甘い毒


 羽風薫の8月22日

 せっかくの日曜日だっていうのに何が悲しくて男二人で巨大水槽を眺めているのか。隣に座る奏汰君は楽し気に揺れているというのに俺はその隣で一つ溜息をつくしかなかった。
 元は海洋生物部の活動実態のためにと颯馬君と三人で来る予定だった。それが紅月の用事だかなんだかで颯馬君が欠席となっての奏汰君との二人だ。
 勝手知ったる奏汰君ちの水族館だからと各々自由に行動しようと言って解散したのはほんの十分前だった。さてどうやって時間をつぶそうか。場所柄、女の子同士で来ている子は少なくて家族連れかカップルか。ナンパ出来そうなら年上のお姉さんでもいいかな、なんて思いながら館内一番の目玉の巨大水槽の前にいた、そんな時だった。
 周囲の人が騒めきだして、何事かと様子を窺えば水槽の前に人だかり。少し背を伸ばして人垣の上から向こうを覗き込めば見知った人物に肝が冷えた。すぐに人垣を縫ってその人物を捕まえて水槽前から引きはがした。

「かおる、なにするんですか」
「いいから、こっちきて」

 不平不満を漏らす奏汰君を引きずって巨大水槽から離れる。そうすれば出来ていた野次馬たちも散り散りになり、水槽越しに集まっていた魚たちも散った。そう、魚たちが集まっていたのだ。奏汰君はその家系のせいか不思議と海の生き物に好かれる。奏汰君が水槽の前に立てばそこに魚が集まってきて、その光景に周囲の人々も集まってしまったのだ。
 周囲が騒めくのに気付きもしない本人は「わぁ、おさかなさんがいっぱいです」といつものその調子で、だから俺が動く羽目になった。
 巨大水槽が見られるところに設えられたベンチに二人並んでぼんやりする。ざわざわとしていた周囲も時間が経てば自然と落ち着きを取り戻した。薄暗い館内でどこからともなく聞こえる水の音を聞きながらのんびりするのは、まあたまにはいいのかもしれない、なんて考えていれば「あれ、奏汰くん?」女の人の声がした。

「ナマエさん、こんにちは」

 ふと顔をあげれば奏汰君の視線の先、声のした方にはここの制服を着た学芸員のお姉さんが立っていた。奏汰君の知り合いらしい。「こんにちは」とあいさつを返したその人の話し口調はとても静かで清楚な雰囲気を纏っていた。

「お友達?」

 俺の方を見てきたその人は水槽を背に立っていて、薄暗い館内で尚且つ逆光にもなっているからその表情は見て取れない。けれども声音と雰囲気で優しそうな人だと思った。多分年も、そんなに離れてはいない。「こんにちは」と挨拶すれば「こんにちは」と返ってくる。はっきりと自分に向けられた言葉がこんなに耳に心地いいと思ったのは初めてだった。

「今日はどうしたの?」

 そう問いかけてきた女性に奏汰君がのんびりとした口調で説明をする。それを聞いて「そっか、大変だね」と零したその人は「夏休みの宿題はもう終わった?」と来週に迫った新学期を思い出させる。

「ナマエさんはらいげつまでおやすみなんですよね」
「うん、だからしばらくはここにいるかな」

 来月まで休み、ということは大学生かな。一人考えを巡らせていれば「ナマエさんは『だいがくせい』で、ここで『ばいと』をしてくれているんです」と奏汰君が聞いてないのに教えてくれた。

「君も、夢ノ咲の?」

 その人が俺に問いかけてくる。「はい」と答えれば俺の横で奏汰君が「かおるです」と紹介する。「初めまして」と言ったその人は、暗くて見えないが微笑んだのが分かった。きっと綺麗に笑っているんだろうな。

