バクラがわたしの前に現れるときは、かならず右耳に機械音が入ったあと、耳鳴りがする。ピー、ピー、ピー、そんなサウンドが頭に反響したのち、「よォ」と何にもなかったかのように、さも当然のように、わたしの前に姿を現すのだった。闇はなんだか苦い味がした。

移動遊園地が閉園する時間帯は、子どももカップルも居らず、閑散としている。メリーゴーラウンドの、もう機材が古いのか、かすかにノイズが入った軽快な音楽と、ぴかぴかと光る電球が、幻想的にも見えるし、また不気味にも思えた。まだ夕方を回った早い時間にも関わらず、どことなくそこだけ、この地日本とは切り取った世界に感じた。名前は、うつろな瞳で、その様子をすこし離れたところで観察している。歩道橋につづく、ウッドテイストなフロアーの端で、柵に肘をついていた。同じく柵に添えた右手の先が、とんとんとん、と等間隔に動いている。

「寒いね、もう3月なのに」
「おまえがひ弱なんだよ」
「そうかも」
「馬鹿みてぇな面しやがって」

切れかかった街灯が、チカチカと不気味に点っていた。もうひとつ隣の街灯には、蛾や蚊などの虫が飛び交っていた。おびただしい数の羽がそこでバタバタとしていた。
昼間ではあんなに喜びのエコーが聞こえる、幸せや楽しみ、わくわくする気持ちに満ち満ちた場所であるのに、一皮剥けばこの有り様なのである。見た目に関しては、ある程度いくらでも誤魔化すことが可能なのだ。人と歓声の衣装がなくなった遊園地の悲しいこと虚しいこと、しかし名前は依然目をそらすことなく、じいっと観察していた。もしくは、一点を見つめていた。
こんなに思い出が詰まったような場所でも、結局はただの張りぼてにすぎない。そこに中身はないのだ。人々は遊園地そのものを思い出として記憶にとどめているのではなく、そこで誰といっしょにいたか、なにを楽しんだのかをメモリに書き込むのだ。それを冷静に考えたら、世界にあるほとんどのものはくだらない、つまらないものとしか、感じられないのだ。


「いつか、わたしは地に帰る」
「そうか」
「だからあなたに、…バクラに、二度と会えない」
「ああ」
「わたしの体は、みんなを生かしつづけるけど、あなたは違う」
「そうだ」
「あなたは最期まで悪だった」
「当たり前だろう。俺はずっとこれからも悪でしかない、だがおまえは違う、絶対に俺と交わることはできない」




「さよならだ、名前」




ガガガガ ガガ、ピー ピー、ガガ… ガ  ガ ガ



右耳に名前の脳天を揺さぶるような爆音が流れたかと思えば、もうバクラの声はそれに掻き消され、確かに感じられていたぬくもりや吐息までもが失われていくようだった。「待って、待って」と構わず叫んでいた名前の耳は既に痛いほどの騒音で、嗚咽や鼻汁などで明瞭な発音にならないくらいになれば、だんだんとノイズはなくなっていった。そう、その瞬間、彼女は気づいてしまったのである。そして女は、ゆっくり、ゆっくりと深呼吸をした。消えゆくバクラの姿を目に焼き付けるかのように、名前はまばたきをしなかった。



「おやすみ、バクラ」




その言葉で、ふたたび時が動き出した。


バクラが居なくとも世界は変わらずまわっていく。また明日になれば、子どもの声が溢れかえり、夕方には日が沈み、そしてまた電柱には蛾がたかる。世界は同じように、しかしわずかに胎動する。そういうふうにできている、非情にもしたたかで、しかし安らぎを併せ持つものなのである。善も悪も、対峙しているようで、実はそうかわらないのものなのである。
だから、夜の闇に融和した彼の馨りを感じながら、今日も名前は真夜中の道を歩みゆく。まるで、自分も闇に溶けていくように。
20100416
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