴、絶望、様々な感情をその面にのせて目の前の光景を見ていた。
 その雰囲気から、戦争が終わったのは感じられたが、しかしどこか取り残されたような気分になった。
 大広間を見回して彼を探す。目立つホワイトブロンドだからいればすぐに見つけられる。そう思ったのに。どこを見ても見当たらない。疲弊しきった人々の合間を縫って歩く汚れ一つない自分は一体どんな風に見えるのだろうか。

「ドラコは……」

 見知った顔に問いかけても、何だお前はという顔で頭を振られる。散々闇の陣営に傾倒した物言いをしていたんだ、ここにはいないのかもしれない。そうは思っても、ここ以外でどこをどう探せばいいのかわからない。
 朝日が昇り、日が差し込んだ大広間は居心地が悪い。何かを言いたげな視線から逃げるようにそこを出て、当て所なく歩いて広い廊下に出た。ここは何階だろうか。瓦礫と一緒に、大広間まで運ばれなかった人々がまるで眠るように瞼を閉じている。ざわざわと胸の奥がざわつく。言いようのないこの感情が、涙となってこみあげてくる。

「ドラコ、お願い……」

 無事でいて。今夜、そう何度願ったことか。床に落としていた視線をあげた、その時だった。廊下の角を曲がって現れたその人に体が勝手に動き出す。

「ドラコ!」

 瓦礫に躓いて転げそうになりながら走り寄れば、こちらに気づいたドラコが顔を上げた。その沈痛な面持ちにドキリと心臓が嫌な音を立てる。駆け寄って勢いのまま抱きしめれば、しかしドラコの腕が私の背に回されることはなかった。

「け、怪我は?」

 上がった息を整える間もなくドラコの頬に、肩に、腕にと視線を巡らせる。「してない」と短く返ってきた答えによかったと安堵の吐息が漏れる。

「ドラコ、一人?」

 一緒にいると思っていたクラッブとゴイルがいない。はぐれたのか、それとも闇の陣営として撤退したのか。そう問いただせば次の言葉で思考が停止した。

「……クラッブは死んだ」
「……え」

 まるでそこら辺の瓦礫で殴られたような衝撃。はっきりとしたドラコの言葉に嘘の気配は微塵もない。「ゴイルは」一瞬言い淀み、それから「分からない」ドラコの表情は今までに見たことのない色をしていた。直接人の死に触れた者にしか分からないなにか。

「そんな……」

 それ以上の言葉が紡ぎだせない。薄いブルーグレーの瞳が微かに揺れるのを見た。

「お父様と、お母様は……」

 ドラコの両親は闇の陣営の中心に近いところにいた。とかくルシウスに関しては闇の帝王の側近でもあった。聞くのが怖い、けれども確かめずにはいられなかった。言葉を紡ぐ直前、ドラコの唇の動きが酷くゆっくりに見えた。

「父上と母上は無事だ」
「……よかった」

 嫌な緊張が霧散した。三人とも無事だったのなら、そう安堵してからの力が抜けた時、ドラコの体が傾いでこちらに倒れかかってきた。私より高い背のドラコを受け止めれば、今度は彼の腕が背に回ってきた。苦しいくらいにきつく力を込められて、肩口に額を押し付けられた。

「僕は……」

 ドラコは言い淀み、しかしそこから先の言葉は紡がれなかった。声にならない音を漏らすその大きな背は、まるで子供のように小さく思えた。

「大丈夫、大丈夫だから」

 そっとその背を撫で、持てる力すべてで私はドラコを抱きしめ返した。



 喪失感は大きく、悲しみは深い。それまで信じていたものはなんだったのか。打ち砕かれたのは世界の闇か、それとも一人の青年の信念か。問われたドラコの正義が、今日の日の朝日に霧散し、昇華されることを願わずにはいられなかった。

20200819
一周年企画/北さんリクエスト


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