アプリコット香る恋
「ごめんね? ほんとにごめんね。もう我慢できない。自分の気持ちを抑えきれないの。いつもの冗談だとは思わないで、自分の気持ちには嘘をつけないの。愛してる。この不確かなな世界で、それだけは事実」
職員室の前、日課の自己陶酔をしている鳴上嵐を発見した私は、誰に言うともなく「黙っていればかっこいいのになぁ」と心の声を静かに漏らした。
モデルの仕事をしている嵐はそれはもう、普通にかっこいい。モデルで、且つアイドルまでやっているのだからかっこよくないわけがない。しかし世間の多くの人は知らない。彼がいわゆる「オネェ」であるということを。
モデルは基本的には雑誌の紙面に載る、いわば喋る姿が表に出ない仕事だ。トークがなければ彼のああいう部分は世間に認知されることはまずない。現場のスタッフやモデルと話をする場面ではうまいことその部分を隠しているらしいが、学校という私生活に近いここでは100%の素の姿を見せている。
遠目ながらも見えるお花のついた手鏡を覗き込みながら自分の顔にうっとりと表情をとろけさせている嵐は、初めてその姿をみた人ならば彼がモデルをしているというのを知っていようといまいと、まず我が目を疑うだろう。見れば見るほどどこかミスマッチな光景に目が離せなくなる。
「あら? ナマエちゃん、なぁに? そんなに見つめてきて」
パチン、と小気味良い音が聞こえそうな勢いでお花のついたコンパクトミラーを閉じた嵐がこちらに気づいて近づいてくる。「アタシに何か用かしら?」とご機嫌な様子に、当初の目的を思い出す。
「ああ、うん、Knightsのプロデュースでちょっと話があって」
手にしたA4用紙をちらつかせてそう言えば「あら」と嵐が表情を変えた。アイドルの仕事をするときの顔だ。「教室で話そっか」と言えば「ええ」と隣に並んで歩き始めた嵐は、やはりモデルらしくスタイルがいい。見上げると首が痛くなりそうだった。
放課後の教室はすでにみんな帰宅の途についているか部活か練習かで誰も残っていなかった。適当な席に腰かけて並んで資料を覗き込みながら説明する。長い脚を綺麗に組んだ嵐は、黙っていれば綺麗な『お兄さん』だ。
「アタシで良かったの?」
その問いかけの意味は、リーダーでもなく三年生の泉でもなく、本当は一つ年上の凛月でもなくて、二年生の嵐にこの話を持ってきてよかったのかという意味だ。
「うん。リーダーはもちろんだけど瀬名先輩も見つけられなかったから」
泉に関しては、おそらくこの時間に学校にいない場合は再開したモデルの仕事をしていることが多い。最近は徐々にそれが理由で泉を捕まえられなくなって嵐と時間を共有することが増えつつある。
昼休み、別件で職員室に寄った際に椚先生に呼ばれ受け取ったこのA4の紙にはKnightsの雑誌インタビューに関する仕事の詳細が記されていた。
「詳細はここに書いてある通り。みんなには私から連絡するから。問題はリーダーを当日捕まえられるかどうかなんだけど……」
「最近は学校に姿見せてることが多いみたいだから大丈夫だと思うわ。まあ、前日捕まえてみんなでレッスン室にお泊りでもいいけど」
そう話す嵐は少し楽しそうだ。ふふっと笑った嵐が不意に「あら?」と資料から顔を上げた。
「ナマエちゃん、シャンプー変えた?」
頭を上げた嵐につられて同じように顔を上げると思いのほか近かった距離に一瞬驚いたものの、「え? ああ、うん」と平静を装い返事をする。
「この匂い好きだわァ」
そう言って優しい手つきで髪に触れてきた嵐に、私の体がぴくりと強張る。男の子に触れられた緊張だ。そんな私に一切構わず髪をひと房掬いあげるとそれを自分の顔に近づけクンクンと鼻を鳴らす。
これは以前嵐が試供品でたくさんもらったからとわけてくれたメーカーのシャンプーだ。そのとき彼が「この匂い好きなのよ。だからナマエちゃんも使ってみて」と言った。きっと彼はそんなこと覚えていないだろうけれど、彼に懸想する女の脳はそんな些細な言葉を逃さない。私はそんな女だった。
