「最近は随分と、雁夜くんと仲が良いようだね」
 時臣が私の許を一人で訪れるのは本当に久し振りのことだった。昨日も雁夜くんが座っていた椅子に腰を降ろして、しかし私の淹れた紅茶を飲む様は彼とはまったく違う。未だに慣れないのか陶器のぶつかる音を立ててしまう雁夜くんに対して、時臣の動きは洗練されたものだ。優雅、の一言に尽きる。
 時臣の言葉に私は眉を顰めた。単なる感想を述べただけにしては端々に棘を感じたからだ。時臣は滅多に嫌味なんて言わないから尚更にそう思ったのかもしれない。私を、或いは雁夜くんを責めているのだろうか。しかし、どうして。
「友人と仲良くすることに不満が?」
 滑らかな時臣の動きが止まる。さして減っていない紅茶がカップの中を揺れるのが見えた。アップルティーの香りが漂う空気を深く吸い込み、時臣がソーサーにカップを置いて私を見据えた。
「それが本当に友人としてであれば問題は無いよ」
「……どういう意味、」
「解らない振りは辞めなさい。私にそんなものが通じると思うのかい?」
 口許に薄い笑みを乗せた時臣が、その表情と違わぬ声で告げる。私を嘲笑うような、しかしほんの少しの苛立ちを含んでいた。
「軽はずみなことをすれば逢坂と七瀬の友好関係が破綻するかもしれない。想像がつかない程、君は愚かでは無かったと思うのだがね」
 私の中で確かな怒りが燻った。私のしていることを責めたてるなら、時臣のしていることはどうなんだ。
 時臣の葵さんに対するそれに嫉妬したわけじゃない。それを理由に私は雁夜くんと時間を共有してきたわけじゃない。彼の与えてくれる言葉や見せてくれる世界が心地良かっただけだ。私が勝手にそう感じるだけで、雁夜くんが望むのはあくまで葵さんの幸せであって、私の許を訪れるのはその協力をして欲しかったからに過ぎない。私たちの間に一線を画すような何かは、存在しない。それを持つのは時臣の方じゃないか。葵さんが時臣のことをどう思っているのかは一目瞭然で、時臣は気付いていながら彼女と共に居るのだ。誰だって思うに決まってる。「時臣も葵さんを好きなんだ」と。
 それなのに、私だけが罪だと言うのか。
「時臣は、葵さんを好きなんでしょう?それなら、親同士の口約束が覆っても困ることは無いじゃない」
 ぽつりと口から零れた言葉は本心だった。
 元々、両家の仲を保つ為にとはいえ……はっきりと言ってしまえば力関係は遠坂の方が上なのだ。遠坂の決定に七瀬は反論を唱えることは出来ないだろう。私と時臣に関して言えば、時臣が決定権を持っているのだ。その時臣が葵さんを好きなら。葵さんとの将来を望むなら……私たちは本当にただの幼馴染になる。
 自然と染み一つないテーブルクロスに落としていた視線を上げて、私は息を飲んだ。凄絶なまでに冷ややかな笑みで、時臣が私を見ている。10年以上の時を過ごしてきたのに、初めて目にする表情だった。
「私たちの婚約が破棄されれば、雁夜くんと結ばれるとでも?」
 予想もしない指摘を受けてカッと顔に熱が集まるのを感じた。違う、と返した声は情けない程にか細い。
「律、勘違いしてはいけないよ。私は婚約を破棄するつもりは無い」
 時臣を好きかと問われれば、返答に困る。考えたことが無い。一人の人間として、魔術師として、尊敬はしているし好いと思うところもある。けれどそれが恋愛感情かといえばそうとは思えない。それに、そんな疑問はまるで意味を成さない。私の未来に、私自身の意志は必要無い。
 だから、時臣の発言に落胆するなんてことは無かった。別に何が何でも婚約を取り消したいと思っているわけではない。ただ、すんなりと流れて行かない感情はやはり葵さんのことだ。
「じゃあ、葵さんは…?」
 解りやすいまでの愛情を向けられ、それを受け入れている時臣は彼女をどうするつもりなのか。
 時臣の唇が、くっと笑みを深めた。
「あの禅城の血を持つ女性だ、器には相応しいだろう」
 何でもない様子で紡がれた言葉に、体が一気に冷えていくのがわかった。脳が警鐘を鳴らして、ずきずきと痛む。信じられない、というよりは信じたくなかった。根っからの魔術師、だからって、そんな。
「子どもだけを、産ませると言うの……?」
「勿論、そんな酷いことはしないよ。最低限の保護はしよう。少々気品には欠ける言い方かもしれないが、愛人という立場になるのだろうね」
 それでも彼女は喜ぶだろう。そう言葉を切ってもう冷めてしまった紅茶を飲む姿に言葉が出ない。本当に葵さんが喜ぶと思っているのか、それを葵さんが幸せと感じるなんて、どうして考えることが出来るのか。
 雁夜くんが、葵さんが幸せならそれで良い、と告げて見せた笑顔が脳裏に閃く。
「最低、」
 口を突いて出た一言に、時臣が顔を上げた。歌うように滑らかな声で「泣いているのかい?」と訊かれて、自分の頬を涙が伝うのに気付いた。拭うことも出来ない。膝の上で握った拳が、力の余りに白くなっていた。
 小さな音を立てて椅子から立ち上がり、時臣は身動きもしない私の隣に歩み寄った。身を屈めるのが気配でわかる。
「君の好きな雁夜くんが誰を好きなのか……聡明な君ならばわかるはずだ。雁夜くんにとっての幸せが彼女と結ばれることで、そうなれば私も葵さんに対しての態度を変えなければならないね」
 その為に、君がすべき身の振り方があるだろう?
 時臣は小さく囁いて踵を返した。腹立たしいまでに無駄が無く綺麗な足取りで私の部屋を出て行く。ぱたん、と閉じた扉の音に、私はやっと拳を解いた。

 掌に深くついた爪痕が、夢ならば良いのに、と想う私の愚かな希望を容易く打ち砕くように熱を持って痛みを放っていた。










傍らで息をする絶望

大きな口を開けて、待っている


















逃げる術なんて何処にも無い
13/06/23