夏は暑いのか。
暑いのが夏なのか。
昔授業でそんなことをやった気がするけど、どっちでも、今が暑いことに、変わりはないの。
『accessus 夏小咄』
夏の生き方。
「暑い」
「そうかぁ?今日は静かな方だと思うぞ?」
「晶乃…夏生が言ってるのは『うるささ』じゃなくて『気温』の話よ…」
長い日が窓から覗く夕暮れ。
少女が三人、自身の席に座っていた。
御嬢様学校の教室で勉強をする御嬢様とモデルと不良と見られる。しかし、御嬢様学校の教室であるのに、暑いとはどういうことであろう。文明の機器がついているはずである。
「あーきーのー…あーつーいー」
溶けるように机に突っ伏した不良…桐生ふゆは、恨めしそうにモデル体形の少女…加賀爪 晶乃を見た。
「やだよ…エアコンは寒い」
その加賀爪 晶乃はけろっと、でもどこかうんざりしたようにそう答えると、ふゆに一枚のルーズリーフを手渡す。慣れた手つきで赤ペンをまわしながら、「うーん」と唸る。ノック式の赤ペンをカチッと押したとき、何かがきれた音が、別方向からしたのを、ふゆは確認した。
「もうむりっ!!暑い!!」
ガタっと椅子をひき、勢いよく立ち上がった御嬢様…東城 夏生は、につかわないくらい乱暴に歩を進め、エアコンのスイッチを入れた。
内心ふゆがほっとしたのも束の間、今度は晶乃が立ち上がりエアコンに向かう。夏生はそれも見越していて、決してリモコンを手放すことはしなかった。そのまま晶乃から逃げるように遠ざかれば、晶乃は楽しそうに追いかけた。暑いのによくやるわ、と思いながら渡されたルーズリーフに黙々と色を落としていくふゆが、実際にその行為に集中していられたのは数分の間だった。
廊下から聞こえる、妙に丁寧な足音。そして、がさつな足音。
こんな風に歩くのは、しっている限り一人ずつで、多分当たりである。
少し救われた気分になった。だんだんと大きくなる足音。すぐに、ドアが開いた。
「何教室で走り回ってるの?咬み殺すよ」
「あら、藍李さん。ごきげんよう」
「なんでこの教室こんなに暑いんだ…?」
「しみっちゃん、手伝いなさい」
「先生に命令するなよふゆ…」
ドアが開いた瞬間に、がやがやとしていた部屋がまとまって。きっとまたがやがやしはじめる。それが普通。今この放課後での、普通。
「おー、終わったのか?加賀爪。」
「終わりましたよ、もう帰りたい…」
「俺も帰りたい。早く桜と帰りたい…」
最初こそ皮肉そうに言っていたが、言葉に出して更に帰りたくなったらしく、志水は「帰りたい…」と小さく呟き教卓の前に背を預けた。
今、何故教室にいるか。
確かに見た感じでは少女三人が勉強しているようなのだが、実際に勉強しているのは、加賀爪晶乃のみ。
言わずもがな。
『不良系天才』という異名を持つ桐生ふゆ、策略家御嬢様の東城 夏生は数学の試験を楽々とパスした。
パスできなかったのは、文学を愛して病まない、加賀爪晶乃。まさかの青点だった。
流石にまずいと思ったふゆは、晶乃の勉強係を買って出、晶乃とふゆが勉強するなら、と、夏生も残った。
まぁ、どうせ心結を待たなきゃいけないしね。と言って待ったはいいが、暑いし暇だしで相当きつかったようである。
「そもそもしみっちゃんが青点なんて付けなきゃ良かったんだよ!偽造しちゃいなよ!」
「ふゆ、先生にタメ口をきかない。あと、不正行為を促すようなことを言わないでくれないかな。聞いていて頭が痛くなるよ」
「はははっ、ふゆは柏木の悩みの種ってわけだ」
「晶乃は志水先生の悩みの種ね…」
暑い。と手でパタパタと団扇を真似ながら、夏生は静かに言った。いつの間にか立っていたふゆが志水に、赤をつけたルーズリーフを渡すと、志水は顔を存分にしかめてため息混じりで言った。
「加賀爪、もう一回やり直しだ」