「……嵐ちゃん好きそうだなって思って」
すっとぼけたふりをしながらそう言えば「あらやだ、それってどういう意味かしら」と笑う嵐が恋バナをする乙女の顔になる。
「好きな人でもできた?」
「なんで?」
「シャンプー変えるのってそういうときかなって思って」
乙女らしい思考回路に女ながら感服してしまう。彼の言葉はあながち間違いではないのだが、しかし本人を前に「はいそうです」とは言えるわけもなく私は視線を落としながら「できてないよ」と答えるのが精一杯だ。
「本当かしら」
何かを知っていそうな口ぶりに胸の奥がざわついてしまう。私がもやもやとしている間も嵐は一人で「ここの男の子たちも見る目ないわよねぇ、こんなにかわいい子がいるのに」「あ、でもプロデューサーだからみんな遠慮してるのかしら」としゃべっている。
「アタシだったらほっとかないけど」
そういった嵐がツン、と頬をつついてきてふふっと笑う。その動作に思わず口をついた言葉は、しかし思いのほか音にならなかった。
「……ってよ」
「ん? なぁに?」
人の気も知らないで、男のくせにかわいい顔で小首をかしげてくる彼をみていると、今まで抑えていたものが一気にあふれだしてきた。そして脳が意識するよりも勝手に、彼の二の腕を掴んでぐっと顔を寄せていた。勢い任せに寄せた私の唇は彼の頬、唇のすぐ横にほんの一瞬だけ触れた。
「……嵐ちゃんのバカ。いい加減気づいてよ」
至近距離で目が合って、そこで自分のした行為に恥ずかしさがこみ上げてきて、椅子が倒れるのも気にせずにそのまま廊下へ駆け出した。
誰もいない廊下に自分の足音が響く。無我夢中で走った階段の途中、苦しくなって立ち止まる。肩で息をしながら自分の唇にそっと触れた。
『たまには強引にいかないと恋を逃しちゃうぞ』
いつだったか恋バナをして盛り上がったときに言っていた嵐の言葉を思い出した。その話をした本人に強引に迫ってしまったと思うといたたまれない気分になる。
「どうしよう……」
明日からどういう顔して会えばいいだろうか、Knightsのプロディースで顔を合わせることだってあるのにと、悶々と思考がめぐりはじめる。
ふと手すりに置いた自分の手を見遣って、先ほど触れた嵐の腕を思い出す。綺麗な顔をしていても男の子で、陸上部でもある彼の腕にはしっかりとした筋肉がついていた。そういう部分にまで意識が向いてしまうあたり自分はどれだけ彼のことを好いてしまっているのだろうと改めて考えさせられる。
「あ……」
そこでふと教室に鞄を置いたまま出てきたことを思い出した。これでは帰るに帰れないし、教室に戻るにしても嵐と鉢合わせてしまっては元も子もない。すぐには戻れないと判断すると登りかけていた階段に足をかけ、屋上を目指すことにした。そのとき。
「ナマエちゃん!」
階下から自分を呼ぶ声がして反射的に振り返ったらそこにいるのは当然彼で。
「なんで」
なんで追いかけてくるの。それはすべて言葉になる前に嵐に言葉をかぶせられた。
「なんでって、それはこっちの台詞よ」
おそらく走って追いかけてきたであろう彼はしかし決して息を乱しておらずそのまま階段を上がってこようとする。
「ま、待って! 来ないで!」
咄嗟にそう言って逃げるように駆け出せば「こら! 待ちなさい!」と追いかけられる。半階分は開いていた距離も陸上部の彼の足をもってすればなんてことない差だったらしい。屋上の扉に到達するころには数歩の差しかなく、時間稼ぎをしようと開いたドアを閉めようとすればそれを嵐にさえぎられた。扉を挟んだ押し問答が始まる。
「ちょっと! なんで逃げるの!」
「なんで追いかけてくるの!」
「逃げられたら追うに決まってるじゃない!」
力勝負など当然勝てるはずもなく、いとも簡単に扉を押し開いてきた嵐。数歩下がって距離をとる、そんな隙すらも与えられることなく掴まれた腕は妙に熱い。
