憂う雨がしとしと静かに降る中、傘を差すことさえ忘れた葵さんは湖に沈んだかの如く水に濡れていた。綺麗で傷みのない髪、柔らかな白のワンピースの裾、強く握り締めた拳……彼女から落ちる冷やかな雫が濃紺の絨毯の一部を更に深い色に染め上げる。使用人の焦燥に駆られた声が遠くに聞こえる。目の前に佇む彼女を探しているのだろう。きちんと了承を取って上がったとは到底思えない、彼女らしからぬ粗暴さで私の部屋に入ってきた葵さんの荒い呼吸が響く。
 何を言う間も無く、白魚のような手が私の頬を打った。別段驚きもしなかったのはある程度の予想がついていたからだ。時臣が葵さんに何を言ったのか、葵さんがどう感じたのか。
 怒り任せに吐き散らかされた言葉は雑音で、何一つとして脳が処理しようとしない。胸倉を掴む手は冷たく、しかし頬に幾粒か跳ねる涙は異様に熱いからそればかりが異常に強く印象を残した。その熱が時臣へと募る想いを具現したかのようで眩暈がする。私には宿らない嫉妬の熱情。
 騒がしさを聞き付けて数人の使用人が駆けてきた。驚愕というよりも一種のショックを覚えた表情をハッとして引き締め、乱暴を承知で葵さんを引き剥がす。一気に吸い込む空気の量が増して喉の奥で絡まり、咳き込むとだらし無く開いた口から唾液が絨毯を汚した。苦しい。
 それでも尚、葵さんは正気を失ったように喚いていた。彼女は決して私を許さない。愛しい人を奪う者。たとえそれが当人の意志でなくとも、そんなことは関係ないのだ。私は彼女を不幸にさえする。
 雁夜くんとの約束は、守れそうもない。





*





 もしも、私と時臣の間に家に縛られた役目なんて無ければ。私が七瀬の人間で無ければ。考えても仕方のない反実仮想を繰り返す。雁夜くんに会わなければ生まれなかったはずの感情。幸福でありながら私はとても息苦しい。人を好きになるのは、つらい。
 雁夜くんは私とは比べようもない程にこんな思いと背中合わせに生きてきたのだ。葵さんに淡い恋心を抱きつつもその直情をひた隠しにして、ただ彼女の幸せを願って。その隣に立つのが自分ではなくても、微笑が絶えなければ良い。今になって私にもその心理が理解できる。私は彼の望みそのものを叶えてはあげられないけど、別の形なら与えられる。
「律様、間桐雁夜様がお見えですが…」
 この間の一件で訪れる客人に敏感になっている使用人が、ノックをした扉を僅かに開いて告げる。アポはない。今までもそうだった。けれど。
「会わないわ、帰ってもらって」
 雁夜くんには二度と会うことはないだろう。私は遠坂と取り決めた婚姻に従い時臣と一生を添い遂げる。私がその役目を放棄しない限り、時臣は葵さんに何かすることは無いはずだ。態度を改めると言った、自分の言葉を反故するような男じゃない。
 雁夜くんには、葵さんと幸せになってもらう。それが私なりの、彼への想いだ。









ずるいったらないね
そっと蓋をして隠す
















そうやって逃げていることに気付かない
title by へそ様
140131