名もなき侵食


「あなたってほんと学習能力ないですよね」

 失恋した、と言ったらこの後輩は慰めるでもなく突き放すでもなく何の感情もこもらないような、学生のころから変わらない、落ち着いた声でそう言った。

「で、今回はどんな人だったんですか」

 興味無さ気だがきちんと話を聞いてくれる。その優しさに甘えて自分を振った相手のことを話す。年上で、新しい企画で同じチームになったのがきっかけで一緒にご飯に行くようになった。優しくて、残業をしていると差し入れをくれたり、たまに残業が終わるまで待ってくれたりした。デートではよく海までドライブに連れて行ってくれたし、映画を見れば同じ感想を抱くことが多かった。

「またそんな」

 どこにでも居そうな、と呟いた赤葦は一つため息をこぼし、大量に汗をかいたグラスを仰ぎ、温くなったビールを喉に流し込んだ。ごくり、と喉仏が上下する。

「前も言いましたよね。優しくするのは下心があるからだって」

 男なんてそんなもんですよ、という赤葦は決して私に優しさを見せてくれることはない。いや、こうやって失恋した女の話を聞いてくれているだけ優しいのだが、その中に彼のいう下心からくる優しさは含まれていない。

「だって」
「だって?」

 居酒屋の喧噪にかき消えそうなつぶやきを拾って、半眼眇めて先を促してくるがそんな目をされたら言葉の先を紡げない。

「で? 何て言って振られたんですか」

 つまみに手を伸ばしながらぶっきらぼうな物言いだが、きちんと話を全部聞いてくれる。

「ていうか、後輩の女の子に寝取られました」
「は?」

 なにやってんすか、という赤葦と目は合わない。

「いや、私は何もやってないけど」
「言葉の綾って知ってますか?」

 今度はあからさまに大きなため息をつかれた。言動に酷く棘がある。
 今日の赤葦はため息が多い。あまり機嫌がよくない日に誘ってしまったのかもしれない。失恋ばかりの女の話なんて聞きたくないかもしれない。いくら高校の後輩だったからといって社会人になってまで先輩の愚痴に付き合うのは辟易しているのかもしれない。
 振られたからかネガティブ思考が連鎖になって、その見えない鎖がぐるぐると私の首にまとまりついてうまく言葉が出なくなる。

「ごめん、そろそろ出よっか」

 居た堪れなくなった空間に、逃げるように伝票をもって立ち上がろうとすれば未だ卓上に並んだ手の付けられていない料理に箸を伸ばしながら赤葦はぽつりとつぶやいた。

「絶対に俺のほうがいいと思うけど」

 わざとなのか、どうなのか。一瞬だけ目を合わせてきた赤葦は「食べないともったいないですよ」と言って席を立つのを拒否した。彼の視線が席に戻れと言っている。手にした伝票を机の端に戻して大人しく戻ると箸で料理をつつく。無言で。居酒屋で黙々と箸を進める男女を、周囲の人はどう思うだろうか。いや、こんなところで隣の席の客を気にする人なんてそういるはずない。
 最後のから揚げに箸を伸ばし、浮かせたところで赤葦の箸が邪魔をした。行儀が悪い。ちらと見れば赤葦の視線の先は皿に戻ったから揚げで「食べたかった? いいよ」と箸で示せば、なぜか赤葦は箸を置いた。

「ナマエさん」

 呼ばれて、赤葦を見れば頬杖をついた彼がまっすぐこちらを見ていた。

「年下じゃダメですか?」
「え?」

 その目は挑戦的で、相手を挑発するような笑い方までしている。

「いいですよ、食べて」

 から揚げを指さしてそう言うと赤葦は伝票を持って立ち上がった。

「あ、待って、私が払う」

 それを無視して席を立った赤葦に、慌ててから揚げを頬に詰めて立ち上がれば、けれども靴を履くのに手間取って彼の背に追いつくころにはすでに会計は終わっていた。

「いくら?」
「いいです、今日は俺が持ちます」
「でも」

 今日呼び出したのは私で、愚痴を聞いてもらったのも私だ。赤葦は終始興味なさげに失恋の愚痴を聞いていただけなのに、飲み代を払わせるわけにはいかない。さっさと店をでる赤葦に食い下がってその腕を引けば、振り払われて手を握られた。

「あ、赤葦?」

 長年一緒にいるが赤葦にこうやってきちんと手を握られたのは初めてだ。失恋した女には、その手は大きく、居心地がよすぎる。

「今日は俺んち行きましょう」

 そのまま有無を言わさず歩き出す赤葦につられて数歩進んで「ねえ、ねえ!」とその手を引っ張って足を止めた。

「赤葦、酔ってる?」
「ビール一杯で酔うわけないじゃないですか」

 言われてみればそうだ。今日は一杯しか飲んでいない。それにそもそも赤葦が酔っている姿なんて数年一緒にいて数える程度にしか見たことがない。どうしたの、どういうつもり、なんて多分聞くだけ野暮な気がする。けれど、聞かなくてはいけない気もする。

「あ、赤葦」
「飲み足りないんで、付き合ってください」

 間髪入れずにそう言ってきた赤葦は私の返事など聞かずに歩き出す。逃がさないとでも言う風に強く握られた手に、私の意思と拒否権はすっかり鳴りを潜めてしまった。



『飲み足りないんで、付き合ってください』

 そう言っていたはずなのに赤葦の家にたどり着くまでにコンビニに寄ることはなかった。家に酒のストックがあるのかと思っていたけれど、それを確認するよりも早くベッドルームに連行された。

