彼の愛に絆された
忘れられないのは愛の続き
朝、目が覚めたら凛月くんのために敷いた布団で一緒に毛布にくるまっていた。カーテンの隙間から差し込んだ朝日がちょうど顔に当たって眩しい、と寝返りをうとうとしたら酷い倦怠感に見舞われた。思わず「うっ」と漏れ出た声に、私が目を覚ましたことに気づいた凛月くんが朝だというのに真夜中のように陽気な声で「おはよぉ」と言う。
「おはよう……」
瞼がひどく重く、頭をもたげるのも億劫なくらいだ。目覚ましもかけずに寝たというのに眠気が残っている。私の頭を撫でる凛月くんの手が優しくもう一度寝ていいよと言っているような気がした。
「凛月くん、どうしたの。朝なのに」
普通の人とは真逆の生活リズムの凛月くんが今日に限っては朝だというのにとても元気に見える。
「ナマエのおかげだよ」
「私の……?」
「そ、ナマエの血飲んだから朝から元気なの。でもナマエはまだ眠そうだね」
「ん」
「いいよ、寝て」
優しく頭を撫でてくれるのを感じながら、脳内では昨晩の記憶がにわかに蘇ってきた。それと同時に襲い来る眠気にはあらがえず、私は凛月くんのぬくもりの傍でもう一度眠りに落ちた。
「そんなに怯えられると、無理矢理ひどいことしたくなっちゃう」
それはまるで悪魔の囁きだった。酷く恐ろしいことを言っているのにその声音はとても甘く、秘事を囁くよう。
恐怖に震える私の指先を、恐怖を与えている本人が優しく包みこむ。人肌のぬくもりが伝わってくることに、この人に安心してはいけないはずなのに少しだけ手の震えが収まるのが自分でもおかしく思う。
ぽろぽろと零れ落ちる雫が頬を伝うのを凛月くんがキスをしながらなめとっていく。
「甘い」
「うそ」
「ほんと」
涙が甘いわけがない。それなのに右の頬、左の頬、こぼれる涙をすべてなめとった凛月くんは最後にわざとらしくリップ音を立てて私の唇にキスをした。初めてのキスなのに、こんな時に奪われてしまうなんて。
「ナマエ」
「り、凛月くん」
ちゅっちゅっと繰り返しキスをしてくる凛月くんに、まるで私たちが恋人同士のようだと錯覚させられるほどに甘い雰囲気が流れる。
「凛月くん、だめ」
唇と唇の間に手を差し込んで壁を作る。私の指の腹に触れた凛月くんの唇は薄くても柔らかい。
「なんで止めるの」
「なんでって、私たちそういう関係じゃないよね……?」
そう告げれば凛月くんの赤い瞳が一瞬揺らいだ。
「ナマエってば、律義っていうか頑固っていうか、そういうとこあるよね」
まるで興をそがれたとでも言いたげに視線を落として離れた凛月くんは胡坐をかいて首に手をやった。壁際に追い込まれたままだった私もやっと解放されて、凛月くんの前に座りなおした。
「ナマエは、俺の気持ち気づいてるよね?」
「……知らない」
知らないのではなく、本当は知らないふりをしている。
何となくは気づいていた。真緒くんが自分に向けてくる好意と凛月くんが自分に向けてくる好意の違い。それは日を追うごとに如実に、顕著に、明確な差が生まれていた。けれども気づかないふりをした。それは偏に、自惚れたくないという思いからだ。幼馴染と言っても今はアイドルをしていて、多くの女の子を相手にしている。そんな彼からの特別な好意に、気づいてはいけないと思った。それに、例の一件もあったから。
「ナマエはバカっぽいけど、ちゃんと賢いって知ってるよ」
「……」
「ナマエがどうして俺を避けてるのか、ちゃんとわかってる」
ファンの子たちに刺激を与えないようにするためだってこと。でもそれだと、俺の気持ちはどうなるの。
「……っ」
凛月くんの言葉が重くのしかかる。そうだ、アイドルといっても一人の人間で、もちろん誰かを好きになることだってある。
「それは……ごめんなさい」
アイドルは恋人を作らない、作ってはいけない。そんな暗黙の了解のようなものを彼に押し付けていたのは自分だ。彼は一言だってそんなことは言っていない。
「で、でも、それとこれとは関係ない」
意を決して伝えた言葉は、思いのほか凛月くんを驚かせたらしい。恋人同士になることと血を飲ませることは別問題だ。
「……丸め込めるとおもったのに」
「やっぱり!」
静かに伸びてきた凛月くんの手が私の手首を掴んで、そちらへ引き寄せられる。そのまま抱きすくめられるともう身動きが取れなくなる。
「俺、ずっとナマエのこと好きなのに」
なんで分かってくれないかなぁ、と零す凛月くんの腕は強く、苦しいほどに抱きしめてくる。
「凛月くん、苦しい」
「ナマエなんて苦しんで当然だよ」
凛月くんの腕をたたけば思いのほかあっさり解放された。居住まいを正すように座りなおすと自然と正座する形になる。
「どうして私なの?」
「ナマエだからだよ」
「……だから、どうして」
「……」
堂々巡りの会話がなされそうになる。凛月くんが言った「俺、ナマエの血が忘れられないの」という言葉。その意味がいまいちよくわからないのだ。
「真緒くんの血も飲んだんだよね……?」
「うん」
