半田先輩、……相手と自分しかいない部室。他は既に練習に取り組んで誰もいない。その中で少林寺は小さく名前を呼んだ。椅子に座りスパイクの紐を結ぶ半田は手を止めることも、少林寺を見遣ることもしない。表情がちらとも見えなくて、少林寺の目に僅かな不安が過る。しかしそれを押し隠して、もう一度、その名を呼ぶ。
「……なんだよ、少林」
「その…、芦川先輩のことなんですけど…」
 瑞希の名前に半田の手がぴくりと止まる。予想していなかったとは言わないが……直球の言葉に取り繕うことも出来なかった。
 半田の反応に、自身の掌を見つめ続ける少林寺は気付かない。
「僕は……、僕は、音無さんや眞藤さんを疑いたいわけじゃないけど……芦川先輩が悪いなんて、どうしても、思えなくて…っ」
「もういい、少林」
 わかってるんだ、と少林寺の言葉を手で制す。少林寺が、自分も、迷っているのは明白だ。きっと、誰の目にも。
「俺だって、瑞希が悪いなんて思ってないよ」
「っ、だったら…!」
 どうして何もしないんですか、――続くはずの問いは、半田の表情を見れば続けられなかった。悲哀を滲ませ、耐えるように眉根を顰める。音を宿されなかった吐息は彷徨って消えていく。
「……あのさ少林、俺と瑞希って一年の時からの付き合いなんだよ。最初はさ、染岡と二人でサッカー部覗いてさ」
 ……鮮明に思い出せる。
 円堂と木野の二人だけの、本当に最初のサッカー部。覗き込んだ自分と染岡に、大喜びで飛び跳ねた円堂。諸手を挙げて歓迎してくれた木野……四人になってもサッカー部は変わらず肩身が狭かった。練習場所もまともに無くて、部室の前でパス練習をしている時、半田の蹴ったボールが受け取るはずの染岡を大きく逸れて裏に転がってしまった。――それを取りに行って、円堂がリフティングをしていた瑞希を見つけた。
「円堂の奴、瑞希がどんなに断ってもしつこく食い下がってさ。豪炎寺を誘う時の比じゃなかったんだぜ?」
 サッカーはしないんだ、と一点張りの瑞希をリフティングしてるだろ!と追い掛ける様は周りにとっては笑いの種だった。今思い出しても小さく笑いが込み上げる。……それから、円堂の押しに負けて、瑞希が入部して。
「マネージャーって形でも嬉しくてさ。あいつ、やる気無さそうに見えるしお世辞にも優等生って方じゃないけど……部活には割と熱心だよな」
「……それはわかります」
 試合関係に顔を出すことがない代わりに雑務を率先してする姿は、少林寺の目にも確かなものだ。練習を見つめる瞳は穏やかで、それでも楽しそうで……サッカーが本当に好きなんだと、疑う余地もないくらいに。
「……仲間なんだ、瑞希だって」
 フットボールフロンティアに出ることが手の届かない夢だった頃から、仲間なのに。
「木野の言ってたことは正しいよ。みんなおかしい……音無と眞藤を疑いたいわけじゃない。でも同じように…、瑞希のことを信じてる。……仲間だから」
 そう言って微笑めば、少林寺は嬉しそうに笑みを綻ばせた。――見て見ぬ振りも、迷うばかりで何もしない時間も、もう必要ない。
 がちゃ、と音を立てて扉が開かれる。反射的に向けた視線の先にはユニフォーム姿の豪炎寺が佇んでいた。不安気に自身を振り返る少林寺を後目に、半田は真っ直ぐに豪炎寺を見据える。
「お前はどうするんだ、豪炎寺」
 僅かな沈黙の後、ゆっくりと部室内に踏み入り、後ろ手に扉を閉める。……豪炎寺の掠れた声が聞こえるのは、この場にいる二人だけだ。
「……俺は、…真実を知りたいんだ」





境界線でずうっと泣いていた


150203/へそ様より拝借(一部改変)

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