「どうりで」

 華があると思った、と変に褒めるわけでもなく、お世辞を言った雰囲気でもないその言葉に、俺は素直にこの人に興味を惹かれた。
 それから他愛もない話をぽつぽつとしていれば不意に「すみません」と声がかかった。見れば、家族連れがお姉さんを呼んでいる。「はい」と声を張ったその人は「ゆっくりしていってね」と言い置いて水槽前にいる家族連れに歩み寄った。その後ろ姿を追ってみれば、子供が水槽の中を指さしながら何かを頻りに話していて、その子供の目線に合わせるようにしゃがみこんだ彼女は子供と一緒に水槽の中を指さしながら笑顔で何かを話している。水槽を照らす青いライトが彼女の横顔を浮かび上がらせていた。
 その様子をぼんやりを眺めていたら隣の奏汰君が「ふふ、かおるのすきそうな『だいぷ』ですね」と笑った。いけない、奏汰君がいるのを忘れてた。「奏汰君、俺のタイプ知ってるの?」なんて冗談めかしてはぐらかしたが、俺はこの時、一目惚れっていうのを初めてした。

***


ミョウジナマエの9月14日

「ミョウジさん、お客さんだよ」

 研究室でパソコンを睨んでいればドアから顔を覗かせた受付の女性が私を呼んだ。

「私に? 誰ですか?」

 一介の学生バイトである私にお客なんて、と思い問いかければ受付の女性はふふ、と小さく笑って「羽風さんちの薫くん」と言いながらそのまま扉を閉めた。
 薫くんが時折奏汰くんと一緒にこの水族館に来るのは職員の間ではけっこう知られている。羽風さんというのはこの辺りの名士らしく、深海家とも昔から御縁があるらしいというのはここで働くようになって知った話だった。羽風という名は館内従業員の間では割と有名人として扱われていて、その息子の薫くんも奏汰くんと同じ夢ノ咲に通っているからみんな知っている。
 睨みつけていたデータに上書き保存をして席を立てば斜め向かいの上長が「ついでに休憩入ってきていいよ」と告げた。それに甘えて「ありがとうございます」と財布とハンカチを手に研究室を出た。
 白を基調とした館内裏側。水族館内は青く深い海の中をイメージした調光がされているが裏側は研究所というイメージの白が強い。
 誰も歩いていない廊下に足音を響かせながら、かけたままだった眼鏡を外して胸ポケットにさす。研究室から出て従業員通路を抜ければ、入場ゲートを通ったすぐの広間に通じる扉に行きつく。
 平日の館内は人が少ない。扉を抜けて広間に立てばゲートを抜けたすぐの所にあるヒトデの入った小さな水槽を眺めている薫くんが居た。夢ノ咲のあの目を引くブレザーを羽織っていなくても薫くんの容姿は人目を寄せる。

「薫くん」

 呼べば、すぐに振り返った薫くんが笑顔を見せる。その姿が犬のようで可愛いなと思う。三つしか年が違わないのに、可愛いっていうのは失礼か。その姿は弟のような愛らしささえある。

「どうしたの?」

 腕時計を見れば十五時。平日の今日、まだ学校は終わっていない時間だろうに。「学校は?」と問えば「サボってきちゃった」といたずらをした子供のような笑みを浮かべる薫くんに「ダメじゃない」授業はちゃんと受けないと、と言いながらSTAFF ONLYの扉を開けて従業員通路に招き入れる。
 高校生の夏休みが終わる八月最後の日に、薫くんは一人で水族館に来た。聞けば、その一週間ちょくちょく顔を出していたらしい。その頃私は餌やりや研究室の手伝いなど裏方の仕事をしていたから知らなかったけれど。その日は私がたまたまショップの手伝いに入っていて、それに気づいた薫くんが声をかけてきたのだった。曰く、「ナマエさんと仲良くなりたくて」と。その時は純粋にすごいなぁと思った。今時の子はこんなにストレートに物が言えるんだと。三つしか違わないけれど、アイドルをやっていて自分に自信があるからなのかな。

「コーヒーでいい? ていうかコーヒーしかないんだけど」

 従業員用の休憩室に案内する。ブラックコーヒーしか落とせないコーヒーメーカーは年季が入っている。どうしても他のものを飲みたい人は館の裏側にある従業員入り口の横の自販機で飲み物を買うが、タダで飲めるコーヒーは案外人気だ。