遠くで運動部の声が聞こえる。俯いたせいで嵐の表情は見えないが相変わらず息一つ乱していないのはわかる。
どれくらいの時間、沈黙していたかわからない。
「顔上げて」
「むり」
落ち着いた嵐の声音。普段とは違う、真面目な時の、男寄りの声だ。その声に間髪入れずに「むり」と言ってしまう自分はどれだけ愛想がないのだろう。
「……ナマエ」
諭すような声音で呼ばれた名前は呼び捨てで、初めてのそれに否が応でも反応してしまう。ぱっと上げかけた顔を寸ででとめて地面を睨みつける。そうしていれば徐々に視界が滲んでいく。腕をつかんでいた彼の手が離れたかと思うとすっと視界に入ってきて、綺麗なその手が私の両頬に触れた。
「あら、なんで泣いてるの?」
上向かされた顔はやっと嵐を視界に入れることを許したが、けれども視界はぼやけたままだ。涙が滲んできたせいでうまく彼の顔が見られないが、しかし今はこれでいい。
「振るならちゃんと振って」
覚悟を決めるようにぎゅっと目を閉じればたまっていた涙が頬を伝う。それを親指の腹で拭う嵐の手つきはひどく優しい。
「……はぁ」
頭上から聞こえたため息に「ああ勝手にキスして振られるとなったら勝手に泣いて、面倒な女だと思われている」そんな思考でいっぱいになる。
今の嵐の顔を見るのが怖くて目が開けられない。瞼越し、何かが日差しを遮って私の顔に影を作ったのを感じたが、それがなんだと思うまもなく、唇に感じたことのない感触がした。
「え?」
驚いて目を開ければ困ったような表情の嵐がいて、しかしすぐにその顔も視界から消えた。ぎゅっと力強く抱きしめてきた腕は紛れもなく男の子のそれだ。
「なんでアタシが振るの前提になってるのよ」
「え、……え?」
頭が混乱してうまく言葉が出てこない。背に回された腕、感じる彼の体温が妙に暖かいのと、鼻腔を擽った彼のまとう香水の匂いだけがやけに鮮明だ。
「あー、うれしすぎてどうにかなっちゃいそう」
耳元で聞こえたその声に、男女の差を感じる力強さに、ドキドキと心臓が音を立て始める。
「あ、嵐、ちゃん?」
軽くとんとん背を叩いてみても離れる様子はない。
「このシャンプー」と私のこめかみあたりに鼻を寄せた嵐が「アタシが好きって言ったの、覚えてたの?」と問いかけてくる。
「あ、いや、……えっと」
その通りなのだが、素直にうなずけない。
「ンもう、素直じゃないわねぇ」
しびれを切らしたように声を上げた嵐がそこでやっと体を離した。合った視線、嵐の目の色は男の色だった。
「アタシがナマエのこと好きだって気づかなかった?」
「え?」
全然、という意を込めて首を左右に振れば嵐はちょっと困ったように眉を下げながら「これでも特別扱いしてたんだけど。他に比べる女の子がいなかったから気づかなかったのね」とため息をつかれた。
「いっつも遠目で見つめてくるくせに全然話しかけてきてくれないんだから」
「え……」
見ていたことに気づかれていたという事実に驚いて目を瞬かせていれば「気づくわよ。あんな熱視線送られたら」と困ったような、けれども嬉しそうな笑みを浮かべられた。
「でも話せばみんなと態度変わらないから確信が持てなかったのよねぇ」
小首をかしげる仕草で視線を送られ「だからさっきはびっくりしちゃった」と言われてしまえば、こちらも先ほどした自分の行為を思い出し頬が熱くなる。
「えっと、え、じゃあ……?」
何を言えばいいのかわからなくてしどろもどろにもごもごと口を動かしていればふふと笑った嵐が「両想い」と、語尾にハートが付きそうなほどの満面の笑みを浮かべた。
改めてはっきり提示されたその単語に頬がこれでもかというほど熱くなる。
「あら、今更そんなに真っ赤になっちゃう?」
嵐から逃げるように一歩下がって両頬を覆う。指先が触れた耳まで熱い。恥ずかしさと同時に嬉しさもこみ上げてきて、どうしらいいのかわからずにただただそこで視線を泳がせた。
屋上を吹き抜けた風がナマエの髪をさらりと揺らし、アプリコットの香りがほのかに広がった。