大人の距離の縮め方



 黄色い声音の挨拶を浴びる赤葦京治がいつもそれを卒なく受け流しながら出社してくる光景は朝の風物詩というか、見慣れた景色だ。そんな彼が今日は廊下で女性社員数人に呼び止められているのを見た。普段は挨拶をできればそれでいいというまるで女学生のような女性社員たちが、これまた女学生のように二人組、三人組になって赤葦を呼び止めたのだ。
 季節はもうすでに十二月。クリスマスという恋人イベントが差し迫ったこの時期、人々が考えるのは二十五日を一緒に過ごす恋人探し。もはや例年通りと言いたくなる程度には、この時期には男女の接触が増える。

「おはようございます」
「おはよう」

 隣のデスクにやってきた赤葦を見れば、彼越しの後方には先ほど赤葦に声をかけていた女性社員がこちらを伺うように熱視線を送ってきていた。

「またこの季節がやってきたね」
「この季節?」

 席に腰を落ち着かせた赤葦がパソコンの画面電源をつけながらこちらを見る。

「クリスマスに向けての恋人探し」
「……ああ」

 入社二年目の赤葦は、去年その洗礼を受けていたのを思い出す。その時はデスクが隣ではなかったからあまり詳しいことは聞いていないが、結局のところ今年、今現在恋人がいないという赤葦は女性社員の的になっている。

「学生と変わらないですよね」
「そうだね」

 大学生の時も、高校生の時も、今思えばクリスマス前のこの季節はやけにカップル誕生率が高くなる。日本人の性なのだろうか。

「さっきも声かけられてたじゃん」
「ああ、あれは」

 そう言いかけた赤葦が一度口を噤む。なんだと思って様子をうかがっていれば椅子を移動させ、デスクの境目まで寄ってまるで内緒話をするように背を丸めた。それにつられるように私も赤葦のそばに寄って少し背を丸めれば二人にしか聞こえない程度の声音で赤葦が言った。

「俺今日誕生日なんです」
「え、そうなんだ? おめでとう」

「え」と驚いた瞬間に思わず背筋を伸ばせば、座っていても目線の高さに差の出る赤葦と同じくらいの目線になったのに気付いた。

「ありがとうございます」

 私につられるように少し姿勢を正した赤葦が小さく笑って会釈をする。そしてまた少し背を丸めるので先ほどのように傍に寄れば「それで、ミョウジさんに一つお願いがあるんですけど」と持ち掛けられた。

「誕生日特権?」
「はい」
「いいよ、何?」

 この内緒話の姿勢に意味はあるのか考えながら伺えば「今晩一緒に飯行きませんか」とまっすぐ目を見て言われた。
 赤葦と真正面から目を見て話したのはいつぶりだろうか。そんな感覚を覚える程度に、妙に新鮮な感覚。
 自分でもわかるくらい数度パチパチと瞬きをして「いいの? 誕生日なんでしょ?」と問えば何の迷いもない「はい」が返ってきた。そのままもう一度目を見あって赤葦の様子を伺ってみるが別段冗談を言っているわけでもなさそうで、普段と変わらない、言ってしまえばポーカーフェイスで読めない表情があるばかり。

「赤葦がいいならいいけど」

 そう了承の色を見せれば無表情に近かった赤葦の表情にささやかな変化が見えた。わずかに上がった口角とわずかに下がった目尻。

「じゃあお互い、定時で上がれるように頑張りましょう」

 そう言って姿勢を戻した赤葦の横顔は少し緩んでいたものの、目はすでに仕事モードに入っていた。



「乾杯」

 ビールジョッキ片手に「あ、誕生日おめでとう」とおまけも付け足せば「ありがとうございます」と赤葦はビールを嚥下した。
 平日の夜だというのにがやがやとにぎわう居酒屋のテーブルに並んだお通しをつつきながら「誕生日なのにいいの、居酒屋なんかで」と問えば「俺が誘ったんですし」と同じくお通しをつつく赤葦は「それにまあ、急だったし」と付け加えた。それを言われれば確かにそうだけれど、男の人はあまり自分の誕生日に頓着はないのだろうか。それを考えれば自ずと今日どうして私を誘ったのかという疑問にも行きつく。もしかして祝ってくれる友達がいないのか、とか。まあ社会人にもなって平日の誕生日当日に祝うこともそうないかと思い至る。職場の先輩女を誘うくらいだから彼女候補になる女の子も身近にいないのか。そんなことを、目の前の整った顔を眺めながら考えていれば「ミョウジさん、今絶対失礼なこと考えてますよね」と釘が刺さる。

「はは、ばれた?」

 よく冷えた生ビールを喉で楽しめば、お酒入ってるからまあいっかな雰囲気が生まれるから、酒の席は気楽でいい。

「ただ単に、ミョウジさんとちゃんと話してみたかっただけです」

 店員がやってきた注文していた品を一つ二つと並べて去っていくと同時に赤葦が口を開いた。

「ちゃんと?」

「いつも喋ってるじゃん。デスク隣だし」と言えば「会社以外で、ってことです」と返ってくる。ネクタイを緩めた赤葦はオフィスにいるときよりも幾分か雰囲気が和らいで年相応に見える。実際一歳しか変わらないから年相応に見えるといったところで一気に親近感がわくというわけでもないのだが。

「そう?」

 いささか腑に落ちないような気もしつつ、そこから他愛もない、休日の話や学生時代どうだったとか、休みの日に上司と鉢合わせした時の話をした。もちろんこの時期恒例のクリスマスの話題と恋人への条件、なんてしょうもない話もしたがすぐに飽きてその話題は終わった。

