まどろむ貴方に目覚めのキスを


 午後の授業が終了して間もない時間、まだ生徒は教室でHRを受けている頃。ナマエは一人足早に軽音部の部室へ向かう。誰もいない廊下を歩くのはなんだか悪いことをしているような気分になる。
 そこで眠っているであろう人物に気遣いつつ、静かに扉を開いた。しんと静まり返った室内の隅に黒い塊がある。零が普段眠るために使う棺桶だ。零本人が中に入っていようがそうでなかろうが常にその蓋は重く、硬く閉ざされている。だというのに今日は珍しくそれが開いていた。
 席を外しているのかと思って棺桶の中を確認してみると、そこにはまるで子供のようにあどけない寝姿の零がいた。
 横を向き、手を顔のそばに置いている。薄く開いた唇からすーすーと規則正しく寝息が漏れている。蓋も閉めずに眠るなど、相当眠かったのだろうか。ふらふらの体でこの部屋にたどり着き、重い蓋をこじ開けて転がるように棺桶に入ってそのまま眠ってしまった。容易に想像できそうな光景だ。
 普段眠る彼を見ることはそうない。棺桶の中は、一種謎に包まれた場所でもあったのだが、今日はその一部が垣間見れた。
 いまだ起きる気配のない零の寝顔を観察しようと、ナマエは棺桶の横に腰を下ろして淵にもたれかかった。
 勝手な想像だが、棺桶の中で眠るときは綺麗な仰向けで手は指を交差させて胸元に乗せている、いわゆる死体が収められるときの格好を想像していた。けれども思いのほか普通に眠っている零を見ると、こちらの先入観でしかなかったらしい。
 すやすやと眠りこける零の髪に手を伸ばし、頬にかかったそれをそっと避けてやる。寝顔は、普段年よりじみた発言ばかりするときの雰囲気とはまた違う、子供のようなかわいらしさが覗き見えて妙に新鮮な気分になった。
 いつまでも眺めていたくなるような綺麗な顔だ。しっとりとした黒髪は痛みを全く知らない艶がある。彼らの言葉を借りるなら「夜闇」の色だ。癖のついた毛先が指に絡みつくようにはねている。
 一度もカラーリングをしていない綺麗な髪。女としてとてもうらやましくなる。日々のドライヤーの熱でさえダメージになってこんな綺麗なままではいられないというのに、この男はどうしてこうも綺麗なのだろう。

「そろそろ起きないとみんな来るよ〜」

 今日はUNDEADのメンバーが招集されている。そろそろ各クラスのHRも終わって、晃牙あたりが一番にやってくるのではないだろうか。
 返事は返ってこないだろう思いながら軽く声をかけてみると、予想に反してわりとしっかりとした、そして起き抜けとは思いない言葉が返ってきた。

「王子様の目覚めのキスがほしいのぅ」
「……起きてたの?」
「先ほどな。触れられて目が覚めたんじゃ」

 もぞもぞと身じろぎをした零が仰向けになって軽く前髪をかき上げる。けれども瞼は閉じたままで、唇が薄く弧を描いている。

「っていうか私、王子じゃないんだけど」
「棺で眠るのは姫と相場が決まっておろう? ならばそれを目覚めさせるのは王子の口づけ。ほれ」

 なにが「ほれ」か。まるでキス待ち顔をする零はとても楽しそうだ。

「はよせんと誰か来るやもしれんぞ」

 誰か、ではなくUNDEADのメンバーが来る予定だ。「ほれほれ、まだかの」と催促してくる零は、黙っていれば本当に美しい。できれば静かにその寝顔を見ていたかった。

「誰もするなんて言ってないんだけど」

 小言を漏らしながら頬をつついてやる。少し不満そうに唇がとがったような気がした。

「零?」
「……」
「……零さーん?」

 無言の抵抗というのだろうか、返事が返ってこなくなる。いつもそうだ。ナマエのほうから何かさせようとするとき、決まって零は口を閉ざして待つ態勢に入る。普段からそれを知っているナマエは「もう」と小さく息をついた。
 キスの一つや二つくらい今までに何度だってしている。もちろん、こうやって零のおねだりでナマエからしたことだってある。今更特に恥ずかしがることもないし「しょうがないか」と身を乗り出して零の顔を覗き込む。距離を詰めて、改めてそのまつ毛の長さや肌のきめ細やかさに目を奪われる。

「……」
「そう焦らさんでくれんかのぅ」

「はよせんとわんこたちが来てしまうぞ」そういう零に誘い込まれるように顔を近づけた。ゆっくりと合わせた唇はたっぷり三秒触れ合わせ、ゆっくり離れる。その瞬間、零の手がナマエの後頭部に回された。

「んっ!?」

 離れる心づもりでいたナマエは予測されていた動きを封じられ、バランスを崩し棺桶の中に手をつく。零の顔の横と、片方はそっと彼の胸元に添えるように。

「ちょっと、危ないでしょ」

 そう開きかけた唇にすかさず零の舌が滑り込んできた。逃げようと身を引くナマエに、しかし零の手はそれを許さない。執拗に絡みついてくる舌から逃れられない。零の冷たい指先がナマエの喉元を撫でる。その指先の冷たさにぴくりと肩が揺れた。重力に従って零の舌を滑っていくナマエの唾液が、零の喉に嚥下される音がした。両の手でしっかりと支えなければ体が傾いて口づけが深くなる。

「れい、もう……」

 角度を変える瞬間に声を発してもそれは零に飲み込まれる。徐々に廊下が騒がしくなってくる。HRが終わって生徒たちが帰宅や部活に向かい始めているのだ。

「れ、い!」

 がちゃり。ナマエのか細い抗議の声をかき消すように乱暴に扉が開いた。そしていつもより何トーンが低い「……てめぇら」という、まるで地を這うような声がした。

「なになに?」

 まるで調子の違うもう一つの声。
 ようやく解放を許されたナマエの唇には零のそれとを繋ぐ銀糸が光り、消えた。

「わ〜お。面白いもの見れちゃった。たまには真面目に来てみるもんだね」

 扉の前で通路をふさぐように立ち尽くす晃牙の後ろからひょっこり顔をだした薫がたのしそうに眼を細めた。
「よっこいせ」とまるで年寄りそのもののような声をあげて上体を起こした零はそのままナマエの頭を自分の胸元に抱き寄せた。その頬は上気してとても他人に見せられる様ではない。ナマエも不本意ながらも零の胸元に顔を埋めるようにしてそっと彼の制服を握った。

「今日はみな随分早く集まったんじゃのぅ」
「昼間っから何やってんだよ、ああ?」
「朔間さんってば元気なんだね。若いなぁ」

 荷物を乱暴に投げ置いた晃牙がいつものごとく絡んでくる。それとは正反対に楽しそうに笑う薫は、ナマエの様子を覗き見ながら「あ、ナマエちゃん耳まで真っ赤」と近づいてくる。

「これ、ナマエのこの顔をみていいのは吾輩だけじゃ」

 シッシッと払うようなしぐさをしながら片手ではナマエの頭を撫でる。

「はは、こんなに堂々と惚気られちゃうなんて、珍しい〜」

 けらけらと笑う薫に、腹立たしげな様子の晃牙、零は零でナマエに触れる手を離そうとしない。
 アドニスがやってきて、そのすきをついてナマエが部屋を飛び出すまで薫の冷やかしは続いた。


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