何も考えず走り続け、気付けば理事長室の前に来ていた。……来ても仕方がない、全てを知っている理事長は事故に遭って入院しているから。わかっていても扉に手をかけ、開けてしまった。
「芦川くん…?ど、どうしたの?!」
 誰も居ないかもしれない、という僕の予想は外れて、夏未が居た。突然の来客への驚きから、僕の様子に焦りが滲む。発作の一歩前だ。どんなに酸素を取り入れても足りない息苦しさに眩暈がする。
 ふらふらと壁に凭れる僕に駆け寄り、支えながらソファーに座らせてくれた。夏未も隣に腰を降ろし、背中を撫でながら体調が悪いの?と問われる。言えるはずもなくて、走ったからとだけ告げる。何度か深呼吸をすれば呼吸も落ち着いた。夏未は安心したようにほっと頬を緩める。
「紅茶で良かったかしら」
「あ…、ごめん、ありがとう」
 慣れた手付きでティーカップとポットを用意し、手際よく紅茶を淹れる。その姿を呆然と眺めていると、やがて薫り高い空気が室内を満たした。心が凪いでいく。
 ソファーの前に置かれたテーブルに置かれたティーカップから微かに甘い香りを漂わせた湯気が揺れる。夏未は再び僕の横に座ると、白魚のような手が僕のそれに重ねられた。きょとんとする僕に夏未は真剣な眼差しを向ける。
「何かあったのね?」 
 ……首を振れば、嘘はよくないわね、と窘められた。僅かに俯く僕の頭を、柔らかな掌が撫でる。重ねた手が後押しするようにぎゅっと握って、途切れ途切れになりながらも鬼道さんとのやり取りが口から零れた。
「……あのさ、夏未」
 始終黙ったまま聴いていた夏未を見上げる。柳眉を顰めて難しい表情をしていた。
「前は、普通だと思ってたんだ。信じてもらえなくても。だから鬼道さんや染岡たちが信じてくれなくても仕方がない、構わないって思ってた、なのに……。円堂が居て、一之瀬も土門も夏未も木野も……成神たちも信じるって言ってくれて……鬼道さんに、腹が立った」
 沸々と込み上げたものは、まず間違いなく怒りだった。悲愴混じりの、大声で泣き出してしまいたくなるような。こんな感覚は、もう身体が忘れてしまったと思っていた。諦めはついたんだと思ったのに。
「……信じてくれる人が多くて、欲張りになったのかな」
 思わず自嘲が洩れる。張り詰めた静寂を切ったのは夏未だった。握り締めた手に熱が籠る。喉がひくりと震えた。
「それは人として当たり前の感情よ。ねえ、芦川くん、諦めないで欲しいの。貴方が信じて欲しいと願えば、応える人は必ずいるわ。いつか、みんなわかってくれるはずよ」
「……本当に?」
 掠れた声で問う。夏未は優しい声でそれを肯定した。――そこに何も確証がないことは明白で、夏未だってそう願っているんだと、わかる。けれど今までそう言ってくれる人はいなかった。それが酷く嬉しくて、安心して……ほっと肩の力が抜ければ、とろとろと甘い微睡みが襲った。最近、あまり眠れていなかったから。
 耐え切れずにゆったりと瞼が落ちてくる。意識が途切れる前、夏未が誰かに電話を掛けようとするのがわかった。扉の向こうで物音がしたけれど、もう、何も考えられなかった。



「なんで、お前の方が泣きそうなんだ、……瑞希…」
 鬼道の囁きは静かな廊下にぽつりと落ちて、届くことのないままに溶けて消えた。





押しつぶされたこころ


150202/へそ様より拝借

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