「ミョウジさんって誕生日いつですか?」
「私? 私は三月だよ」

 何品目かを追加注文し、ほろ酔いになりながらもう一杯追加をしようかとメニューを見ていれば赤葦が「じゃあ今は同い年ってわけだ」と小さく漏らした。

「そうだね」
「敬語やめていいですか?」

 そう提案してきた赤葦に、メニューに向けていた目を向ければ目元をほんの少しだけ、ほんのり赤くさせた赤葦がいつもより柔和な顔でこちらを見ていた。

「別にいいけど」

「どうしたの? 急に」と言えば、それに応えはなく「ナマエさんって呼んでもいい?」ときた。

「そこはさん付けたままなんだ」
「何かそっちのほうがしっくりくる」

 私は彼にどういう印象を持たれているのだろうか。年は一つしか変わらないし、彼が入社当初は身の回りのことを教えるために少しの間教育係みたいな関係であったけれどそれはほんの一か月程度で、大して先輩面をした覚えもないし、現に今赤葦は勝手にどんどん成績を伸ばしているような状態だ。一年違うだけなのだから先輩だと遠慮するほどの力量差もなにもない。

「どうしてって顔してる」
「どうしてって思ってるもん」
「どうしてだと思う?」
「あれ、赤葦ってそういうキャラ?」

 頬杖をついた赤葦が小さく小首をかしげる。すっかりくつろいだ様子になんだか一気に距離が縮まったように錯覚する。「言ってみただけ」と笑った赤葦は、これを彼に熱を上げている社内の若い女子たちが見せたら皆一様に頬を染めてしまうだろうなと思うような顔をしている。よくわからないけど多分冗談なんだろうなと思いながら様子をうかがっていれば飲み物を一口口にした赤葦が一度目線を落とし、またこちらをまっすぐ見据える。

「ナマエさんと仲良くなりたいから」

 冗談なのか本気なのかわからない顔だ。どっちなのだろうかと伺うようにじっと見ていれば「見すぎ」と目線を反らされた。
 もしかしたら酔っぱらっているのかもしれない。いつものポーカーフェイスでクールを体現したような彼からは想像できない、甘えたような、素直な、それでいて人を試すような物言いに、少しだけ赤葦に興味がわいてきた。会社の飲み会で何回か飲んでいるの見たことあるけど飲み会中にあからさまに酔っているという様子は見たことなかった。

「赤葦お酒弱かったっけ?」
「全然」
「じゃあ今日疲れてて酔い回るの早くなってる感じ?」
「なんでそんなに疑ってるの」

 ケラケラというのとは違うが、普段の赤葦からは想像できないくらいには笑っている。これが素なのか、それとも笑い上戸なのか。会社で見せる愛想笑いよりかは格段に柔らかな表情だ。

「なんか今日の赤葦変」
「なんですか」
「会社の女の子たちが見たらキャーキャー言いそう」

 入社二年目の赤葦は今年入社の女子社員にはもちろん、彼の同期や私の同期の一部にも人気がある。高身長だし学生時代にスポーツをしていたという引き締まった程よい筋肉質な体形がいいのだと、給湯室や女子トイレで耳にしたことがある。

「赤葦彼女作らないの?」

 入社して二年目の後半になれば仕事だって慣れてきただろう。実際成績も上々で上司からもかわいがられている。プライベートに時間を割く余裕だって出来ているだろうに、そんな噂がないのは本人にその気がないからだ。

「なんで今その話」
「赤葦って結構面食いなの?」

 本人も顔立ちは整っている方だから、今までより取り見取りだったのかもしれない。社内にもかわいい子もそこそこいると思うが、もしかしたら男女のかわいいの価値観は違うから赤葦的にはかわいいに該当しないのかもしれない。

「……別に、面食いって訳じゃないけど」
「けど?」
「俺はナマエさんみたいな、落ち着いてる人がいいです」
「確かに赤葦落ち着いてるもんね」

 さっきまで笑っていたのに今はすっと真面目な顔をしている。もしかしたら本当に酔っているのかもしれない。酔っていると妙なタイミングで表情が切り替わるものだ。時計を確認するとほどほどに良い時間になっていた。

「明日も仕事だしもう帰る?」
「……そうですね」

 伝票を持って立ち上がれば赤葦の手が伸びてきてそれを奪われた。

「俺が払います」
「いいよ。誕生日だし、今日は奢ってあげる」
「いえ、誘ったの俺だし」

 ああいえばこういう押し問答が始まってしまう。二人で一つの伝票を持ったまま見合うこと数秒。その間に思考を巡らせ、ここは男の赤葦を立てた方がいいと女の脳が言っている。

「……じゃあ」
「はい」

 コートを羽織った赤葦が先に会計に行く。そのあとを少し遅れて追いかければ、すでに会計は終わってドアの前で赤葦が待っていた。店を出れば「ありがとうございましたー」と店員の声がそこかしこから聞こえた。

「今度何か奢る」

 外に出てマフラーを巻きながら赤葦を見上げれば数秒押し黙った後、「じゃあ今度昼飯でも」と返ってきた。横に並んで立つ赤葦はやっぱり背が高い。多少のヒールがあっても全然目線が並ばない。

「あっち? こっち?」
「こっちです」

 同じ方向に並んで歩くとき、きっと店に入る前よりも私たちの距離は近くなっていたと思う。


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