その言葉にショックを隠せなかったのは晶乃よりも夏生であった。ふゆの解説をはじめから聞いていた夏生は、内心これなら合格できるだろうと確信していたため、自分の帰宅時間など関係無く、自分の幼馴染みがこれほどバカだったのかと、心底から思ってかなり落ち込んでいた。
「どうしたらあの解説で間違えるのよ…」
「んーなんでだろうなぁ…」
「今度から紀菜ちゃんに高2数学教えることにするわ…晶乃、紀菜ちゃんから学びなさい。」
「あの小動物が加賀爪相手に勉強教えられるとは思えないよ」
諦めの溜め息が教室を包む。これ以上何を教えれば…と思っていた時に、また教室の扉が開いた。空気に似合わないやけに楽しそうな声音が響いた。
「なっつみー!ようやく終わったよー!さぁ、一緒に…」
「残念だけどまだ帰れないよ」
「えっ?なで?(なんで?)」
こう言うのを空気が読めないと言うのか。軽く肩を落とした夏生は、静かに目で合図を送る。その合図ですべてを読み取った心結は「あぁ…」とはきだしてから、煌々とした空気を仕舞った。
「相変わらずバカだよなぁ、加賀爪」
「うるさいよ会長」
「言われたくなかったらさっさと終わらせな、ば加賀爪」
言い返せなくなったのか、晶乃はさっと口をつぐむ。見計らったようにふゆが解説をはじめてしまえば、そこは一瞬にして集中力勝負のリングに変わる。
しばらく、志水との戦いがあり、晶乃が全問正解をし、帰れることになったときには、晶乃が遅くて心配になった紀菜と、紀菜の付き添いの桜も教室に来ていた。
騒がしさよりも保護者参観のような、どこか不思議な空気のなか、終わりが決まったときは拍手がわき起こった。
「熱かったわ…」
「たしかに、暑かった」
「言ってる意味が微妙に違う」
ふゆと晶乃の会話に冷静に返しをいれた夏生は、すっかり傾ききった日を静かに見下しながら、オレンジ色の空を見上げた。
「なつみー」
「なに、ふゆ」
「なつみって、『夏に生きる』って書くじゃないか。」
「…ふゆ?」
「からかわれたりしなかった?名前で」
平民の世界ではからかわれるなんてことがあるのか、と内心で不思議におもいつつも、こういうことを聞いてくるということは『ふゆ自身の興味』以外になにかしらの力が働いているのだ、聞かずにはいられなかったのだろう。
ならば、答えてやるのが義理なのだろうが、答えてやるほど性格はできていないし。それになにより。
『学園のアイドル組』とともに居た私がからかわれたりしないなんてありえないと、彼女はわかっている。
「したわよ。でも、それは事実だったこと。…あんたもあったんじゃない?私たちなんかよりももっと変な環境にいたわけだし。」
「変な環境…この学園の方が変よ?」
「あら。私の基準はこの学園よ?」
「…基準がこの学園なら、日本の80%くらい変な環境だわ…」
呆れたように答えるふゆに、夏生はくすりと笑うと、見下した太陽を見上げてみせた。
「からかうのは、私たちが羨ましいから。私たちの名前、性格、持ってるものが。」
「なつみ」
「…夏と冬は厳しい季節よ。でも、だからこそお互いを好きになる。そして他の季節を好きになれる」
「そう…ね。」
ふんわりと笑った夏生につられるようにふゆが笑うと、夏生は満足そうに前へ進んでいた6人を見遣った。
そして、少し後ろへいたふゆに手を伸ばした。有無を言わさず彼女の手首を掴むと同時に前へ走り出す。
生温い空気が包みこみ、汗をひかせるどころか、さらに汗をかきそうになる。
夏生は6人のところへ辿りつくと、空いている片方の手で晶乃をつかむと、さらに前へ走り出す。
晶乃の驚いた声と、ふゆの慌てた声を聞きながら、なんとなく「いつも通りだ」と思いながら、夏生はさらに歩を強く、強くして走る。
後ろでなにかを言っていたが気にしないで。
通りすぎたものなんかに目をやらないでいい。
前だけ見る。先を見ないと今の暑さに潰されるよ。
それが、夏の生き方。