「今日は白衣なんだ」

 向かい合って座ると薫くんはブラックコーヒーに口を付ける。私は砂糖を二つ入れないと飲めない。「これ?」と自分の襟元を引っ張って見せながら「今日は研究室のほうだからね」と話す。研究員の仕事の手伝いの時は白衣、チケット販売やショップの手伝いの時はきちんとした制服を着る。裏方で餌やりをしたり小さい水槽を洗ったりするときは作業着だ。
「なんかかっこいいね」という薫くんは「雰囲気が違う」と素直に褒めて感想をくれるから、その女性慣れした態度には男性慣れしていない自分は年下相手でも少しどぎまぎする。
 大学を卒業したらそのままここに就職する予定になっている。ここのバイトを紹介してくれた大学の先輩も今はここに勤めている。バイトという名だがしている内容はインターンに近い。だから、受付もするし裏方もする。社会経験になっていい。

「ナマエさん、眼鏡するんだ」

 胸ポケットにさしていたそれを指さす薫くんは本当によく気付く子だ。「これはね、ブルーライトカットの」度の入っていないそれ。幸い視力は良いほうだ。最近はパソコンを睨むことが増えて少し心配だけれど。

「ね、かけてみせてよ」

 そんなこと言う薫くんは高校生らしい表情を見せる。何が楽しいのか、見ても面白いものはないというのに。けれども薫くんの様子をみるとどうにも彼のおねだりを聞いてしまう自分は、薫くんに甘いのかもしれない。

***


ミョウジナマエの10月7日

 十九時ごろ、LINEが鳴った。見れば薫くんで、『ナマエさん、まだあおうみ?』いつだったか、授業の話をして大学は三年生にもなれば授業数結構少なくなるんだよ、と言って、それでだいたい何曜日に水族館にいるのかの話をした。薫くんは律儀にそれを覚えている。

『うん。薫くんはもうお家?』

 送信すれば五分と経たずに返信が来た。

『練習してたから今帰り』

 そっか、大変だな。アイドルは華やかな部分が取り沙汰されがちだが体力勝負の所もある。運動部と同じかそれ以上。歌にダンス、それらを練習に練習を重ねていくならば体力はいくらあっても足りることはないだろう。
『気を付けて帰るんだよ』と送ればすぐに既読がついて、けれどもそこからの返信はなかった。



「お疲れさまでした」

 二十時を過ぎてようやく席を立った。大学のゼミの課題もここで一緒にさせてもらっていたおかげで随分捗った。普段、研究室の方では資料の作成やデータ化をするとこが多かったが、過去のデータを見ていたおかげでゼミの課題のヒントも得られた。
 タイムカードをおして従業員口を出たらひんやりとした風が頬を撫でた。十月に入って温かい日と肌寒い日が交互にやってくることが増えた。今日はマフラーを巻いたほうがいいかもしれない、と鞄の中を覗き込んだ、その時だった。

「あ」

 どこからともなく声がして、顔をあげれば自販機の横に薫くんがいた。

「え」

 低いブロック塀は隣の敷地との境目のためだけにあって、腰かけるのにちょうどいい高さ。そこにいた薫くんに、驚いて「どうしたの?」と問えば「ナマエさん待ってた」と薫くんは笑った。さっきLINEしたのに、と思いながら薫くんの傍まで寄る。季節は秋。朝晩は冷えるし今日だって日中も暖かい日ではなかったのに。ブレザーを着ているとはいえ外に居るのは体を冷やす。
「言ってくれたらよかったのに」と言えば薫くんは頭を振りながら「ナマエさんの邪魔はしたくないし」と肩を竦めてはにかみながら、綺麗な手をすり合わせた。その手に触れればやはり冷たい。

