水のように纏わり付く眠気から浮き上がる感覚だった。とろりと瞼を開き、重い身体を起こす。静かな理事長室に夏未の姿は無かった。窓から差すオレンジ色の西陽が室内に溢れ返っていた。温かさに溺れた意識を引き戻したのは携帯の着信音だった。――病院からの連絡は、先生直々のもの。もう二週間も病院には行っていない。一週間に二回のペースを大きくずれて、説教はご尤もではあった。心配したんだよ、と言われたら、……もう行かないわけにはいかない。
 既に香りも熱気と共に流れ、冷め切った紅茶に口をつける。それでも、仄かな甘さでとても美味しかった。夏未の優しさが指先にまで伝わっていくように感じた。飲み干せば、頑張れる気がして、鞄を肩に掛けて部屋を出た。
 学校を出る前、ふとサッカー部の方をこっそりと見たけれど、木野以外にマネージャーの姿は無かった。夏未は理事長室にいなかったのに、どうしたんだろう。……それに、鬼道さんも、いない。不思議に思いながらも、木野に用事があるから休むとだけメールをして、そのまま病院に向かう。木野に伝えておけば円堂や一之瀬たちにも伝わるはずだ。染岡たちは、気にも留めないだろう。

「……この傷は?」
 さらしでは隠しきれなかった、染岡の蹴りで出来た痣を見て、先生の表情は珍しく険しくなった。割れ物に扱うように、慎重に指先が触れる。
「ちょっと、階段で滑って」
「本当に?」
「落ちました」
 僕の頑なな態度に、先生は溜め息を落とした。わかったよ、と苦味を滲ませて微かに笑む。……何かを気付いたのかもしれない。でも気付いていない振りをしてくれた。すいません、と消え入りそうな声で呟き、学ランを羽織る。風丸に蹴られた右肩に然程の痛みは無い。
「瑞希ちゃん、何も訊かないけど無理をすれば君の身体に響く。無理だけはしないでね」
「……はい」
 ありがとうございました、と言って頭を下げる。診察室の扉越しに見た先生はいつもの柔和な笑みに戻っていた。もう一度会釈をして扉を閉めた時、知った声が耳朶を打った。――瑞希先輩?
 驚愕に勢いよく振り返る。まさか、と唇が震える。僕を見つめ返す眼差しも同じように驚いていたが、僕とは違って疑問の色が強かった。成神も、源田も、佐久間も。
「何してんだよ、お前」
「…そっちこそ」
「俺たちはまだ世宇子中に受けた傷が完治してないからな」
 通院がいるんだ、と間髪入れずに源田が返す。確かに世宇子中との試合のせいで暫くサッカーが出来ないのは聴いていたけど……まさか、それは思ってもみなかった。
「先輩、怪我してるんスか?」
 きょとりと目を丸めた成神が首を傾げる。……話すしかない。此処ではちょっと、と三人を連れて待合室に向かう。他には誰もいなくて助かった。
 源田の隣に座って、佐久間の隻眼を真正面から見つめる。……佐久間の目は全てを見通しているみたいに鋭くて、僅かに逸らしてしまう。そのまま、吐息混じりに「身体が弱いんだ」と告げる。
 成神と源田は目を見開いて驚きを露にして顔を見合わせる。けれど、妙に冷静な佐久間が当然の問いを投げかけた。
「……理由は?」
「話せない」
「どうしてッスか?」
「…、知られたくないんだ、ごめん」
 瞼を伏せて俯く。言いたくないならいいさ、と源田の声がした。
「まあ、無理強いするつもりはないからな。顔色、あんまりよくないぞ。体調悪いなら早く帰った方がいいな」
 立ち上がった佐久間が僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。……優しさに助けられてばっかりだ。体調を慮って荷物を源田が持ってくれる。送りますよ、という好意に甘えて、三人に家まで送ってもらうことになった。

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