ショパンのワルツの調べが室内に響いていた。お昼時をすこし回った微睡むような雰囲気につつまれた彼女の部屋はアップライトのピアノが壁際に据えられていても狭さを感じさせない。格子の窓から入ってくる光が、フローリングに敷かれたラグをつつむ。そのうちラグからあたたかさが広がってくるように柔らかだった。俺は、壁に向かってピアノを弾いている名前さんの細い背中をじいと見つめていた。古ぼけた椅子の背に顎をのっけて、あほみたいにちょっとも動かなかった。白い指先が無機質な鍵盤の上を滑るようにいったりきたりして、なかなかうまいもんだなと思った。音楽のことはからきしだからどのぐらいの腕前であるのかはよくわからないが、なんとなく、ふだんの朗らかな笑顔が印象的な彼女の陰が垣間見えた気がした。たまに長い髪の毛がうっとうしそうにかぶりを振るような動きや、体ごとピアノに預けているような様をじっくりと観察していると、名前さんのコンサートに来ているような感覚を覚えた。そうしているうちに曲は終わりを迎えて、最後の一音を慎重に弾き終えたかと思うと、ペダルを踏んでいたしなやかな脚と、鍵盤の
上に載っていた指たちをゆっくりはなした。手を膝に戻すまで3秒もかかっていなかったのだろうが、俺はそれが戦いの最中のなぐり合ってる瞬間みたいに奇妙な長さを感じた。心地いいとも思わなかったし、気持ち悪い感覚もなかった。おれはピアノを弾く#name_1#さんの姿に目をうばわれていたのだった。


「ピアノ、弾けるんスね」


さんざん聞いたあとでこんなセリフが開口一番にでてくるとは自分でもなかなかに語彙の貧弱な輩だなと思ったが、名前さんはにこりと笑って会話に応じた。

「ショパンよ。聞いたことあるでしょう」
「ええ。この曲はねぇっスけど……好き、なんスか?」
「そうね」
「なんか、短調な曲っすね」
「……私に似合いだものね」

そうやって瞳に翳をおとした名前さんの姿は彫刻みたいな美しさがあった。名前さんがどうしてこのような発言をしたのか、いまいち俺にははかりかねた。冷静に判断を下すのは戦いにおいて最も重要なことだ。それならば日常生活でもそれがいちばんいい方法なのだと思う。生き方なのだと思う。しかしながら、俺にはどうも彼女がどんな気持ちで、前述のような発言をしたのか、その真意を汲み取ることはなかなか難しく感じた。
聞きたいことは山ほどある。なぜいまそんなことを言うのか、俺に聞いてほしいのか、ピアノと何か因果があるのか、どんな過去が、あなたを変えてしまったのか−−
そこまで考えて、頭をふった。好奇心は自分を駄目にすることなんて、自分自身がいちばんわかっていることじゃあないか。

「他にも、弾いてくださいよ。名前さんの好きなやつ」

俺にはもう名前さんについて聞くのが憚られた。何がこわかったかって、この関係がくずれてしまうのが、おれはなかなかいやだった。言わなかったらいいんじゃねえか、気づかないふりをしていたら、このまま付かず離れずでいられるだろう……そんなあまっちょろい考えが俺のなかを支配していた。

「好きな曲、カア」

まの抜けたような声をだして再度ピアノに向かった名前の後ろ姿を、またじいっと見やる。そのうちロマンチックな趣のある、繊細な曲が耳に入ってきた。ピアノの音はどこか冷たく、アルカイックな音の羅列がひびく。壁に掛かった芸術品みたいに、その場でおちついてうごかない。






「仗助……アイツがスタンドを持っているなんて、中々に信じがたいと思わなかったか」
「どういうことすか、それ」
「自分の意志がハッキリしてる風には見えないし、いっちゃあ悪いが平々凡々に生きてきたとしか思えん……」

何だかんだで彼女の過去について触れるのをためらっていたのは、彼女に拒まれたくないという心からであった。くだらない虚栄心といったらそれまでだが、承太郎さんに聞けば、もしかしたらなにか情報が得られるかもしれないと、なかなか自分でも浅はかな考えで、いま彼が滞在しているホテルのスイートに押し掛けている。承太郎さんは思ったよりも嫌そうな顔つきではなかった。なんとなく、女性の話題になったら、面倒だ、とかいって、突っ返されるような気がしていたのだが。
しかし承太郎さんは、彼女の恋愛遍歴に関することではなく、とつぜん俺でも知っているスタンドの話題をしはじめた。俺が聞きたいのは名前さんのスタンドの能力や彼女の性格などではなく、あくまで彼女の影の理由であった。俺は多少いらつきを隠さずに承太郎さんに問うた。

「だから、なんだっていうんですか。スタンドの話が、彼女の過去に、なんの関係があるっていうんスか」
「過去に何か原因があったってことだ。仗助、彼女がスタンドを使い出したのがいつか知っているか?」
「いえ……」
「4年前からだ。あいつは、杜王町にまだ居ない。これは、重要なことだぜ、仗助」

いまいち本筋をつかめていない俺は、承太郎さんの次に告げるセリフを待った。

「スタンド使いは自分や、他の誰かを守りたいという、強い気持ちで発現する。名前もそんな経験をしたことがある可能性が高い、ということだ」

承太郎さんの話は憶測などではなく、いくつかの情報に基づいて考えられた仮定であった。それからは俺も訳を察したので、いつもみたいにくだらない話を承太郎さんにしたり、彼の昔話をきいたり、いっさい名前さんの話題は、互いに出さなかった。