「冷えてるじゃない」

「これ使って」と先ほど出しかけたマフラーを薫くんの首にかける。幸い男の人が使っても違和感のない色のものでよかった。暖かい飲み物を買ってあげようと自販機を見れば、どうやら今日は皆考えが同じだったらしい。まだ少ししか並んでいない温かい飲み物はすべて売り切れになっていた。
 駅まで一緒に歩くという薫くんと連れ立って街頭の少ない道を歩く。水族館は海辺にあるため、従業員のほとんどは車で来ている。駅から遠いというわけではないが、やはり公共交通機関よりも自家用車の方が便利が良いのだろう。休日ともなればこの道も家族連れが連なって歩く姿も多く見られるが、しかし平日の夜にもなればそれもない。そんな静かな夜道を二人並んで歩いていれば「ナマエさんいつも土日はここにいるよね」と聞いてくる薫くんは「彼氏いないの?」と私の方を覗き込んでくる。まったくもって、他人の色恋に興味を示す年頃なのは男も女の関係ないみたいだ。

「高校生が何言ってるの」

 そう言ってはぐらかそうとすれば「あ、もしかしてここで働いてる人?」と相手の詮索をしてくる。

「違うわよ」
「じゃあ彼氏はいるんだ?」

 言い方から推測されて、すぐに返す言葉を無くす。観察眼があるというか、頭の回転が速いというか。肯定とも否定ともつかないような曖昧な笑みを見せれば薫くんは一瞬を黙って、けれども「……何か訳アリ?」と尚も興味を見せる。そんな薫くんに「そういう薫くんは? 彼女いないの?」と問う。いそうだけど、でもアイドルをしてるからそういうの厳しいのかな、なんて思っていれば「いないよ」とはっきりとした声が返ってきた。

「でも彼女にしたい人はいる」

 そうはっきり言うから、最近の子はやっぱりませてるなぁ、なんて思いながら「そっか」と返せば「ナマエさん」と呼び止められる。足を止めた薫くんに、つられて一緒に立ち止まる。やけに真剣な顔をしている薫くんに「どうしたの」なんて問えば、我が耳を疑った。

「俺、ナマエさんが好きなんだ」

 真剣な表情の束の間、「ナマエさんならもう気づいてるでしょ」なんて困ったように笑う薫くんに、そんな表情をしたいのは私の方だと心の中で毒を吐く。何となくそんな気はしていた。やけに懐かれているなと思っていた。けれども三つ年下の現役の高校生が年上の女に興味を抱くなんてそうない話だと思っていた。だって男の人は総じて年上と年下なら、年下の女の子の方がすきだと相場は決まっている。それなのに。面と向かってはっきりと告白をされたのが初めてで、どくりと心臓が脈を打った。頬に熱が集まって、夜風が撫でてくれて少し気持ちがいい。

「確認しときたいんだ」

 答えに窮している私の気持ちを知ってか知らずか、ぽつぽつと言葉を紡いだ薫くんに「なにを?」と小首をかしげて見せれば「ナマエさんに彼氏がいるのかどうか」と、またしてもはっきりと告げられる。
 どうしてこうも、この子は真っすぐに人に思いを伝えられるのか。「上手くいってるなら邪魔はしないから」なんて言われて、そう言われてしまうとなんともうまい返しが見当たらない。適当に嘘をついて彼氏とは順調だから薫くんの気持ちには応えられないってはっきり言えたらよかったのに。曖昧に笑う私に、薫くんがその意味に気づかないはずない。

