押し付けられた正義
「千秋の『正義』をわたしに押し付けないで」
そう吐き捨てて千秋に背を向ける瞬間、見えた彼の表情は驚きと戸惑いと僅かな悲しみのようなものが浮かんでいた。
噴水の中で浮かんでいる青い人間を見下ろし、その幸せそうな表情を見ると世界はなんて平和なんだろうと思う。
靴と靴下を脱ぎ棄てて噴水に足をつけた。思っていたほど冷たくはない水がふくらはぎを濡らす。淵に腰かけて水を蹴り上げた。
「どうかしましたか」
ぷかぷかと浮かぶ奏汰の腹に水がかかったがすでに全身濡れそぼっている彼には然したる影響もない。
「……なんで」
ぺちゃぺちゃと水面に足の裏をつけて離してを繰り返しながら、噴水から巡回されて流れ出る水に手をかざす奏汰をちらりと見遣った。
「げんきがなさそうだったので」
一瞬だけ目があったその瞳は何を考えているのか見当のつかない色をしていた。
水の中の足を動かせば水圧がまとわりついて、けれどもそれは嫌ではない。自分の動きで起こる波は、すぐに奏汰にぶつかってかき消されてしまう。
落ち葉もごみも一切ない、完璧にきれいにされた水面が太陽の光に反射してキラキラ輝く。
「……奏汰くん、変わったよね」
「そうですか?」
「昔は、何も聞いてこなかったのに」
昔の奏汰は、今ほど人と関わり合いを持とうとしなかった。今の奇行の数々からすれば周囲から敬遠されがちだが、昔はどちらかというと奏汰の方が周囲を避けていた。誰とも関わらず、一人でいることが多かった。傍にいても干渉してこない。そんな彼の傍が、居心地がよかったのだ。
誰にも干渉されたくなくて、けれども一人になるのは嫌で、そんなときはいつも奏汰の居る場所を探して歩いた。
必要以上に「正義」だの「味方」だのと言って干渉してくると千秋と、全く干渉してこない奏汰との間をいったりきたりするのは妙な安心感を得られた。
「ちあきですか」
無言になって水面を睨みつけていると、ゆらりと水面が揺れて奏汰が視界に入ってきた。
「なにをかんがえてるんですか」
「……」
その碧の瞳には何でも見透かされているような気がして、逃げるように目を反らした。
「どうしたどうした!」
普段通り廊下を歩いていたら正面から歩いてきた千秋が駆け寄って顔を覗き込んできた。
「別に、どうもしてないけど」
「元気がないだろう? 何かあったのか?」
「……だから、なんでもないって」
「何を言う! 俺がお前の変化に気づかないわけないだろう!」
どうしてこいつは鈍感で女心も理解出来そうもないのに、変なところで勘だけはいいのだろう。「お前の変化に」と言われて嬉しくないわけではないが、できれば今回はあまり気付かれたくはなかった。
「さあ! 俺に話してみろ!」
拳を作って胸元にあてる。よくみるポーズだ。いつもみるあの笑顔で眩しいくらいに元気な、小学生のような無邪気さ。普段ならなんてことない彼のその表情が、今日はどうしてか無性に癪に障る。その理由は自分で理解している。月のものだ。
本当に、こんなことを理由に千秋に当たるのもよくないし、できれば穏便にことを済ませたい。その態度がいけなかったのか。なにもない、大丈夫、そう言葉を重ねれば重ねるほど千秋の熱量も増す。
「どんな悩みも俺が華麗に解決してやるぞ! なんてったって俺は正義のヒーローだからな!」
いつもならどんなにしつこくされようと「はいはい」と聞き流しながら適当に話題を変えてやり過ごせるのに、今日ばかりはどうにも理性が効かない。なんてことないことにもイライラするのに、あの守沢千秋を前に気持ちを落ち着けていられるだろうか。答えは否だった。
「千秋の『正義』をわたしに押し付けないで」
「千秋と……喧嘩したかもしれない」
「かもしれない?」
「『千秋の正義を押し付けないで』て言って逃げてきた」
言い逃げというやつだ。これでは喧嘩とも呼べない。一方的にイラついて、怒って、八つ当たりのようなものだ。それがわかっていて、けれどもつい言葉にしてしまった自分に嫌になる。
「それでおちこんでるんですか」
「それだけじゃないけど」と本当の理由を話せば奏汰は「なるほど」と小さくつぶやいた。
「ちあきは『そういうの』にうといですからね」
「がんばってください」とまるで他人事のように投げかけられた言葉に、しかし反論の余地もなく、「うん……」と返すのがやっとであった。
いつまでたっても乙女心をわかろうとしない千秋にはもう諦めの気持ちがあるが、しかし仮にも彼の恋人である身としては、もう少し女心は理解してもらいたい。
そんなことを思っていると「ナマエ!」と耳なじみの良い声が聞こえた。声のした方へ振り返ると千秋が安堵の表情で「ここに居たか」と駆け寄ってきた。
「『ヒーロー』のとうじょうですね」
横で奏汰が小さく笑う。
「何があったか知らんがやっぱり俺はお前をほっとけない!」
そういった千秋の真摯なまなざしに、やっぱりこの人はこういう人だと、だから好きになったのだと思わされる。
「お前にとっては鬱陶しいかもしれんがこれが俺にできるお前への愛情表現だと思ってほしい!」
まるでこれから愛の告白が行われるのではと思えるほどの熱烈なその言葉に、先ほどまでのイライラの一切は消え、妙に心が騒ぎ出す。
「ふふふ、とんだのろけばなしをきかされてますね、ぼく」
静かに上体を起き上がらせた奏汰が水を滴らせながら千秋を見上げる。
「ナマエのことだからきっと奏汰のところだろうと思ってな!」
先ほどの熱い言葉と全く変わらない声音でそういった千秋に、あの言葉が彼の着飾った言葉ではなく本心なのだと理解する。
「ちあきー、ひっぱってください」
甘えるように腕を伸ばした奏汰に「なんだなんだ、しょうがない奴だな」と嬉しそうに近寄って腕を差し出した千秋は、しかしそのままぐっと力を込められた奏汰の腕に、いともあっさり噴水に引きずり込まれた。
盛大な水しぶきがナマエを襲う。もとより全身ずぶぬれの奏汰に負けず劣らず、一気に水浸しになった千秋は怒るともなく盛大に笑い声をあげて「びっくりするじゃないか」と奏汰を羽交い絞めにかかる。そうやって噴水内でじゃれあう二人が飛沫を上げるたび、ナマエの衣服も徐々に濡れていく。
だがどうしたことか、先ほどまでだったら怒って立ち去ってしまおうと思ったはずなのに、今は笑いがこみ上げてくるだけだ。先ほどまでのことも濡れた衣服も全部どうでもいい。
目の前の二人を見ているとそう思えるのだった。
スーパーノヴァ読んで意外と力強い奏汰っていう部分にキュンってなりました。