(ああ、もうどうにかなっちゃいそう。)




名前は、目の前で小難しそうな本を読む男を見やる。男にとっては難しくもなんともないのだろうが、名前にはそれが困難な本に思えた。読解に酷く時間を要し、ドラマを観る時間でさえ省かないとむりなぐらいの厚さに感じた。そんな本を見ていて楽しいのか、と問いをかけるが、返事はなかったので、きっとその本にのめりこんでいるのだろう。

名前は溜め息をついて、ゴムの銃を作った。そのまま狙いを定めて彼に当てようとすると、何するつもりだ、と少しドスの効いた低い声で睨まれた。そんな仕草でさえも愛しく感じ、名前は、心の中でわらう。


本を持つ長く細い指が、ひどく情緒的に見えた。その指すべて、名前の所有しているものである。と、いうより、彼の存在すべてが名前の所有しているものだった。或いは、名前が瀬人の所有しているものだったかもしれなかった。



「暇なんだけど瀬人くん」
「ああ」
「かまってよー」
「ああ」
「ちょっと聞いてるー?」
「ああ」
「空青いねー」
「ああ」
「わたしのこと好き?」
「ああ」
「わたし、瀬人、だーいすきだよ」


その情緒的な雰囲気をかもしだしてる指に、名前は、自分の指をからめて、本を乱暴に瀬人から奪った。どうせまた、生物学だとか、政治だかの本なのだろう。そんなありきたりな名前の本、瀬人が読むはずがないのはわかっていたが。名前はおもしろくなさそうに唇をつきだした。



「わたしのこと、好きでしょ?」


そう問い掛けた名前の顔は、娼婦みたいな勝ち気な顔で、けれどむじゃきな少女のような、いたずら好きの少年のような表情もうかがえられ、瀬人がうろたえていることが見て取れた。名前がふふっと笑ったら、瀬人は口角を上げて意地悪い笑みをつくった。


「愛してる」



名前の顔がこわ張ったその瞬間、世界が反転して、名前の目の前には瀬人の顔。横にはさっき、名前が放った本が存在していた。

(『この書物を読んだ者に永遠の呪いあれ』?何これ、こんなのわたしの部屋においてないわよ。)



呪縛
恋人
欲望




(ああ、もうどうにでもなれ。)
100514 さり夫
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