「彼氏はね、一応いるよ」

 大学に入って出来た彼氏。同じ学科で受ける授業が被れば一緒に課題をする時間も増える。同級生で、大学という新しい環境で親しくなった異性に、特別な感情を抱くのは時間の問題だった。告白らしい告白のないまま付き合い始めたのは大学一回生の秋と冬の間、ちょうど今くらいの頃だった。人並みの男女関係を築き、人並みに一緒に過ごしていた。けれども大学も三回生ともなれば授業も減り、同時に就活で慌ただしくなる。一緒に過ごす時間が減り、互いにゼミで忙しくなる中でバイトだの就活だのとなればすれ違いの時間も生じる。私は水族館に就職が決まっているも同然で、その環境も彼にはどこかしらのプレッシャーを与えてしまっていたのかもしれない。徐々に疎遠になる関係には恋人らしさの片鱗すら見えなくなってきていた。
 三回生に上がるまでは、それこそ土日にはいつも顔を合わせていた。けれども私も就職に繋がるからとバイトを増やして、彼は彼で課題やゼミの方に勤しんでいた。そんな中で私の内定に近い話が持ち上がった時、彼は素直に喜んでくれた。けれども同時に複雑そうな顔もした。
 学校で会えば普通に話すし食事も一緒にする。けれども約束をして会うなんてことはもう随分していなくて、付き合っているのかと問われれば、二つ返事にイエスとは言い難いそんな関係。正直自分でも、今も彼と付き合っているといえるのかは分からない。

「……何でこんな話、薫くんにしてるんだろうね」

 ぽつぽつと喋りだせば思いのほか話は止まらなくて、きっと私はこの話を友人でもない第三者に聞いてほしかったのだと思う。それと同時に。

「じゃあ俺にも可能性はあるってこと?」

 そんな風に薫くんに言わせている私は、きっとそれを願っているのかもしれない。けれども口をついて出るのは「……それはどうかな」なんて天邪鬼な答え。年下だし、薫くんアイドルだし、なんて決定的な否定の言葉は紡がないまま、けれども完全には拒絶せずに、一定の距離を保とうとする私はズルい。

「年下はダメ?」

 年下と言っても三つ。学生のそれは大きく感じるが、社会に出れば大差ない。こんなのただの、気持ちの問題だ。

『かおるはいいこですよ』

 いつだったか、奏汰くんに言われた言葉を思い出す。珍しく水族館に一人で来ていた奏汰くんに会った時。なんてことない、他愛もない話をしていた時だった。ふと「学校はどう?」なんて尋ねてしまったが最後、気が付けば話題は薫くんになっていた。そして言われたその言葉。だからどうしたっていうのか。にこにことほほ笑む奏汰くんからはその真意は読み取れなくて、「……そうだね」と返すのが精いっぱいだった。

「今すぐは、ちょっと考えられないかな」

 そうやってはぐらかす。はっきりとノーと言えない私はきっと何かを期待している。

***


二人の11月3日

『今日仕事? 終わったら会えない?』

 文化の日の祝日。そんなLINEが入っていたのはお昼過ぎだった。薫からのそれに『大丈夫だよ』と返信をしたナマエはそのままスマホをロッカーに仕舞って仕事に戻った。
 祝日は家族連れが増える。とはいえピークは一五時程度までで、そこからの入場者はあまりいない。チケット販売の方に入っていたナマエは一六時きっかりに席を立つとタイムカードを押してロッカールームに向かった。

『いま終わったよ』

 LINEを送って着替えていればブブ、とスマホが振動する。開けば薫の居場所を告げるメッセージ。

『海浜公園にいるよ』

 あおうみ水族館の裏手にあると言ってもいいその場所は徒歩ですぐ。夏の盛りには水族館に遊びに来た家族連れがそのまま浜まで来ているのをよく見かけたが、季節が冬に差し掛かった今はそんな人も少ない。大抵いるのは、季節外れの海をも楽しめる高校生か、ロマンチックに浸りたい恋人たちか。
 海風冷たい遊歩道を足早に歩いて海浜公園に行けば疎らだが人はいた。薫くんはどこだろうか、と探すナマエはすぐにその後ろ姿を見つけた。風に金糸を靡かせている。

「薫くん」

 呼べば、いつかと同じように振り返ったあの笑顔。まるで懐いた子犬のよう。浜から離れたベンチの並ぶそこには、他には近所の、散歩をしているおじいさんくらいしかいない。

「どうしたの?」

 薫の隣に腰かけながら問うナマエに、制服姿の薫が「用事があって学校に来てたんだ」と告げた。薫の足元の紙袋を視界の端に捉えながら、ナマエは水平線に視線を向ける。十六時過ぎの日差しは水面に反射して眩しくも暖かいきらめきを宿す。昼から夕方に傾きかけた太陽は眠そうに柔らかい。

