遠坂と七瀬の、自分と律との間に結ばれた婚約が破棄されたことを、時臣は父の口から告げられた。鈍器で殴られた衝撃が襲う。常に優雅たれ、という家訓さえも吹っ飛ぶ程に真っ白になった頭では何も捻り出すことも出来ない。驚愕に戦慄く唇から零れたのは困惑の吐息だけだった。
 書面があるわけでもない、ただの口約束なのは事実だ。しかし時臣はその口約束が決して破れないものだと自信があった。遠坂と七瀬を繋ぐ力関係も、魔術師である父がより良き子孫を望み七瀬の人間を必要とするのも、時臣は幼い頃から理解していた。優秀な人材を手放すはずのない父の意向に、七瀬が逆らえるはずもない……そう、思っていたのに。
「それよりも時臣、あの禅城家の娘と知り合いになったようだな。大事にしなさい、素晴らしい才をもたらす女性だろうからな」
 言い終わるな否や、時臣は駆け出していた。まだ伝えていない禅城の娘を何故、父が知っているのか。誰が教えたのか。時臣の脳裏には一人しか浮かばない。まさか、律がこんな行動に出るとは予想だにしていなかったというのに。
 律の家に来たまでは良かった。しかし時臣は再び愕然とする。門前払いなど、今まで受けたことのない扱い。律に会わせろ。どんなに訴えても見知った顔の使用人は微笑むこともなく無情にお引き取りを、の一点張りである。これではまるで、関係を断絶するかのようではないか。
 自分に開くことのない格子を忌々しく握る時臣の肩を、薄い手が叩く。振り返り目に映った人物に、時臣は奥歯を噛み締めた。
「雁夜…」
「……何してるんだよ、こんな所で」
 まさか、お前まで追い返されたのか。どこか諦めたような声色に、雁夜も同じなのだと悟る。会いに来たのだ、律に。自分よりも先に。……何の為に?
「君なのか…」
「は?何言って、」
「律に何を言ったんだ!」
 胸倉を掴んで無理矢理に引き摺り寄せたせいで雁夜の体が大きく傾く。まろびそうになったことに非難の声を上げようとした雁夜は、射殺すような眼差しに口を閉ざした。この鬼の形相が、好意的に笑みを向けてくる遠坂時臣とは思えない。憎しみと怒りが織り交ざって揺れる瞳には慄きを耐える自身が映り込んでいる。呼吸すらし辛くなる程の敵意に晒される意味が解らない。しかしそれを問う声も、出ない。
「君が好きなのは葵さんなんだろう…?どうして律に関わるんだ…余計なことばかり…ッ!」
「……時臣、お前、まさか…」
 私と時臣はただの幼馴染だから。雁夜の記憶に残る律は確かにそう告げた。律は本当にそう思っていたのかもしれない。……好きなのは、時臣の方だった。
「っ、ちょっと待て、律に何かあったのか?話が見えないんだよ!」
 時臣の手を苛立ち任せに引き剥がす。時臣が律のことを好きで、律は時臣との未来を選んだのだ。我を忘れたように泣き喚きながら葵の告げた言葉が雁夜の脳裏に蘇る。愛しい相手のことを思うと時臣への憤りは募るが、今はそれよりも時臣が何に対してここまで激昂しているかだ。
 たたらを踏む時臣の靴音に、ふと疑問が閃く。そう、律は時臣との未来を選んだはずだ。その相手を律は何故、追い返す必要がある?
「……私の知らない内に律との婚約が破棄された」
 何とも形容し難い衝撃が雁夜の胸に襲い掛かる。もやもやとして落ち着かない。妙な気持ち悪さに心臓の辺りを掻き抱く。もしかして、という予感に激しい鼓動を繰り返すせいで息苦しさを覚えた。律が、婚約を破棄した。
 俺があんなことを言ったから……?
 ひやりと寒気の走る背筋が、突然の声に跳ね上がる。震えを必死に押し殺した静かな声は、柵より向こうから投げかけられた。時臣と揃って向く視線の先には使用人が一人佇む。先程、時臣を非情に追い返していた使用人だ。
「一介の使用人がこんなことを申し上げるのは無礼なことかもしれません……まして、律様と主人の話を、意図せずとも聴いてしまった私はきっと許されないでしょう。ならば、処分を承知でお伝えしたいことが御座います」
 覚悟の眼差しに、雁夜は知らずの内に生唾を飲み込む。身構えた青年2人をいとも簡単に崩す言葉が、その形の良い唇から零れ落ちた。
「遠坂様に婚約の破棄を申し出たのは律様ではありません。律様が改めて婚約を結んだ相手……間桐、臓硯様です」










さあ笑えや泣けや
title by 告別様

14/04/06