遥かかなたに見える彼の表情は、ここでイメージできるほどに歪んでいる。苦しみ、畏れ、珍しく動揺していることがわかった。どうして彼がここに居るのかはわからないが、ただこの状況でその彼がここに存在しているだけで、私には価値があった。十分なことだった。
家でぼうっと過ごす毎日に飽きていた。手足をその辺りへ無造作に放り投げ、髪が振り乱れているのにも関わらず、冷たいフローリングに寝そべる。開けっ放しの窓からびゅうびゅうと風が入り込み、閉めているカーテンが、そのせいでばさばさと鳴る。そのあたりにあった雑誌のページが全部めくれて、紙が飛んでいく音がした。それはただの雑音でしかなかったが、一人でいる私にとって、その音は随分と助けになっていた。唯一、この地球で生きているという心地がした。汚い人々、まちで過ごす毎日の中で、小鳥のさえずりと風の吹く音こそ、それだけが私の救いだった。そして目を瞑れば思い出すのは彼で、その眼光たるや、なんと美しいことだろう。世界が孵れば、彼のような人の美しさは一層引き立つのだろう。このなにもかわらない汚い世界という名の卵が孵れば、うつくしい世になるのだろうか。わたしにはわからない。
誰もこの世の真実なんて把握していないのだ。深海に潜む生物のように盲目で、ただ感覚も効かずに手探りで生きるわたしたちにできることはない。所詮は水槽に入って泳ぐ熱帯魚である。
それが青く濁る汚さとでもいうように、わたしの前で財前が眉をひそめるものだから、にこりと笑ってやった。

「どうして来たの?彼女は?」
「別れましたよ、とっくに。」

財前が怒っているときはすぐにわかる。しかし今日は、そのいつも生意気な眼光は弱々しい。錯覚なのかどうかは知らない、ただ雰囲気がそれを物語るようだった。言葉を探しているのか、その双眸が泳ぐ。まったくこんなところまで来て、汚い世界に足を踏み入れようとしといるのだ。彼はそれから何をするわけでもなく、じっとわたしのことを見つめていた。どうやら、話したいことはないらしい。一人ぼっちのわたしを貶しにきたのだろうか、ほんとうにひとりのわたしのことを馬鹿にしにきたのだろうか。その妙な距離が縮まることはなく、財前の視線もわたしに向けられたままである。


「…馬鹿にしに来たん?」
「…んなわけあらへんやろ」
「じゃあ何や?」
「…」
「哀れやろ」

彼は何も言わず、ただそこでじっとしている。問いをかけるということは即ちそこには疑いの念も込められている。彼のことを信用していれば、こんなくだらない問いも掛けずにいられるのだろうか。まるで芸術家が芸術とは何かを考えないように。ひとが、恋愛とはなにかを考えないように。自分の意志を確立するために、自分のモットーとしていることは問わないのが心理だ。それがどんなに謎めいたものだとしても、感覚的なものだとしたら疑う余地すらない。なぜなら、問いを掛けるとしたら、自分のことを疑うということになるからだ。結局自分第一に考えてしまう人という生き物は弱い。ちっぽけな存在だ。白すぎる欲望から溢れ出すそれは、やはり欲でしかない。それが世の秩序でもあるのだ。
世界とはそういう、欲とか欺瞞とか、それとほんの少しの希望と幸でできている。だから、世の中は絵の具をぶちまけたような、濁った色をしている。
そんな街が嫌いなわけではなかった。同じく濁った感情しか持ち合わせていない自分にとって、確かにこの世界は馴染むことができるところだった。自分の色を確認できるという意味では、まっさらな世界には居たくない。
しかし財前はどこまでも白く、手招きしてその指先をなぞれば、頬に唇を寄せてくる。愛らしい男だった。そこに走っている血液はトマトみたいに赤く鮮やかなのだ。赤くてやわらかい人、財前の整っている顔はわたしにとってもったいないものなのである。黒色のそれは、若干伏せられた瞼に隠れている。いくつものピアス、微睡んだような表情。無防備だ。

「名字さん、」
「なん?」
「好きです」

がくん、重い頭はほったらかしにわたしの背を起こそうとする財前。空気中にもたれるわたしの頭蓋骨を支えず、キスをひとつおとした。財前が必死だったのか、単にサディストなのかはわからないが、いつになく涼しい表情な財前を見ていたら、そんなことは問題じゃなかった。プレイボーイな彼は、実際は純情少年もしくは、悪魔的思考の持ち主だったのである。

こわれて。散々身体をなぶられ(しかしその手つきは確かに優しかった)、疲労はピークにきていた。しばし微睡みの時間になったころ、財前と眼が合った。限りなく優しい、紳士な顔つきだった。この手の表情は苦手だった。なにも知らないような顔をして、その透明な瞳で人の心の底を見透かすからだ。屍は夢を見る。そんな彼みたいな人間がうらやましいから、屁理屈のような言葉を並べるのだ。哲学的に見えても、やはりそれは単なる理由の後付けと言い訳にすぎない。朝よがり、その無防備な寝顔を見ているだけで、いつもとは気分が違った。生々しい行為のあと、こんな爽やかな朝を迎えられるのはなかったことだ。退廃感すらもぬぐい去る輝かしいくらいの彼の存在が、逆に畏怖を感じていたのかも、しれない。まるですがりつく惜別とでも言うように、財前の頬にキスを落とし、再び夢の中へ落ちる。
世界が、ふやけてさらさらと流れていくようだった。多分、私は、光が好きだった。



弔いごっこ
091006 再up
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