だったら真緒くんに頼めば、なんて無責任な言葉がでそうになるのを抑えて「なんで私の血なの?」と問えば「ナマエの血、美味しいんだよねぇ」と目を細められた。それが妙に恐怖をあおる。
「……血の味ってそんなに違うの?」
「ナマエは聞いたことないかなぁ」
好きだから美味しく感じるという話。
「なに、それ」
「そのまんまの意味」
それは科学的に証明されているわけでもないし証明のしようのない話ではあるが信憑性は高いという。「兄者も言ってたから」という凛月くんは、だったらいつからそのことを知っていたのだろう。
「でも、それって絶対私じゃなきゃいけないってことじゃないよね……?」
「往生際が悪いなぁ、ほんと」
俺はナマエの血が飲みたいって言ってるの、とはっきりという凛月くんの目はいたって本気で、まっすぐだ。その視線から逃げるように膝に置いた手に視線を落としていれば、なんだか私が悪いことをして叱られているような感覚になってきた。
「血って……どうやって飲むの?」
「吸血鬼がどうやって血を飲むか知らない?」
知っている。おとぎ話では吸血鬼は女の首筋に牙を立てて血をすする。噛まれるのは、実際に体験している。
「噛むの?」
「ちょっとだけ」
「……痛いよね?」
「じゃあナイフで切る?」
その提案に身の毛もよだつ。想像しただけで貧血を起こしそうだ。頭を振って遠慮する。
「噛むのって首?」
首は人間の急所の一つだ。動脈を傷つけたら出血多量で死んでしまうのではないか、そんな不安がよぎる。
「どこでもいいよ」
腕でも、足でも。そう言う凛月くんの目は少年のように輝いて見える。
「傷跡が残っても嫌だし、目立たない場所のほうがいいかなぁ」
伸びてきた白い手がパジャマのボタンをぷちぷちと外していく。数時間前までは恐怖の対象でしかなかった彼の本心を聞いたせいか、なんだか絆されてしまった私は、もう彼を拒否することができない。脱がされたパジャマを胸に抱え、キャミソールから伸びる腕に、凛月くんが優しく指先を滑らせる。肩から二の腕、肘、手首。伸ばされた左腕の二の腕の内側、そこに狙いを定めた凛月くんが二、三度唇を触れさせる。普段人に触れられることの少ない場所だけに異様に反応してしまう。
「柔らかい」
ぴくっと反応をすれば自然の腕を引きそうになる。けれども凛月くんの手がそうさせまいとしっかりと私の腕を伸ばすのだ。
「ここにするよ」
軽く食んだ凛月くんの歯が私の二の腕に触れた。あの時の痛みがフラッシュバックする。体がこわばる。
「ナマエ、力抜いて」
「む、むり」
これから来るであろう痛みに身構えていれば凛月くんの手が伸びてきて優しく頭をなでてくれる。子供をなだめるように、ゆっくりと。
「ナマエは一回俺に噛まれてるから大丈夫だよ」
「え?」
意味が分からないと目で告げれば静かにまたキスされた。何が大丈夫なのか、その答えは教えてくれることなく再び腕に唇を当てた凛月くんは「硬くなった筋肉のほうが痛みを感じやすいんだよ」と唇で皮膚をなぞる。
「そ、そうなの?」
「はい、深呼吸」
言われるがままに息を深く吸っては吐いてを繰り返していると、その痛みは突如訪れた。
「いたっ」
しかしその痛みは一瞬で、思っていたほどの痛みではなかった。痛みの瞬間に閉じた瞼をゆっくりと開ければ自分の腕に唇を寄せる凛月くんの姿。その唇の端、唾液に混ざった赤が見えて、ああいま凛月くんは本当に私の血を飲んでいるんだと、妙に冷静な頭がこの状況を見守っていた。
夢から覚めると昨晩のことをはっきりと思い出した。
「凛月、くん?」
布団の中、視界にいないと思ったら妙にお腹が温かい。布団をめくって中を覗けば私のお腹に抱きつくように凛月くんはそこにいた。
「なんで、そんなところにいるの」
「眩しいから」
眩しいから、布団の奥に入り込んでいたんだという。もそもそと這い出てきた凛月くんは、やっぱり顔色がいい。
「痛かった?」
凛月くんの手が私の腕をさする。痛くなかった、と言えばうそになる。
けれども昔噛まれたときに比べれば全然痛くなくて、だけれどそれを凛月くんに告げるのはなんだか癪で、何も答えずに黙っていれば「おかしいなぁ」と声が降ってきた。
「ナマエは一回俺に噛まれてるから、抗体ができてそんなに痛みを感じないはずなんだけど」
「なに、それ」
何かのSF作品に出てきそうな発言。凛月くんを見れば「兄者が言ってたんだけど」と言いながら、目はすごく優しい。昨日の夜のある少年のような煌めきが少しだけ柔らかくなってそこにある。
ちゅっちゅっと降り注ぐキスに「凛月くん、くすぐったい」と逃げようとしたが、どうにも体に力が入らない。それに気づいた凛月くんは「やっぱりしんどい? 体」と戯れをやめて抱きしめてくる。
「貧血になってる状態だから、今日は一日ごろごろしてようね」
そう言った凛月くんは、表情を見なくてもわかる。とても幸せそうにしているということに。
ああ、怖いと思っていたはずの彼に、私はすっかり彼に絆されてしまった。