※現代パロディです




やっと勤務時間とともに仕事が終わり、今日は残業もなかったのでそのまま帰ることにした。何度か同僚や先輩の女性に、食事に行かない?と誘われたが、丁重に断っておいた。今日の仕事はだいぶ量も多かったので(後輩が見事に失敗をしてくれたのでそのツケが俺に回ってきたのだ)、日付が変わる前に終わるかどうかもわからなかったからだ。いや、比較的楽な仕事であっても、どんな美人に誘われたとしても、最近の俺ならそれを断っていただろう。自分には、待っているひとがいる。
そういえば冷蔵庫には食材がだいぶ少なくなってきたような気がしたな。車に乗りながらそんなことをふと思い、左折して、近所のスーパーに向かった。夏にはこのひやりとした空気がここちよい。今日はもう疲れて、夕食を作るのも面倒だったので、惣菜など出来合いのもので済ませることにした。ちゃっちゃとスーパーから出れば、夏特有の生ぬるい湿り気を帯びた空気が流れ、まるで澱んでいるようにも思える。
9時を回ったころ、俺は自宅マンションに到着した。鞄とスーパーの袋を持って、7階までエレベーターで向かう。あたりはすっかりと暗くなって、夜空にぽつりぽつりと一等星が浮かんでいるのがわかった。カチャ、と鍵を開けたあと、電気のついていない薄暗い部屋に足を踏み入れる。リビングは、窓から外のわずかな光を受けて、不気味に明るくなっている。すぐに電気をつけると、俺はネクタイを緩め、近くのソファに腰掛けた。
名前はベッドの下の狭いスペースから、擬音であらわせばぬるりといったような感じで、這いつくばりながら出てきた(ちなみにこいつは狭いところが好きだ。とくに、さっきのベッドの下、クローゼットの服と服の間にあるスペース、冷蔵庫、など)。
一歩も外に出たことがないようなおそろしく白い肌、しなやかな緑の黒髪、東洋人特有の顔。彼女は俺の姿を確認すると、「シリウス」と口を開いた。視線をやり、「ただいま」と微笑みかければ、彼女も同じように「おかえり、待ってた」と返してくれた。そんな他愛もない事務的とも言えるような会話が、綺麗な女性との食事よりもたしかに俺を満足させていることは明白だった。
べつに、最初から名前と知り合いというわけではなかった。ではいつからこいつはこの家に住み着いているのか、どうしてこの部屋に馴染んでいるのか、はたからみたら俺が彼女を軟禁しているように思われても仕方ない状況である。陰謀か、と頭をかすめたが、俺のような人間に、そんな映画のような緻密な計算がされた計画など実行されるだろうか。あまりにもばからしいその考えはすぐに捨てた。名前の居場所はいまはここだからまあいいか、と、とりあえず流れで一緒に生活している。ずっと一緒に暮らしているような気もするし、まだ3ヶ月もたっていないような気がする。不思議とこいつにおかえりと言われることで、俺の居場所も決まるような気がするのだ。

「名前、飯買ってきたから、食べよう」
「惣菜?」
「ああ、悪いけど」
「ううん」

斜めに分けた黒髪からのぞく左目は、光の加減できらりと光っているようだ。彼女は笑顔こそ浮かべないものの、こちらに近寄ってはくるので、親近感くらいは抱いているのだと思う。そういえば、当初はまだ心を開いていないのかと思案していたのだが、もともとこういう少女が名前なのだと、いつのまにか結論づけた。
テーブルを隔てて向こう、ギシリといったベッドのスプリング音がたった方に目を向ければ、二本の細い脚が白いスリップにも似たワンピースからのぞいている。つやつや、というかしっとりサラサラしてそうな、透明感のある肌は、少なくとも東洋人とは思えない。この蒸し暑い部屋で寝ていたにもかかわらず汗ひとつかいていないことも、長い漆黒の髪が揺れるのも、風でワンピースの裾がひらりと揺れるのも、この状況すべてが名前のその脚、彼女自身をひきたたせるもので、それがまたおれの官能的な感情をあおって来るのは間違いなかった。
そんな邪な感情を彼女に抱いているあいだに、名前は片手で窓をわずかに開けて、そのまままたギシリと鳴らして、カーペットの上に戻り、礼儀正しく正座をした。そのたった数秒のことで、俺は深い深い海のような名前に、沈んでいたのだった。

