彦星の愛は水面に溶ける



 自分が歩くことでざわついてしまうこの校舎の廊下は、よく言えば注目されている。それは大変光栄なことだと、日々樹渉は長い髪を靡かせながら演劇科の生徒が集う廊下を闊歩した。

「日々樹渉だ」
「今度は何しにきたんだろう」
「この前のライブみた? 気球で飛んでた」

 遠巻きに聞こえる声はライブの時の歓声には比べるまでもなく、渉の意識を留めることなどしない。
 アイドル科の渉がまるで慣れたように演劇科の廊下を闊歩する姿は、ここではすでに珍しくなくない。アイドル科の演劇部で部長を務める彼の類い稀なる演技力はもとより彼の奇行は演劇科にも浸透している。彼の向かう先は一つで、演劇科の生徒たちはみなそれを知っている。

「ナマエさん!」

 バーンと豪快な音がしそうなほど勢いよく開いた扉に、一瞬教室内の視線が集まるが、しかしすぐに「何だ日々樹渉か」とでもいいたげな様子で視線が反らされる。

「ナマエさんはいらっしゃらないですか?」

 きょろきょろと室内を見回る渉は、以前来た時と席の配置が変わっているのに気付き出入り口の近くにいた生徒問うた。無言ですっと指さされた場所は教室窓際の一番後ろの席。そこを見遣った渉は目的の人物を見つけてその表情に笑みを浮かべた。

「ナマエさん!」

 昼休み、多くの生徒が机に弁当を広げている中、一人ルーズリーフや何かが印刷された紙を机に広げたナマエは渉を無視してペンを走らせている。ナマエの近くにいた生徒たちが席を譲るようにそそくさとその場を離れ、二人の周りの人口密度がぐっと下がる。

「おやおや何を熱心になさっているのです? 貴女の日々樹渉がこうして馳せ参じたというのに!」
「渉うるさい」

 ナマエの前の席の椅子をひいて勝手に腰掛ける。目線を手元から外さず、渉を一蹴するように一言吐いたナマエの手は止まることなく動き続けている。

「なんです、素っ気無いですねぇ」

 ナマエの手元を覗き込んだ渉はそれをみて「ああ」と納得いったように一つ頷いた。

「なるほど次の演目の台本ですか」
「脚本」

 短く訂正を入れてきた彼女の手元は、確かに役者の台詞回しや舞台装置だけが書かれた簡素な台本ではない、照明やカメラワーク、挿入歌のタイミングまで事細かに書き込まれた、脚本と呼んだ方がいいであろうそれだった。

「随分と細かに練り上げていますねぇ、いやあっぱれ!」
「今邪魔しないで」

 横で茶々を入れる渉に向ける声音は冷たい。

「おやおや、つれないですねぇ、折角遠路はるばる、そう彦星が織姫を訪ねるように足を運んだというのに……」

 今が七夕の時期であるのをかけてそう言った渉に、ナマエはその日初めて渉の目を見て言葉を発した。

「次喋ったら絶交だから」

 その目は本気そのもので、渉はすっと口を噤む。こうなったときの彼女は誰が何と言おうとも耳を傾けないし、その集中力はすさまじい。アイドル科にいる『王さま』と呼ばれる彼に似ている部分があると、渉は静かに彼女を見守る体勢をとった。
 渉がこうして演劇科に足を運ぶ理由は彼女にある。演劇部に所属している渉が演劇科に興味を示すのは別段不思議な話ではない。彼をここへと引き寄せるのはナマエの、確かな実力だ。高校生ながらに出場するコンクールでは賞を獲得することも多く、演劇科での実力者として周囲からは一目置かれている。三年生になった今では演技の腕もさることながら脚本作成、演出もてがけるようになってその才能はますます磨きがかけられているという。そんな彼女に、渉は興味を抱いた。
 もとよりこの学院はアイドル科とそれ以外とを隔てる壁が分厚い。それは実に物理的なものともいえる。普通科の生徒がアイドル科の校舎へ赴こうものなら厳重に厳重を重ねたような検問を通らなければならないし、それを受けていては長めの昼休憩の時間も潰してしまいかねない。そもそも彼女に興味を持った渉が演技の話をしたいがためいの行為だ。ナマエ自身にはアイドル科にいる渉に会いに行く用向きもなければ理もない。そうすれば必然的に渉が演劇科の方へ足を運ぶようになる。
 最初こそはアイドル科の生徒が訪れたことで騒ぎにもなっていたが今ではすっかり馴染んだ光景で、五奇人と呼ばれた彼の奇行もあってか自然と彼を『アイドル』として扱う生徒はすぐにいなくなった。

