服従


 ノクターン横丁の奥の奥、人気のない薄汚い裏路地を疾走する。背後から呪文の詠唱が聞こえて次の瞬間には私の頬の真横を閃光が掠めた。疲れで遅くなり始めた足を叱咤し、適当に角を曲がる。この先が行き止まりかもしれないけれどそんなことを考えている余裕などない。
 十数分前、たまたまこのノクターン横丁で見かけてしまった人物から私は逃げている。なぜ逃げているかと問われればそこに深い理由はなく、いうならば本能的にといった感じだ。ただ彼と目が合った瞬間、嫌な予感しかしなくて気がついたら私の足は駆け出していた。
 あの時逃げ出したことに少なからず後悔しつつも、彼からどうやって逃げ切ろうかと考える。姿くらましをすればいいのだろうけど、私はあれが苦手だ。走りながらなんて集中できなくて、第一もししている最中に腕でも掴まれてばらけてしまったら、それは嫌だ。そんなことを悶々と考えていたら足元への意識が疎かになって、足は縺れてそのまま地面にくずおれた。「うわっ」と地面に膝をついて上がった息を必死で整えようと呼吸を繰り返していればその喉元にピタと冷たい杖先の感触。捕まった。

「なぜ逃げる。久しぶりに逢えたというのに」

 聞こえてきたのは息一つ乱した様子のない男の声で、振り返りながら「へへっ」と乾いた笑みを浮かべてみても、リドルは一笑もせず私を見下ろしていた。

「久しぶり」
「私の誘いを蹴ってどこに姿を隠していた?」

 喉元に当てられていた杖先が私の顎を捉えてくいっと顔を上向かせる。ホグワーツを卒業して以来見ることのなかった彼は在学中よりもいっそう美男子に拍車がかかっていて、けれども同時にその美しい顔に隠れる残虐で冷徹な面も色濃く存在を主張しはじめていた。

「こんな所をほっつき歩いているということは碌なことはしていないんだろうがな」
「まあ、いろいろとね」

 薬の調合に必要な材料、それもそれなりに貴重なそれらの入った紙袋を抱え、私は彼を見上げる。卒業間際、彼には共に来ないかと一度誘われた。私は薬の調合は得意で、在学中も何でも完璧な彼の次くらいにはいつも薬学ではいい成績を取っていた。だから彼は私を使える人間としてみたのだろう。しかし当時、彼の誘いを断った。それは別に彼のことが嫌いだったからではなく、ただ純粋に、自分のしたいことがあったからだ。そのときはそう言って彼に断りを入れてそれをすんなりと受け入れてもらえたが、今回はどうだろうか。

「今一度問おう。私と共に来い」
「……それ、命令だよね」
「ならば死ぬか」

 今回はそうはいかないらしい。当初から私に拒否権はないようで、もしかすると一度目の誘いから今この瞬間までの間、私は彼によってわざと生かされていたのかもしれない。きっとこの誘いを断れば、私は許されざる呪文を耳にすることが出来るだろう。
 リドルの目を見据え、たっぷり黙り込んだ後、私は下手の忠誠心を表して彼の手の甲に口付けを落とすと「……Yes,my Lord」と彼に跪いた。その瞬間、リドルが口角を上げたのを私は知らない。
 次の瞬間には腕を引かれ、立ち上がらされた私はリドルと共にそこから姿をくらました。耳朶にはバシッという音と、窮屈で奇妙な感覚を伴いながら見た彼の横顔は酷く満足げだった。

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