「赤葦?」

 部屋の電気はおろか廊下の電気すらつけずに、勝手知ったる我が家を奥へ奥へと進んでいく赤葦に手を引かれ導かれたベッドルーム。ここには何度か来たことはあるが、ベッドルームまで入るのは初めてだ。室内の様相は確認することは出来ず、わかるのは今自分がベッドに組み敷かれていること、上には赤葦が居て、多分取って食われてしまうこと。

「赤葦、どういうつもり」
「どうもこうも、今更それ聞きますか?」
「いや、一応聞いとかないと」

 そう言うと頭上から大きなため息が降ってきた。それから私の肩口に埋まる赤葦の頭。鼻腔をくすぐる赤葦の匂いに否応なく反応してしまう。私が拒否を示さないことを赤葦はきっともうわかっている。私は彼の手中にあると、自分でもわかる。なぜ彼を拒否しないのか、親しい後輩だからか、失恋のせいか、そんなの自分でもよくわからない。正直、今はあまり考えたくない。

「俺の気持ちも知らないで」

 肩口に顔をうずめた赤葦の声はくぐもっていたけれど耳元に近いせいもあってその声はきちんと聞き取れた。言外に告白をされたと受け取っていいのだろうか。
 はあ、とまた随分と、今日一番大きいのではないかと思えるため息をついたかと思うとすっと体が離れた。触れていた熱がなくなって妙にさみしさを感じていると腕を引かれて上体を起こされた。横から抱きしめられて妙な感覚になる。あの赤葦に抱きしめられている自分。

「俺、ナマエさんのこと高校の時から好きだったんです」

 でも先輩はあの頃から年上が好きだと言っていたし、後輩の俺に対して一切恋愛の隙を見せようとしなかった。だから諦めようと思ったんです。でも、そばに居たかった。大学に進学しても、大学を卒業しても、どんな節目を迎えても先輩との縁は切りたくなかった。それがたとえ後輩だとしても、どんな形でも。社会人になって会社で恋人を作る先輩に、いつも苛ついてました。さっさと別れればいいっていつも思ってました。でも、それでも、先輩が結婚するってなればさすがに諦めがつくかなって思ってる自分もいました。だけどふたを開けてみれば結婚のけの字もなく、失恋ばかり、変な男に引っかかってばかりで、さすがにもう黙って見てるのは無理だって。
 私の頭を撫でながら、髪を梳きながら、お腹に回されたその太い腕に手を重ねれば指を絡めとられる。まるで聞き逃すなとでも言うように私の耳元でしゃべる赤葦のそれは突然の告白で、けれども私が口を挟める雰囲気はなくて、ただただ赤葦の唇からこぼれる言の葉を、その低い声が耳に心地いいと感じて目を閉じて聞き入っている自分がいた。
 先ほどまで失恋をしてめそめそと愚痴をこぼしていた自分はどこに行ってしまったんだろう。他人に愛されているということをこうもまざまざと実感させられると、先ほどまで絶望の淵にいたはずなのに、いつの間にか有頂天にまで登っている自分がいる。

「私ね、赤葦が私のこと好きなんだろうなって何となく気づいてた」

 気づいてて、気づかないふりをしていた。この後輩はきっと何があっても自分の味方でいてくれる。間違ったことをすれば容赦ない言葉を投げかけながらも決して手は離さずにそばに居てくれる。そう感じていた。後輩ではなく同級生としてだったら、もしかしたらもっと違う友情を築けたかもしれないと思ったこともあった。彼の優しさを甘受し、そこにぬるま湯に浸かるように居座り続けたのは自分だ。私は彼の優しさに甘え、ともすれば利用した。その距離感が心地よかったから。
 もそもそと身じろいで赤葦の背に腕を回した。意図して自分から彼に触れたのはきっとこれが初めてだ。

「私って、多分ずっと前から赤葦のこと好きだったんだ」
「……何言ってんですか」
「だって、じゃなきゃこんなにずっと一緒にいないじゃん」

 幼馴染も、小中学校と仲の良かった親友も、高校の同級生も、大学で同じゼミだった子も、いつの間にか疎遠になった。それなのに、学年も違う、高校の二年間の部活の時だけを一緒に過ごしたこの後輩は、いつまで経っても私から離れない。私も離れたくないと思っていた。

「ナマエさん、前に俺に愛される人は幸せ者だって言いましたよね」
「言ったっけ?」
「……言ったんですよ」

 言ったんだ。いつの自分がそんなことを言ったんだろう。もし赤葦からの気持ちを自覚しているときに言っていたのならとんだ自惚れ野郎に違いない。

「あの時、どういう意味で言ったのか聞きたかったんですけど、覚えてないならいいです」
「どういう意味って?」
「……あの時、ナマエさん何の前触れもなく突然言ったんですよ。帰り道で、信号待ちをしてた時」
「そうなの?」

 当時の私は何を思っていたのだろう。今となってはその真意はわからないが、しかし赤葦に愛される人は幸せ者だという定義は間違っていない。なんせ今の私はとても幸せを感じているからだ。

「もういいですか」

 暗闇に慣れた目が室内のありとあらゆるものの輪郭を見つけ出す。それは至近距離にある赤葦の存在も例外ではない。目の前にある黒い瞳にアイコンタクトを送れば唇が重なる。噛みつくようなキス。赤葦がこんなキスするなんて知らなかった。赤葦が自分のことをそんなに思っているなんて知らなかった。聞かされた思い、聞いてしまったからにはもう逃げられない。吐露してしまった自分の本音からも逃げられない。
 その夜、私たちは今まで越えなかった境界を越えた。

Title by 夜半


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