「はぁ」

 絶え間なくペンを走らせていた彼女の右手がぴたりと止まり、止まっていた呼吸を始めるかのように一つ大きく息をついた。

「お待たせ」
「まったく、息が詰まる思いでしたよ!」

 彼女の許可が下りたことでやっと言葉を発することを許された渉は水を得た魚のようにしゃべりだす。

「それは何の脚本ですか?」

 ナマエがそれまで黙々とペンを走らせていた紙に目線を落とせば、区切りのいい段落までびっしり文字が敷き詰められていた。

「夏のコンクールに出す予定のやつ」

 散らばった用紙をまとめてトントンと整えたナマエはそれをクリップで挟んでファイルにしまった。先ほどまでの鬼の形相が嘘のような、どこにでもいる女の子の顔だ。縛っていた髪をほどくと肩より少し長い黒髪がさらりと広がった。

「私これからお昼に行くから」

 鞄から財布を取り出しながら教室の時計を確認すれば、昼休憩の時間が半分ほど終わっていた。早くしなければ残り物すらなくなってしまう。渉の返事も聞かずに席を立ったナマエに、「ならば私もお供致しましょう」と渉が言い放った。

「え」

 思わず漏れた言葉に渉が気づきもしないで廊下に出ようとする。

「ちょっと待って渉、それはダメ」
「何故です? 私だって昼食はまだなんですよ」
「渉がこっちの食堂行ったら大騒ぎになる」
「なんと」

 アイドル科と他の学科は校舎がきっちりと分けられている。故に演劇科の利用する食堂はすなわち普通科や声楽科の生徒も利用する場所で、日々樹渉という存在に慣れている演劇科の人間とは違い、彼を物珍しく思う人もいるだろう。ましてや昼休みの、人であふれかえる食堂や購買に赴くなど騒いでくれと言っているようなものである。

「ならばどうしろと?」
「……戻れば?」

 アイドル科の校舎に、と言えば「ジーザス! 何ということでしょう!」と叫んだ。

「うるさい。叫ばないで」

 無駄に声量だけはある渉の横で耳を抑えるナマエはそそくさと逃げるように歩き出す。

「待ってください、私まだ貴女とお話ししていませんよ? これではなんのためにこちらに来たのか分からないではないですか!」
「あ、そういえば何のためにきたの?」

 問えば以前言っていた演目がどうとか、ライブで使う小道具がどうとか、衣装がどうとか、次から次へと話がわいてくる。

「それ普通に昼休みに話し終わらない量の話じゃない」

 辟易した様子のナマエに渉が「では放課後また伺いましょう!」と宣言する。

「え……」
「何かご予定でも?」

 思わず出た不満の声音に渉がぴくりと反応する。その目は否とは言わせないと言いたげな様子だ。

「私はこんなにも貴女を欲しているというのに、私の気持ちは伝わりませんか」

 大げさなことを言って大げさに肩をすくませる。演劇部部長なだけあってその所作はさながら舞台の上で見せるような、まあ一言で言えば大げさだ。周囲の視線が集まり始める。

「では放課後! 絶対ですよ!」

 約束を取り付け、実に嬉しそうな様子で高笑いをしながら去っていく渉の背を見送り、はっとして時計を見た。昼休みが終わるまで十五分とない。食堂は諦めて購買部に走る。売れ残りがなければ最悪スナック菓子で済ませればいいかと算段しながら廊下を駆けた。


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