畏まりました。戸惑いの色がほんのりと混じった使用人の声を背中に、窓の向こう、庭園へと目を移す。雨は降らないまでもここ最近は暗雲の曇り空が続いていて、白がくすんで見えた。もしかしたら、私の目にはもうあの日のような麗しい大輪は写らないのかもしれない。完璧な、幸福は。
 廊下の方が騒がしい。まさか、雁夜くんまでが無理やりに上がり込んだのだろうか。とてもそんなことをする人には見えないけど、確率で言えば0じゃない。椅子から立ち上がり、扉の冷たい金属をくるりと半回転させて鍵を掛ける。会ってしまっては意志が脆くなる。
 がちゃんっ、荒い音を立ててドアノブが何度も回される。扉の向こうから。びくりと跳ね上がった肩が安堵にゆっくりと戻る。閉めて、良かった。
「律っ、開けてくれ!」
 ばん、ばん、と扉を叩く音と雁夜くんの必死な声が訴えかけてくる。もう目にすることも叶わない面差しが焦りに歪んでいる様が容易に想像できた。開けられないよ。音もなくひっそりと呟いて無機質な冷たさに掌を這わせる。薄い扉が、なんとも厚い壁として私と彼を阻む。しかしそうでなくてはいけないのだ。
「っ……いるんだろ、なあ…」
 滑らかな表面を滑るような音は、雁夜くんが扉に縋ったまま膝をついたからだろうか。思わず私もその場にしゃがみ込む。どうしようもないというのに。
「……時臣のことが、好きだったのか?」
 ああ、彼も私と時臣の関係を耳にしてしまったのだ。恐らく葵さんが涙ながらに話したのだろう。時臣はそれを予想していただろうし、葵さんは雁夜くんにしか縋れない。葵さんを泣かせるなんて、私は最低だね。
「だめなんだ…遠坂が相手なら、あいつも諦めると…」
 ぶつぶつと力ない声が聴こえる。意識しなければ気にも留まらない程の微かさに、ぐっと身を寄せる。
「葵さんが…間桐に来てしまえば…彼女は、ただ子どもを産まされるだけに…蟲蔵に放り込まれる…!」
 壊す勢いで叩きつけられた扉が僅かにしなる。
 ……何故、雁夜くんが私に協力を求めたのか。何故、雁夜くんが私と時臣の婚姻があると困るのか。何故……雁夜くんが葵さんを好きでも時臣に任せようとしたのか。その全ての答えが、風が吹き抜けるようにさっと私の中に落ちてくる。魔術師であるからこそ耳にしてきた間桐の噂が真実味を帯びて、実情の輪郭がはっきりと捉えられた。
「頼む…頼むから…」

 濡れた響きはだんだんと遠ざかって、やがて無音だけが佇む。身動ぎも出来ない。指先にも力が入らずにこうして座り込んで、もうどれくらい経ったのだろう。
 葵さんが間桐に……雁夜くんと結ばれるのは、雁夜くんが何よりも避けたいことだったのだ。心を捧げた相手を幸せにしたいからこその選択。空回りだ、私は。雁夜くんが自分を押し殺してまで成し遂げたかったことを、この手で潰そうとしている。
 私にできることは殆どない。遠坂と七瀬の力関係を覆すことも、時臣の心を変えることも、不可能。でも、七瀬じゃなければいいのだ。雁夜くんが「遠坂なら」と考えたように「間桐」なら。
 大丈夫。自分を奮い立たせるように呟いて立ち上がる。かちゃんと鍵を開けてドアノブを回す手は、震えてはいなかった。










地獄に落ちるのはだれ
私でなくてはいけない













貴方を想えば其処も悪くないでしょう
title by へそ様
140201