先輩って旅に出るんでしょ。行っちゃうんでしょ、わたしのこと、おいていくんでしょ。
稚拙な言葉を吐くと、手塚は、視線をそらして腕を組んだ。その顔は思ったより沈んでいたので、ちょっと悪いことをしたかな、と女は悔やむ。当の彼は溜め息にも似た息を吐いて、考えるような素振りをみせた。 結局、手塚という人物は、ずるい。そういうふうに、悲しそうな、悲嘆に暮れた振りを見せれば、名前が涙を流して引き止める、そんなドラマチックな展開を期待しているのだろうか。この男は、そんなにロマンチックな人物であっただろうか? 手塚に限って、そんな浅はかな考えをしないのは解っていた。全国の強豪をのしてきた彼である、無論メンタル面も常人のそれとは段違いだろう。立場上、さまざまな人間とも接し、また15歳にして、さまざまな世界を目にしてきたはずだ。 だが、名前の表情が少しでも歪むのを見たいと思わないというのは嘘である。手塚は名前のことを、少なくとも大切に扱っていたからだった。以前からの友達、もしくはそれ以上の、けれど恋人というような軽い関係ではない距離が、名前の心を焼くように疼いた。 その気持ちを遮断するように、靡くカーテンが、女と手塚の間を割って入る。微かに浮かび上がる人影が、斜陽のような陰りを魅せた。
「名前、俺は、名前が好きだ」 「知って、る」
そして、涙ぐんでしまう名前なのであった。自分のすべては彼のためにあるような気がしてならないのだ。彼以外そばに居るというのは考えられず、名前は我慢しきれなかった涙をこぼした。鼻の脇をつたって、ぽつりぽつりと、顎までわたってきた水滴が鎖骨と胸に落ちる。映画のように、かわいらしい泣き方はできない。
「どうして置いていくの」
手塚は、悲嘆に暮れた、彼らしくない表情を見せた。 その表情といったらない。涼しい目元が、悲しみによって微量に歪むのが認識できる。その表情があまりにも、乏しいものだったので、名前は苛立ちを感じて、迸る思いを必死で抑えた。 今すぐにでも手を伸ばし、彼の体温を感じたい。何も言えない、沈黙が二人に流れる、そして、どちらからともなく、目を伏せる。長い睫毛が、瞳を覆う。
手塚は未だに下に俯き、しばし、名前の瞳を見やった。赤く腫れ上がり、睫毛に水滴がたまっている。いますぐにでも抱き締めたかったけれど、名前の目がかたくなにそれを拒んでいたので、彼女に触れることすら侭ならなかった。 これ以上彼女のそばにいても、彼女を悲しくさせるだけである。手塚は気付いていた。だから彼は、笑みを浮かべ、
「愛してる」
一言だけ告げたのだ。自然すぎる、無垢な笑みが、逆に手塚の心を写し出している様で、真っ白すぎて、虚しい。
笑って別れを告げる彼は、どんなに辛かったのだろうか。それとも、自分と別れるのが、もしかしたら、嬉しかったのだろうか。最後、彼に触れなかった自分は、今でも後悔の念を、胸に抱いている。いつか彼は戻ってくる、だからこのカーテンはそのままに、わたしはいつも、窓から空を見上げているのだ。
カーテン
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