音無が小さく頷いて、その肩越しに見えた眞藤の唇が薄く笑みを携えたのがわかった。僕は何か音無に恨まれるようなことをしただろうか。……それは眞藤に関しても疑問の尽きないところではあるけれど。
 はっきりしたことは、音無と眞藤が手を組んだということだけだ。転入してきたばかりの眞藤の言葉を信じきれなくても、音無の言動が加われば真実味が一気に増す。まして……鬼道さんからすれば、他人の僕よりも実の妹の言葉の方が大事だ。音無を大切に思っている分、鬼道さんの怒りは大きいだろう。
 それが真実ではないにせよ。
「……本当なのか、瑞希」
 問い掛ける鬼道さんの声は冷たい。あまり渦中にいる自覚がなくて、他人事のように感じてしまう。額縁の絵を眺めている気分だ。憤りに歪む鬼道さんの横顔をぼんやり見つめることしか出来ない。
 染岡に殴られるまでは。
「っ、!」
 骨が軋む、というよりは折れる音だった。頬に鈍い痛みと熱が宿る。灼けるように熱い。
 踏ん張ることが出来ずに殴り飛ばされ、狭い部室の壁に背中を強打してしまった。衝撃に一瞬息が止まって、視界が激しく揺れた。何やってんだよ染岡、と半田の声が遠くに聞こえた。顔を上げると、まだ殴りかかって来ようとする染岡、それを必死に止める半田と一之瀬が見える。
「放せ!半田、一之瀬!」
「やめろよ!瑞希は肯定なんてしてないだろ?!」
「やった奴が大人しく自分がやりました、なんて言うわけねーだろ!第一やられた音無が、瑞希にやられたって言ったんだぞ!」
 音無を見遣れば、俯いたまま尚もぼろぼろと涙を落としていて、その姿には真藤が寄り添う。一年はおろおろとして先輩を見回すけれど、松野や風丸たちも視線を彷徨わせていた。動揺しているのが手に取るようにわかる。鬼道さんは変わらず僕を睨み、豪炎寺は染岡を見つめて動かない。木野が今にも零れ落ちそうな程に涙を湛えているのまで見て……ふと、円堂が居ないことに気付いた。
「何とか言ってみろ、瑞希!」
 鋭い染岡の声に、深く息を吐いて壁に凭れながら立ち上がる。背中も頬も痛くて顔が歪んでしまうのがわかった。
「否定しないのか…?」
 鬼道さんの冷たい問い掛けに思わず笑いが零れた。なんて、くだらない。
「何笑ってんだ!」
「……僕が否定したところで、無意味だろう?」
 否定して真実を訴えても、この状況で誰がそれを信じるだろう。どうせ誰も信じてはくれないんだ。どんな言葉も、声を張り上げても、無駄でしかない。
 思い出したくもない過去が脳裏を過る。身体の奥からぞわりと不快が駆け上がって震えた。
「ふざけんなよテメェ…!」
 一之瀬と半田を振り払い、染岡が怒りのままに僕の横腹に目掛けて蹴りを入れた。背中の痛みで身動ぎも出来ずまともに受ける。支えになっていた壁に右半身を思いっきり打ち付けられ、衝撃に息が止まった。膝から崩れ落ちる。空気を取り込むと同時に心臓の早鐘のような鼓動が身体中に伝わった。全力疾走した後のように呼吸がしづらくて、咳も込み上げる。眩暈に視界が揺らいだ。
「やめて染岡くん!」
 誰も動けない中、木野が僕の胸に飛び込むように染岡との間に入った。震える指先で僕のシャツを掴む。
 ふと眞藤を見ると、下唇を噛み締めて僕ではなく何故か木野を睨んでいた。自分の思い通りにいかないことが腹立たしいのか……、それにしてはあまりにも憎悪の籠もった目に感じる。
「あ、秋っ、離れろって!」
 土門の声に反応して、木野の身体が大きく揺れた。その拍子に、大きく開かれた双眸から透き通った雫が、痺れて動かない僕の掌に落ちる。細い指は震えながらもしっかりと服を掴んだままで、決して離れようとはしない。
「皆おかしいよ…どうして黙って見てるの…?!」
「おかしいのはお前だ、木野!そいつは音無に手を上げた……眞藤にも!これは制裁なんだ!」
「何言って…っ、瑞希くん…?」
 まだ自由に動く左手で木野を押し退ける。ここまで頭に血が昇っているのでは、木野にも手を上げかねない。……それだけは避けたい。
 呆然としていた土門がハッとして木野を自分の方へ引き寄せる。土門が居れば木野に被害が及ぶことはないはずだ。取り敢えず安心して緩んだ頬を引き締め、染岡に向き直る。
「それで……染岡は僕をどうしたいの?」
「あぁ?!」
「僕に制裁がしたいの?僕がやりました、って謝らせたいの?それとも、いっそのことサッカー部から追い出したいの?」
 静かに問うと、初めて染岡が口籠った。皆も口を噤んで、室内にはしん……と冷めた空気が漂う。
 自分の荒い呼吸だけが響く。息をする度に、そこが心臓になって激しく鼓動するように蹴られた横腹が痛んだ。
「……全部だ」
 射殺すような視線で僕を睨め付け、小さく呟く。自分に言い聞かせるように、もう一度。その声に目を伏せる。咀嚼して、染岡を見つめ返した。
「悪いけど、最初の以外は受け入れられない。制裁は勝手にすればいい。でもやっていないこと……自分が悪くないことに謝りたくないし、サッカー部を出て行くつもりは毛頭ない」
 はっきりと言い放てば、全員が驚いた。皆の前でこんなに話すのは初めてかもしれない。明確な意思表示も滅多にしないから……当然と言えばそうだろうな。
「……音無にも、謝らないのか?」
「謝らないよ」
 風丸の声に迷うことなく返せば、きつく睨み返された。松野も、栗松も、壁山や宍戸も。……出した答えがたったそれだけのことでよく理解できる。少林寺は不安そうな表情で風丸たちを見上げていた。
「……制裁をしたいのならすればいい、と言ったな」
「ああ」
 僕を見ようともしない鬼道さんの声に肯定を返す。どうせされるんだろう……逃げたくても逃げられない。
「ならば覚悟しろ。俺は絶対にお前を許さない…!」
 鬼道さんはそう告げて、音無を連れて部室を出た。染岡や風丸たちもそれに続く。半田は泣きそうな表情で僕を見ていたけれど、……やがて少林寺を引き連れ、豪炎寺と共に出て行った。残ったのは、僕と一之瀬に木野、そして土門だけだった。

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