好きな人がいるのだと彼の口から聞いたことがある。決して血色が良いとは言い難い疲れた表情が淡く綻ぶものだから、私は自分の小さな恋がひっそりと終わりを迎えたのだと悟った。恋愛が勝ち負けだとは思わないけれどきっと彼の想いは永遠に変わることはなく、その期間は私の不毛な片想いが、私が終止符を打たなければ同様に続くものだと暗に示唆していた。
 よくよく考えてみれば、彼よりも10は年が下で何の取り柄も持たない私が彼を振り向かせる可能性など無いに等しかった。何時に無く饒舌な彼が言うには、その想い人は別の人と結婚して……その円満な夫婦関係を裏付けるように子どもが2人、いるらしい。私と同じく彼の想いもまた、叶いそうにないのは目に見えていた。相手の男性には嫉妬が高まり捻れて一種の憎しみと化した感情を抱いているだが、その子ども達も慈しみ愛しいと感じている辺りは女性への一心で深い愛情を垣間見る。何をどうしたら私に勝ち目があるというのだろう。本当に我ながら、虚しい恋をしてしまったものだ。
 ルポライターとして生計を立てていた彼はよく出張や取材で冬木を離れるから、会う機会はあまり無かった。帰ってきても一番に会いに行くのは意中の相手で、その子ども達で……それでも、私にも会いに来てくれた。お土産に、「なまえちゃんには、ちょっと幼すぎたかな?」と苦笑を浮かべてブレスレットをくれた。きっと子ども達とお揃いなのだろう。でもそんなことは関係無くて、嬉しいと本音を零せば温かな手が私の頭をそっと撫でた。
 見上げた彼の表情には、何故か寂寥が滲んでいた。苛立ち、困惑、疑念…挙げれば切りのない数多の感情が混ざり合って、私には“悲しそう”に映った。
 「少しの間、なまえちゃんにも会えなくなるね」と、彼が零す。彼がそんなことを口にするのは初めてだった。一週間?一ヶ月?半年?彼は全てに首を振り、一年かなあ、と苦笑い混じりに呟いた。
「一年経ったら、きっと会いに来るよ。その時はまた、俺と話してくれる?」
 私は一つ頷いた。やっといつもの柔らかな笑みを浮かべた彼は私に頷き返して、背を向けた。流浪する行き先を定めないふらりとした足取りは無く、どこか覚悟を決めて向かうべきを知ったように、その姿が振り返ることは固より立ち止まることは終に無かった。





*




 それから。
 雁夜さんを見つけたのは学校の帰りにだった。一年より少しの時間が流れて、それでもいつかは会えるだろうと思っていたけれど……まさか、路地裏のゴミ捨て場にいるとは。驚いたのはそれだけでは無く、風貌が変わっていた。黒髪は年老いたように白くなり、顔の半分が歪んでいる。まるで…何かが雁夜さんの中にいるかの様に時々ではあるが痙攣を起こす。思わず息を飲んだ私に、雁夜さんは昔と変わらない笑みを浮かべた。たとえ歪んでいても、彼だと解る柔らかな笑みだ。
「よく俺だって解ったね」
「雁夜さん、これは……一体、どうしたんですか…」
 頬に伸ばした手は振り払われるかと思ったけれど、雁夜さんはゆったりと瞼を伏せて受け入れてくれた。掌に伝わる温度は酷く冷たい。生きているのかと疑ってしまう程に。
「なまえちゃん、俺ね、救えたんだよ」
「え?」
「桜ちゃんを、救えたんだ…」
 私の手に、やはり冷たい雁夜さんの手が重なる。私の手を、掴んでいるつもりなのだろうか。握られた感覚すら無いのは決して私の勘違いでは無くて、彼の手に力がまったく入っていないからだろう。
 雁夜さんは焦点の定まらない目を私に向けた。桜ちゃん、というのは雁夜さんが気にかけている子どもの一人なのだろうか。救えた、ということはその子は何らかの危機的状況にあったのか。私は知らないのだ。彼のこと、彼を取り巻くもののこと。
「行かないと、桜ちゃんを間桐から連れ出して…葵さんの、所に…」
 突き動かされるように、雁夜さんが立ち上がった。無機質に感じる抜け殻の体に脅迫観念のような意思だけを持って、半身を引きずりながら歩き出す。
私は動けなかった。葵さん、と私の知らぬ人を、愛しげに呼ぶ声が私に呪いをかけてしまったのだろうか。最後の最後まで、想い人の為に生きる人。
 心の何処かで、これが永遠の別れなんだと感じた。それでも、一歩ずつ先へと向かう雁夜さんに駆け寄ることも、声を掛けて止めることも出来ない。
 結局私という存在は、雁夜さんの人生の中でその程度だったということだ。愛しい人達の為に一心に駆けていくその旅に、私は必要不可欠なものでは無いから。その灯火が消える時、傍にいるべきは私では無くて。
 
「…さようなら、雁夜さん」
 せめてその旅の終わりが、彼の望む形でありますように。










さよならメテオ

私の愛しい人




















愛しいと書いて哀しいと読む
meteor:流星

13/02/22