「薫くんって律儀っていうか、真面目、だよね」

 水平線を眺めながらそういうナマエに、「なんで?」と彼女の横顔を見た薫がきょとんとした顔をした。「だって」と口を開いたナマエは「人目につかないようにここに呼んだんでしょ?」と薫へ振り返る。普段なら水族館の従業員口で待っていて一緒に駅まで歩くのに、それをしないのは今日が祝日で人出が多いから。「ちがう?」と問うナマエに「たまたまだよ」と薫が俄かに笑みを浮かべた。

「そこまで考えてなかった」

 ちょうどいい時間だし海に行ったら雰囲気いいかなって、と零す薫にナマエは「そっか」とつられて笑う。

「……うそ。ほんとは、まだこの時間だし、会えるならいつもより長く一緒にいれたらなって思って」

 ナマエの顔から笑みが隠れる。視線を合わせた二人の間に沈黙が訪れる。互いの互いを探るような空気。「あのね」と先に口火を切ったのはナマエのほうだった。「話したいことがあるの」とナマエが視線を自分の膝に置いた手に落とす。

「別れたよ。ちゃんと」

 結末は思いのほかあっさりとしていた。大学に入学してすぐの頃に知り合って付き合いだした彼氏は、お互いにきちんとした付き合いというのは初めてだった。だから、別れ方が分からなかった。別れ話を切り出すのが億劫で、気まずくて、最近は就活のことなんかもあってこのままなあなあにしていれば自然消滅になるかな、なんて考えていたのはお互い様だった。それを告げてきたのは彼の方だったけれど、そのことを言われてもナマエも酷く傷つくことはなかった。だからよかったのだ。互いに円満に別れられた。変に自然消滅になってしまうよりかは今後は仲のいい友人として接せられる。

「って、こんなこと、薫くんに言っても仕方ないのにね」

 でも言っておいたほうがいいだろうなって思ったから、と続けたナマエは、けれども言い訳がましく「他人の別れ話なんか興味ないよね」とうだうだと続ける。そんなナマエに「ナマエさん」とそれ以上の言を遮ったのは薫だった。
 口を噤んだナマエが薫を見遣る。真っすぐと自身を見据えるその瞳に、ナマエが居心地悪そうに視線を泳がせる。

「ありがとう、教えてくれて」

 海風が薫の長い毛先を空に泳がせる。普段は目元を少し隠す前髪も、今は風に流されてその表情がよく見える。真摯な表情。彼氏との関係もうまくけじめがつけられない自分はと己を卑下するナマエには、その表情は目を背けたくなるほど眩しい。情けないほどの自分の話を真剣に取り合ってくれる姿に、どこまでもいい子だなぁとナマエの心が揺れる。

「その話が聞けて良かった」

 そう告げた薫は「実は俺、今日誕生日なんだ」と苦笑を浮かべた。

「え」

「そうなの?」と驚くナマエに「そ。今日も実は学校に呼び出されてさ」と可笑しそうに話す薫。「なんだろうって行ったら講堂で誕生パーティー」笑えるでしょ、アイドル科は男ばっかりなのに、そう話す薫は、けれどもさして嫌そうでもない。

「俺、男に誕生日祝われても嬉しくないし」

 だからナマエさんに今日会えてよかった、と笑った薫に、ナマエは「言ってくれればプレゼント、用意したのに」と眉を下げたが薫は「さっきので充分だよ」ベンチに手をつき、上体をのけぞらせて空を仰いだ。

「あんなの全然、プレゼントでもなんでもないよ」
「じゃあ、俺と付き合ってくれる?」

 突然の薫の言にナマエが窮す。「……え、っと」と答えあぐねれば「ごめん、冗談」と薫が肩を揺らす。

「でも、これから本気でいくから。覚悟しててね、ナマエさん」

 その言葉に、ナマエは人知れず心臓をうるさく鳴らした。

20201104
副題「思い思われ振り、振られ?」


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