あの日を境として、だんだんと俺は名前さんのもとを訪ねる回数を増やしていった。故意にそうしたわけではない。そうして、玄関先でインターフォンをならす前に室内から漏れ出てくる音楽を聞くと、どこかつめたい名前さんの心が伝わってくる気がして、もしかしたら俺はそんな気分を味わうためにここまでやってきているのかもしれなかった。しばらく聞き入っているといよいよ曲の終わりに差し掛かったのでそろそろチャイムを鳴らそうと思ったら、カラ、と戸が開いた音がして、何事かとみてみれば、窓を開けてぼうとどこかを見つめる名前さんがいた。風が吹くと黒髪がたなびいて、太陽の光が彼女の輪郭を照らし、夢の中みたいにうつくしい画であった。

名前さんはいつだって俺を優しく出迎えてくれる。量販店で買ったのだという2人掛けのソファに座り込みながらコーヒーを飲むのがいつものパターンになっていた。

「そろそろコーヒーメーカーなんて買おうかと思ってて」
「本格的っすね、なんか」
「最近、よく仗助くんも来てくれるじゃない?だから、コーヒー飲む機会、増えたし」
「いつも突然来ちゃって、スイマセン」
「ううん、むしろ、仗助くんがいつも来てくれるの、楽しみにしてるの」
「ホントっすかァ、それ〜」

ええ、と太陽みたいな表情でうなずいてくれる名前さんを見ていたら、ああ、おれはこの一瞬の笑顔のためにここに通っているんだと、そして、この笑顔を近くでみてみたいと、そんな欲求が自分の中にあることを気づいた。


「名前さんは、杜王でスタンド使いになったわけじゃあないんですよね」
「ええ」
「アメリカに、居たんでしたっけ」
「そうよ。そのときも、よく、コーヒー飲んでたなあ……懐かしいわ」

名前さんにこの話をしたのははじめてだった。名前さんも思い出さないようにしているのかたんにタイミングがなかっただけか、郷愁に思いを馳せるように遠い目をしていた。
名前さんはそんなとききっと俺のことなんて目にすら入っていなくて、まるで口の閉じた二枚貝みたいにかたく心を読み取らせないようにしている。そんなようすを見せられたら俺なんて子供みたいな、実際、未成年の若造が入り込む隙間など微塵だってない。聞いたのは俺自身の方だったのに、やはりといったところか、名前さんとの間には高い高い壁があった。それだけのかけがえのないものを失ったに違いない。優しくて聡明なこの人のそばにはその何かに似たようなものがごろごろあって、しかしどんなものでもきっと代わりにはなることができなかったのだろう。

「俺は、ずっと杜王で、名前さんちにコーヒー飲みに来るんで、絶対用意しておいてほしいっす」
「いつも用意してるじゃない、へんなの」
「俺はそうそう遠くになんて行きません。だから、何があっても、お茶しに来ますから」
「……何があってもって、なに?絶対なんてないのよ、特にスタンド絡みの問題なんて起こったら」
「俺が絶対この町も名前さんも守るっす。もちろん無傷で帰ってきますから」

「どうして、そんなことを、いうの?」


名前さんの双眸からはらりと涙がひかって、少しだけ開いた窓から、春の風が吹いてきた。ピアノの譜面台に置きっぱなしにされた楽譜のページがペラペラめくれる音がして、静寂の中にやけに耳につく。
風に混じってやや潮の香りがうっすらした、ような気がした。まるで海のにおいが運び込まれたようで、名前さんの長くてつややかな黒髪がなびくと、俺は思わず手を伸ばしたいような衝動にかられた。夢で見たように射干玉にまかれてそのまま眠りについてみたい。彼女の一挙一動におれは心を奪われていた。髪をかきあげるしぐさも、左目の一重まぶたも、鎖骨のうえにあるほくろも、おれは特徴を全部いえるくらいに覚えていて、彼女のことをもっと知りたいと感じていた。泣き崩れてしまいそうに、壊れてしまいそうに華奢なからだは彼女の過去を背負うにはあまりにも小さすぎる。飽きずに考えられるくらいに愛しくて、触れたくて、たまらない。しかしさわってしまったら今にもぱちんと弾けてしまいそうなくらい脆いのは彼女自身だけでなく彼女と俺の関係だ。そうしていつまでも臆病な俺は、しずかにハンカチタオルを差し出して、反応を待った。震える指先がハンカチごとおれの手を握って、その体温がつたわってくる。


「名前さん、なかないで」
「ごめん、仗助くん、」
「おれ、名前さんのこと守りたいんす」
「うん」
「だから、名前さんは、戦わなくても、いいから……ここで、ピアノをひいてほしいから」
「うん」
「名前さんの傍に居ちゃ、だめっすか?」


そのまま手のひらを重ねて問うた。名前さんはかぶりを振って、視線をあげた。


「仗助くんに、治してほしい……」



なにが、とは、もう聞かなかった。そのままおれは手をひいて、テーブル越しに夢にまで見た黒髪に顔を埋めた。カモミールが香る名前さんはじっとうごかず、そのままはらはらと涙をながしているのがわかった。初めて無機質な名前さんの哀しみに色が灯ったように見えたので、このまま俺たちがいっしょにいればきっと名前さんのわだかまりも溶けてなくなっていってくれるんじゃないだろうかと思う。タオルでいとしい彼女の濡れた頬を拭ってやり、そのまま輪郭をなぞりあげるようにして、顔を覗いた。涙でしめった睫毛が女性らしく、どんな表情の名前さんも変わらずうつくしいと感じた。
俺はずっとこの人のそばにいる。たとえどんなに厄介なスタンド使いが現れても、彼女を守り抜いて、俺も死なない。いまここで俺の将来が決定した。遠く離れては打ち寄せる波の音がだんだん遠くなっていくのがわかった。このいとしさが、名前さんに伝わったからだと、真に思った。

20130531 さりお
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