工藤邸に客が来た。

「じゃーん、見てください! 春限定販売のお酒です!」

玄関を開けるなり、桜のラベルが付いた酒瓶をかざす女がいた。沖矢は彼女を招き入れると、リビングに通してソファに座るよう促した。

彼女は沖矢の友人だ。近所に住まい、偶然知り合った女。そこから交流はスタートし、今では友人の枠に収まっている。
初めこそ警戒していたが、接してみてわかったのは、なんの疑いようもないただの一般人ということだった。
カモフラージュとして演じる沖矢昴の人物像を固めるためにも、友人のひとりでも作っておくかと始めた友人関係。必要以上に親しくするつもりは毛頭なかった。けれど彼女と過ごす時間は思いのほか楽しく、もっと共に過ごしたい、もっと彼女のことが知りたいという想いが募った。正直、自分自身でも驚きを隠せない。
これ以上こちらの領域に踏み込ませてはならないと律してきたが、それももう容易ではなくなっていた。


彼女は成人しているが酒に縁のない生活を送っていたらしい。沖矢がウイスキーを嗜んでいることを知った彼女は、沖矢に酒の飲み方を教えてほしいとお願いしてきた。断る理由もないので約束を交わし、その約束の日が今日だった。
せっかくなら飲んでみたい酒があればそれを、という話になり、持って来たのが桜ラベルの酒というわけだ。

春らしいピンクのパッケージに釣られたのだろう。よく見ればアルコール度数が25度と初心者が飲むには些かハードルが高いように思える。

「沖矢さん、早く飲みましょう!」

沖矢の心配をよそに一足先にソファに座った彼女は、早く早くと手招きしている。沖矢は自身にしかわからない程度の息をフー……と吐き、多めに割ってやればいいかとグラスを二つ、それからトニックウォーターを手に彼女の元へ向かった。


 ◇


酒を二割、トニックウォーターを八割。これではほとんど炭酸水のようなもの。酒などおまけ程度の香りづけだ。
それなのにこれはどういうことだ。

「えっへへへへへ〜……お酒おいひいれすねえ〜」

呂律は回らず頭もふわふわと揺れている。誰が見ても彼女は完全な酔っ払いだ。沖矢がこの酔いようはなんだと目頭を押さえたのは至極当然のことだった。

「ふへへ〜、おきやさぁん〜〜」

突然立ち上がった彼女は見ていて不安になる足取りで沖矢の側にやって来ると、ストンと隣に腰を下ろした。へにゃりと笑って沖矢に密着し腕を絡めてくる。そして暑いと言ってパタパタと手で顔を仰ぐも効果はなかったらしく、ブラウスのボタンをふたつ解放した。
彼女は小柄というわけではないが、男女の体格差は当然ある。沖矢の目線からは彼女の胸の谷間がはっきりと見えていた。

(……絡み酒とはやっかいだな……)

なんとも思っていない女ならいざ知らず、彼女が相手だ。意識せずにはいられない。
立派な大人ではあるのだが、普段の言動から彼女は幼くみえる傾向がある。それが今はどうだ。潤んだ瞳で上目遣い、沖矢の腕には胸がしっかりと当たっている。むにむにと弾力のある肉感。意外にも彼女は豊胸だった。

(これは身体に悪い……)

ポーカーフェイスを装ってはいるが沖矢の胸中は大荒れだ。だがここで理性を崩す沖矢ではない。

「ほら……これを飲んでください」

ゆっくりと彼女を引き剥がすと、あらかじめ用意していた水をグラスに注ぎ彼女に飲ませた。

「んん……やら、お酒がいいれす〜」

水だと気づいた彼女はいやいやと首を振り、テーブルの上に置いてある酒瓶に手を伸ばした。

「いけません、あなたはもう酒を飲むのは禁止です」
「え、えぇ〜……なんで、れすかあ……こんなにおいひいろにぃ」

彼女の手が酒瓶に届く前にさっと取り上げ、手の届かない場所に置いた。彼女は取り返そうと沖矢の方へ身を乗り出すが、沖矢は彼女の顔の前に人差し指を立て、彼女の唇に押し当てた。彼女は「んむ……」と動きを止める。

「ただし禁止なのは僕以外の人間の前限定です」
「ふえ……? おきやさんいがいの……?」
「はい、酒を飲むのは僕の前だけだと約束してください。約束してくれるのならこれはお返しします」

と、また彼女の前に酒瓶を出した。「どうしますか?」という沖矢の問い掛けに彼女は大きく頷いた。

「良い子だ……」


酒盛りを再開し、水を挟ませながら先ほどよりも酒の比率を落としたものを飲ませてみたが、それでも彼女は酔うようで、いつの間にか沖矢に頭を預けて眠りに就いてしまった。
沖矢はやれやれと眉を垂らし、すやすやと無防備に寝息を立てる彼女を見つめた。

「まったく……相手が俺だからいいものの……いつ襲われても文句は言えんぞ」

沖矢の薄く開いた瞼からは翡翠の瞳が覗く。
彼女が頷いたのは、ただ酒が飲みたかったから――だからと思うが、いつかは“俺”とだからになればいい。そんな思いを胸に秘め「フ……」と小さく微笑むと、沖矢は桜のように薄く色付いた彼女の唇をそっと指でなぞった。

「……今は手は出しません。……ですが、覚悟しておいてくださいね」


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