これ、ナマエちゃんに持っていってちょうだい。学校から帰ってきたばかりの俺の手に、母さんはそう言って青い小鍋を押し付けた。まだほんのりと温かいそれの中身はお手製のシチューだ。ナマエさん、好きだもんな。ウォール・マリアの奪還作戦の時に口減らしで死んでしまったと言っていたナマエさんの両親もこの世界では健在だが、ナマエさんが小さい頃から仕事で家を空けることが多い。折角ご近所になったんだし、と母さんの提案で夕食を一緒に食べたり休みの日にはアルミン、ミカサも連れて遠出したりも珍しくなかった。流石にナマエさんが大学生になってからはそんなこともめっきり無くなっているけど。もう子どもじゃないから、大丈夫ですよ。ナマエさんと居ても手放しで喜べない俺の態度が言わせてしまったのか。時々、玄関先で顔を合わせても、当たり障りのない笑顔を浮かべるだけ。それが尚更、俺の棘を鋭くさせる。
 ちゃんと笑えるだろうか。そんな心配をしながら俺はまた玄関のドアを開けた。

「あ、……エレンくん…?」
 ナマエさんの家の前で、ちょうど帰ってきたところらしいナマエさんに鉢合わせた。俺よりも面食らったらしいナマエさんは目を丸めて俺を見たが、慌てて取り繕うように歪な笑みを向けた。ちり、とどす黒い感情が焼け付く。込み上げてきそうなそれをぐっと飲み込んで、「こんばんは」となるべく穏やか声で紡ぐ。
「こんばんは……なんだか久し振りだね」
 そういえばちゃんと会話をするのは確かに久し振りのことだった。違和感と苛立ちに駆られて俺がナマエさんを避けたのか、そんな俺を感じ取ってナマエさんが俺を避けたのか、はたまた単なる偶然のすれ違いなのか。胸中にふと湧いた疑問に答えがあるはずもなく、俺は小さくそうですね、とだけ返した。
「何かあったの?」
「母さんに頼まれて。ナマエさんにって」
 両手に抱えた鍋を見せると、ナマエさんの表情が自然と緩んだ。幼子のように無邪気なこの笑顔は記憶のそれと同じで、言い様のない寂寥が募る。この人は確かにナマエ・ミョウジなのに。
「カルラさんのシチューも久し振り…」
「……母さんが嘆いてますよ、ナマエさんが全然家に来てくれなくなったから」
 懐古の波が押し寄せてくる。言葉を紡ぎながら音にならないようにと飲み込んできた言葉の抜け殻があまりに多くて、重さに溺れそうだ。息がうまく出来ない。空気が喉の奥に絡みついているような。ぼんやりと意識に靄がかかる。
「行きたいな、また皆でご飯…あ、でもエレンくん忙しいもんね」
 零れた本音を誤魔化す為、ハッとして言葉を紡ぐナマエさん。ああ、言えばいいじゃないか。私が来るとエレンくんは嫌でしょう、って。顔に思いっきり出てるのに。どうせ何も思い出してくれないなら、いっそ何もかもを突き放してくれれば楽になれるのに。
 母さんの話で緩んでいた頬が笑みを作ろうとして歪んでいる。ぺトラさんには勿論、アルミンやミカサに対してだってそんな表情を浮かべない。俺に対してだけ、過去のナマエさんは姿をくらましたままだ。それがどれほどに俺の心を削るかもしらないで。
 ナマエさんはまだ取り繕う言葉を並べ立てているけど全てがただの雑音に変わる。もう、嫌だ。
「もう、いいです」
「え?エレンくん…?」
「もういい…嫌いです、大嫌いだ…」
 俺を思い出してくれない、欠片さえも。苦しくなるばかりだ。それならもう、要らないじゃないか。
 ナマエさんの顔を見ないように俯いたまま小鍋を細い腕に押し付けて踵を返す。俺たちはあの日からじゃないと始まらない、でもナマエさんに「あの日」は存在しない。
 これからも、きっと。

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