朝の涼やかな空気が生徒の声を載せて流れていく。それは靄がかかったようにぼんやりと耳朶を打つ。何度も蹴られた横腹の脈を打つ痛みが意識を保つ術になっていた。正面から鳩尾に染岡の蹴りが入り、吐き気がせり上がってくる。苦味をなんとか抑え込めば、だらしなく開いた口からは掠れた咳だけが洩れた。
 朝練が終わって着替えを済ませ部室を出たところを風丸に捕まった。引き摺られるように連れて来られた先には染岡を始め、いつもの面々がいた。僕の顔を見るなり、染岡が眞藤に手を上げたんだろうと身に覚えのない追及をした。首を振ればいきなり横腹を蹴られた。聞く耳を持たないとはまさにこのことだな、と呑気に思っていたら宍戸に突き飛ばされた。サッカープレイヤーとして鍛えている奴と病弱な奴では力の差は歴然だ。耐え切れるはずもなく、壁にぶつかってそのまま座り込む。脚が震えて立っていられない。
「何とか言えよ芦川!」
 風丸が胸倉を掴んで立たせようと引き上げるも力の入らない身体はだらりとしたままだ。苛立ちに舌打ちをして、投げ捨てるように手を放す。
「お前ら…!」
 土門の声がして、全員の意識がそっちに向いた。下唇を噛み締めて、拳を強く握って、染岡たちを睨む土門と一之瀬の姿。けれど二人は何もしない。……出来ないと知るのは一部だけ。そんな二人を鼻で笑って、気を取られていた僕の手を染岡が踏み付ける。
「っ、う…」
 スパイクじゃないだけマシだったけれど思わぬ激痛に呻きが洩れる。松野や一年の冷たい視線が突き刺さる。半田や少林寺は戸惑いに俯いているのが見えた。
「何やってんだお前たち!」
 円堂の声だ……気怠さに目を伏せてしまいたくなるのを我慢して見遣る。隣には木野と夏未の姿があった。染岡が舌打ちをして脚を退ける。
「行くぞ、みんな」
 風丸が先導して、円堂の横を何も言わずに通り過ぎて行く。信じられない、光景だった。風丸と円堂は幼馴染で、お互いに信頼し合える関係で……こんな対立があるなんて想像もしてなかった。
 最後尾となった少林寺の背中が見えなくなって、大きく息を吐いた。涙がこれ以上込み上げないように、気持ちを落ち着かせたかった。
「瑞希くん…っ」
「大丈夫か?!」
 駆け寄ってきた木野と土門に、安心させるように微笑むが、痛みを耐えるが故に歪になってしまう。
「夏未ちゃん……これでも我慢しろって言うの…?」
 ……鬼道さんや染岡たちとはっきり対峙した日から一週間が過ぎた。次の日から制裁と銘打った暴力は始まった。予想していたことではあるし出来る限り避けるようにはしているけれど、如何せん人数の違いがある。なるべく一人にならないようにはしても捕まってしまえば、向こうの気が済むまでのサンドバッグと同じだ。
 一之瀬と土門は何もしない。それで良い。そうじゃないといけない。けれど、守ると言ってくれた一之瀬にとってそれは酷く腹立たしくもどかしいことで……夏未に問い掛ける声は憤りに震えていた。
「……我慢して、一之瀬くん」
 夏未のいらえは変わらない。迷いの無い返答は、それでも微かに震えた声で紡がれる。それをわかっているから……夏未を責めても、詮無きことだとわかっているから、一之瀬も引き下がるしかない。
「瑞希くん、手を見せて…」
 木野に促されて、未だに指さえ動かすことの出来ない手を差し出す。僅かに擦れて赤くなる腫れに一瞬泣きそうな顔をしたけれど、表情を引き締めて湿布を貼り緩めに包帯を巻いてくれた。
 染岡が執拗に横腹を狙うことも、風丸たちがぱっと見てはわからないところを狙うのも、質は悪いが有難かった。これ以上、余計な心配は掛けたくない。それでなくても現状に精神が擦り減っているはずだ。誰にも知られたくない。……通院も今は出来ない。
「瑞希、立てるか?保健室行くか?」
「ん、大丈夫。ありがとう」
 気遣って眉尻を下げる土門に笑いかけ、その手を取って立ち上がる。丁度チャイムの音が校内に鳴り響き、教室へと急いだ。

 少し前まではただの弱小チームだった雷門サッカー部は、今や全国大会にも駒を進め、優勝も視野に入れた強豪チームになった。学校内でも影響力を持ち始め……それは負の場合でも同じ。僕の噂は(真実かどうかなんてこの際どうでもいいのだろう)一週間もあれば瞬く間に広がり、軽蔑と嫌悪はサッカー部から学校全体へと染み渡っていった。決して小さくはないこの学校で、僕の味方は円堂たちしか居ない。
 切り刻まれたシューズ、ゴミを詰め込まれた靴箱、僅かに目を離した隙に捨てられた教科書や私物、廊下を歩けば漂う悪意のある囁き、教室に入った時の拒絶に似た冷たい空気……納得すれば対して驚くこともない。机に置かれた菊の花なんて、本当にこんなことするんだなと笑ってしまった。
 気にするな、と言って円堂が花瓶を退けてくれた。礼を言って席に着こうとした時、斜め後ろの席に座る豪炎寺と目が合った。反応を示すより先に逸らされたけれど。
 半田と少林寺が未だに悩んで、結論が出せなくて葛藤しているのはよくわかる。豪炎寺に関しては、正直、何を考えているのかわからない。手を出すわけでも助けるわけでもない。思わず見つめても、視線が交わることはなかった。
「始まるわ、瑞希くん」
「……ん」
 木野の声に、僕は豪炎寺から目を離して教壇を向いた。

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