見知らぬその人は
いつもより少し早めに家を出た。
多分、生徒はまだ誰も登校していないだろう。大半の教師すら出勤していない時間だ。誰よりも早く出勤して玄関先の掃除をする校長先生も、今はまだ到着していないかもしれない。
月曜日。誰もが起き出すのに時間のかかる曜日。静かな住宅街を歩く。キッチンで朝食の支度をしている音がそこかしこから微かに聞こえる。鳥たちだけがにぎやかに騒いでいた。
周囲に人気はない。自分の足音だけがしていた世界に、もう一つ、テンポの速い足音がしてきた。正面から近づいてくるのは早朝ランナーというやつだ。この町にもそんな健康的なことをする人がいるんだなと思っていれば「ナマエちゃん」とその人は私の前で足を止めた。
「おはよう、早いね」
「……」
「あれ、シカト? 傷付くな〜」
誰だろう、どこか見覚えのある容姿の人だなと見ていれば聞き覚えのある声音に口調。
「及川?」
「うん? 俺のこと忘れちゃった?」
分からなかった。いつも完璧に決めている髪型が、ぺたんと重力に負けているのだ。学校のジャージでもバレー部のユニフォームでもないその装いは有名スポーツウェアメーカーの最新モデルのような無駄を感じさせないそれで、髪型の違いも相まって普段の及川徹とはまた違う、不思議な感覚を連れていた。
「いつも走ってるの?」
「朝練の時間に目が覚めちゃって」
そういえば月曜日はバレー部は部活が休みのはずだ。いつもの習慣で目が覚めてしまって、けれども二度寝をしなかったのは彼らしいといえば彼らしいのかもしれない。まさに部長の鑑と呼んでも差し障りはないだろう。
「もう学校行くの? 早くない?」
ぼけっとしていた私に、及川徹はこてんと小首を傾げた。
「することあって」
「何するの?」
「委員会」
「委員会?」
「うん、生徒会の仕事」
そういうと彼は「あ、そっか」と納得したように少しだけ目を細めた。
「じゃあ俺も今日は早く行こっかな〜」
「え?」
颯爽と走り去る間際、何か聞こえた気がして首を傾げても、及川徹は「じゃあまた学校で」と言うだけで、画に描いたような笑顔でそのまま走り去ってしまった。
少しの間だけその背を見送り、その背が曲がり角に消えるころ、すぐに私も学校へ足を向けた。
学校につけばやはり校長先生がせっせと正面玄関の落ち葉を集めていて、挨拶を交わして昇降口へ回る。靴を履きかえ、職員室で生徒会室の鍵を拝借して階段を上った。いつもは気にならない足音も、今は誰もいない校舎に響いて耳に残る。
生徒会室のドアを開けて荷物を机に置いてそのまま窓を開けに窓際に立つ。朝練のために登校してきた野球部員が少しずつ校庭に集まり始めていた。
開けた窓から入り込んだそよ風が髪を揺らした。心地良いような少し肌寒いようなそんな風だ。大きく開いていた窓を半分ほど閉じて、下ろしていた髪を二つに結んで、棚から取り出したファイルを広げた。
野球部の掛け声が聞こえてくる。慣らしのランニングから次第にバッドの小気味良い音が聞こえ始めた。
何の合図なのか、静かな校内にチャイムの音が響いた。時計を見ると朝のホームルームが始まる時間まで一時間あった。
生徒会予算を電卓で叩きだしつつ、各クラスから回収した報告書に目を通す。体育祭に文化祭、これから徐々にそれらの準備で忙しくなる。こうやって早朝に登校するのが増えるのかと思うと、自然とため息が零れた。
そんな時、カラカラカラと静かに扉が開けられた。
「あ、いたいた」
そこに現れたのは及川徹で、一時間ほど前に見た彼とは違う、よく見る制服姿の、髪型もばっちり決めたその人だった。
「ここいいねー見晴らし最高」
窓際まで歩いて行った彼は野球部員を見下ろしながら「やってるねぇ」て目を細めた。
そこにいるのはどこからどう見ても『いつもの及川徹』で、今朝見た彼は普段見ない特別なものだったような気がして、私の心臓は少しだけうるさかった。