自分たち以外には誰も居ない部室。扉を隔てて、練習に勤しむ声を遠くに聴きながら、音無春菜は眞藤真理と対峙していた。態とらしくタオルを畳んで視線を合わせないようにする眞藤の横顔を見つめる音無の表情は硬い。
「ねえ、どうして……?」
 ぽつりと呟いた声に眞藤の手が止まった。琥珀の瞳に、僅かに俯く音無が映る。
「どうして、瑞希先輩にあんなことしたの…?」
 ――全てを、見ていた。何もかも、全て。
 円堂たちに頼まれた情報を探して集め、急いで瑞希と眞藤の元へ向かった。声を掛けようとして、息を飲んだ。眞藤が突然自らドリンクを被り、驚きのあまり動けなかった。その間に部員がぞろぞろと集まって……、昨日は一之瀬と豪炎寺の助言によって事は大きくならずに済んだ。けれど、もしそんな言葉がなかったら?瑞希がどんな危険に晒されるかは想像に難くない。
 木野に連れられて行く時に垣間見えた、確かな悪意の宿る微笑みも。瑞希を陥れる魂胆があるのは明らかで。
「理由、ないの?」
「……」
「っ、……真理がそんなことするなんて、思わなかった。私、先輩たちに全部話すから」
 顔を上げて告げても、眞藤と視線が交わらない。唇を噛み締め、部室を出ようと音無は踵を返した。
 瞬間、眞藤の口許が音もなく嗤いを為す。――そんなことは、想定内のことだ。
「ねえ、春菜」
「……何?」
「春菜と鬼道さんは兄妹だけど、長い間……今も、一緒に暮らしてないのよね?」
 思いも寄らぬ兄の名前に、音無は振り返った。何故そこで眞藤が鬼道のことを口にするのか、理解出来ずに音無は眉を顰める。状況に不似合いな程の柔らかな笑みが余計に分からなくさせてしまう。
「芦川先輩って鬼道さんと仲が良いのねえ…」
「先輩は皆と仲が良いわよ」
「今日の昼休み、二人で屋上に行ってるところを見かけたの。二人だけで行動する程、仲良しなのかしら。違うクラスなのに」
 どくん、と大きく心臓が跳ねた。
 音無にとって鬼道は長く離れていた、大切な存在。想う気持ちは依存にさえ酷似して、正しいか否かの判断が揺らぐ時もある。昼休みの間ずっと一緒にいた眞藤がそんなことを知るはずがなくて……嘘だと言うことは、少し考えればわかること。相手が、鬼道でなければ。
「お兄さん、奪われちゃうんじゃないかなあ」
「っ、!」
 呼吸が儘ならない。苦しくて、眩暈がする。立ち尽くす音無の肩に手を置いて、眞藤は悪気に歪む唇を耳元に寄せた。
「奪われたくないでしょう?たった一人の肉親……大切なお兄さんだもの。でも春菜からその大事な人を奪おうとしてるの。芦川瑞希が」
「ち、がう…!」
「違わないわ。……ねえ、奪われてもいいの?」
 眞藤の囁きが追い詰める。そんなことはないはずなのに。嫌な想像に身体が小刻みに震え始めて、その背中を眞藤の手が残酷なまでに優しく撫でる。
「私に協力してくれれば、お兄さんを奪われずに済むわ。ねえ、春菜」
 名前を呼んだのを最後に眞藤が音無から離れる。それとほぼ同時に、音無の目の前で扉が開かれた。
「……音無?」
 はっとして顔を上げると、怪訝そうに音無を見つめる瑞希が居た。その表情から先程の話を聞いていた様子は無いが、思わずたじろいでしまう。一歩退いた音無に瑞希は首を傾げた。
「どうしたんだ…?」
「先輩、音無から離れてください。怯えてるじゃないですか」
 身動ぎも出来ない音無の肩を、態とらしく抱き寄せる。瑞希から守るような所作で音無の前に立ち、勝ち誇る笑みを浮かべた。
「何を……、!」
 眉根を寄せる瑞希に背中を向け、眞藤は徐に振り翳した手を音無の頬へと振り下ろした。
 肌を打つ乾いた音が響く。叩かれた音無も、目の前で起こった事に思考がついていかない瑞希も大きく目を丸めて硬直する。そんな二人を嘲笑うが如く目も呉れずに、眞藤は昨日と同じ甲高い悲鳴を上げた。
 そして、グラウンドから部員が集まってくる。
「……どうしたんだ」
 低い声で問いかける染岡の視線は既に瑞希を捉えていた。
「芦川先輩がいきなり春菜を叩いて…っ、私、びっくりして……!」
 音無の肩を抱き、涙に濡れる声で告げる。瞬間、全員の眼差しが瑞希に向いた。敵意を含む刺すような視線、戸惑いがちに揺れるもの。その全てを振り切り、瑞希はただ眞藤を見つめる。
「またお前かよ…!」
 ぎり、と噛み締めた奥歯が音を立てる。ぐっと握った拳は力が入り過ぎて白くなり、それに気付いた一之瀬が素早く瑞希の前に立った。染岡がどんな行動に出るかなんて、昨日と今日のことですぐにわかる。
 両手を広げ、身体で瑞希を庇う。
「待てよ染岡、まずは確かめることがあるだろ!……音無、本当に瑞希なのか?瑞希が、お前を叩いたのか?」
 一之瀬の声に、音無の身体が震えた。
 全員が言葉を待っている。瑞希も含め、全員の視線が降り注いでいる。否定しなければ……眞藤のしたこと、言われたこと、全てを今言わなければいけない。わかっているのに、声が出ない。開いた唇が戦慄いて、吐息さえも震えてしまう。――眞藤の言葉が、脳裏に響いて消えない。
「春菜……?」
「!」
 覗き込んだ兄の心配そうな表情に、息が詰まる。
 黙り続けていれば瑞希の状況が悪くなる一方だ。罪悪感に涙が浮かんで、目に映る鬼道の顔が歪む。薄い水の膜は重みに耐えられずにぼろっと落ちて、……けれど、どうしても失うのが怖くなって。
 音無はただ声を殺して頷くことしか、出来なかった。





愚かな水は銀色の星屑に消える


150119/へそ様より拝借

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