「なあに」
「いや、なにも」
「ねえ」
「ん」
「わたしってどこから来たのかな」

とうとつな名前のその質問に、俺は思わず咀嚼していたじゃがいもを吹き出しそうになった。そのような話題が彼女からでるのも、そんな展開になるのも、はじめてのことだった。

「たぶん」
「うん」
「記憶がない」
「うん」
「もしかしたら、深窓のお嬢様だったのかも」
「そうかな」
「推測だけど」
「じゃあ俺には義務がある」
「何の?」
「お前を見つけ出す」
「いやだ」
「お前のなまえも」
「いやだ」
「なぜ?知りたくないのか?」
「今は帰る場所がないけど、思い出したら家ができてしまう」
「そうだな」
「もうここは必要なくなる」

俺はまた新しい芋を口に運び、パサパサした食感に苛まれながら、だまって名前の瞳を見つめた。
彼女が居なくなったら寂しいか寂しくないといえば、答えはイエスだ。しかしいつか彼女は、もといた場所を見つけ、帰らなければならない。少なくともここよりは居心地のよい、あたたかみのある、家なのだろう。その構図が容易に想像できた。
そして彼女は俺が問いかけている間、終始うつむきっぱなしで、黙々とたいしてうまくもない惣菜を味わっていた。というより、胃の中におさめていた。

「たぶん、お前がぜんぶ思い出したら」
「うん」
「お前は日溜まりみたいな故郷に帰るんだ」
「そんなにほのぼのとした場所かな」
「わからないけど。しかしきっと、名前は出て行くだろ」
「それは、シリウスの考え、だし」

名前はめずらしくのたまっているようだった。戸惑いを隠せないような、不安に満ちたその感情を外にあらわすなんて、そんな名前を俺は見たことなかった。彼女は最近、変わったことが多い。いや、常人への道に、合流してきたと言ったほうが、ただしい。

「わたしは、ここにいたい」
「うん」
「シリウスが居ない時間はつまんないし、不自由だし、不満もあるけど。だったら、なんでこんなに、さみしいの。虚しいの」

俺は察知した。名前は奪還したのだ、自分のことすべて。双眸から涙があふれる。彼女は初めて俺と目をあわせて、静かに泣いていた。ひとみからはその言葉の真意がうまく汲み取れなかったが、だいたいそういうことなのだと思う。決定打だった。


名前は打算的な行為を一切しなかった。俺に必要以上に干渉することもなかったし、自分のパーソナル・エリアに入らせることも、彼女はけして許していなかった。

「シリウス」
「なんだよ」
「一緒に寝よう」

だからきっとこのセリフは名前がごく人間らしくなったことのまぎれもない証拠であって、おれはそんな彼女がたまらなく愛おしくなり、「もちろん」とひとことだけ返した。名前はさも嬉しそうに、ブランケットをもって俺のもとへやってきた。そこで俺は気づいたらいけなかった。ここまで自分を駆り立たせる衝動的な感情は、まちがいなく愛だ。愛なのだ。
いつかたぶんおれがこの部屋に帰ってきたら、服を着た砂がベッドの上に横たわってるんだろう。彼女本来の姿に還るのはきっと突然で、面影もないさらさらとしたそれが、風に流され窓の外へと吹き飛ばされるのだろう。まるでさよならをつげるように。そしてもうお帰りなさいを言ってくれる彼女はどこにも存在しなくなり、いつかはその思い出すら風化する。そのときおれは笑うのだ。時が来たのか、と。



素晴らしい企画に参加させていただきありがとうございました!圧倒的感謝!
 さり夫
20091228
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -