名前はかぐわしい香りがした。花のような匂いだった。この、空々漠々とした虚圏にあるような、まるで砂でできているかのような枯燥した花じゃない。人間界に咲む、生に満ちあふれているもの。明色。光明。みずみずしいもの。日の光が似合うもの。どんよりとした空気がそこかしこに流れ、古木寒厳とした此処では、もっとも場違いな、馨しい香り。それが名前の発すそれであり、また彼女の性格や生来の性分に相違なかった。
また、名前を知ってからというもの、私は、人間はおろか霊体の多くが、いかに本能のまま生きているのか、というが改めてわかった。欲望に忠実に生き、そして生きる意味を求めては、主意もなくくだらぬことで争い、破壊にはしり、そして虚無へとかえるのだ。それは人間にも言えることで、基本的に私たちより非力な彼らは、それゆえに浅はかな策略をめぐらせ、自身の汚い心をひた隠しにして、にやり、と裏では笑うのだ。吐き気の催すような人間の知恵は、ときには武器になる。死神もまた然り。人々のぬかるんだ心に足を踏み入れたら、無傷でいることは不可能に近いだろう。
名前には、基本的に、裏がなかった。というより、そういったごく人間らしい感情が、欠如していたのである。そして純乎していた。わざとらしさより先に違和感を感じるのはそのせいだ。生まれながらにして、無欲なのだ。
私は、その純然とはまた違った意志を生来持っている名前に関心を向けていた。ここ最近、たびまねく、白らかで、なんの混じりけのない心根を、己の思想で夾雑したいと、欲気に満ちた心持ちで思惟していた。



「わたしを買い被ってるよ」
「私の見定めが間違っている、とでもというのかい?」
「わざわざ喧嘩越しにならないで。恋は盲目って言うでしょ?」
「その表現は、違うと思うけどね」
「とにかく、無欲な人なんて居ないよ」
「しかし君は、例えば欲望のために盗みを働かないだろう」
「それは、盗みで得ても嬉しくないからねえ」


うふふ、とわざとらしく笑いながら、目の前の名前は、いきなり視界から消えた。と思えば、脚に重みがかかり、名前が自分の膝の上に横たわっていた。下をのぞけば、こちらの顔を凝視している名前が意外と近くに在ったので、すこしだけため息をついた。


「あーためいきつかれた」
「いきなり何なんだ、君は」
「なんか最近冷たいなあ、惣右介、君さ」
「もともとだよ」
「えー名前ちゃん悲しいよ」
「君はのらりくらりと生きすぎだ」
「のらりくらりなんて生きてないよ、最近は惣右介のことしか考えてないもん」
「それをのらりくらりと言っているんだ」
「あは、じゃ、それでもいいや」
「言ってることが違うぞ」
「いいんだよ、惣右介のことがだいじなんだから」


にこやかな表情と、穏やかな声音のソプラノが心地よい。まるで己の信念の道をゆるやかに泥濘へと変化させていくように、名前と居ると、安心させられる。微妙な距離で佇む名前に、ちょい、とこまねいて、傍にあった椅子に腰かけさせた。深く座る名前の頭を撫でてやると、若干俯きがちになり、口が弧を描いている。長い睫毛が、きれいな肌に影を作った。窪みぎみの瞼が色っぽい。セミロングのサイドの髪を耳にかけたら、はらはらと何本か。束でそれが落ちた。微妙に見える白いうなじも、可愛らしい名前とは少し違う、成人近い少女の、大人な部分をのぞかせる。一意性のない、ひとつとは限らない終いの形とは、意外にもこのようなものだったりする。昼寝の旁でごうごうと燃える木々という演出のエンディングも、見せ方によりては、素晴らしい作品となるみたいに、ごくたまに、その信条がゆらぐような気が、しなくもないのだ。




いつだってなんだって、名前はわたしに一番近いところに位置する人間だったときづかされるを得ない。だから置いてきた、白くて混沌とした世界に、



「人間は偶像崇拝のなかに自分たちこそ神であるという意味を見出だしているんだよ、すべて理解したふりをしてそれこそ全知全能の神みたいな態度をとって、そんな人間たちとあなたは似ているけれど、ひとつだけおおきく違うところは、頂点に君臨するっていう絶対の目標、といいより、信念、というか、生き甲斐、みたいなもの、そしてわざわざ自分から宣言して、今じゃ全世界の異端者、悪の帝王として名を馳せた、いまこの瞬間、歴史を築いている、ちから」





わたしは力がほしかった。世界なんてちっぽけなものじゃない、すべてだ、彼女の思想を含めた、ぜんぶがほしいのだ










わかっていたのだ、わたしだって馬鹿じゃない、名前に会うのがあまりにも遅すぎただけのことだ。もしくは順番が違っていただけだ。最初からこの歯車は狂っていたのだ。
「残念だよ」
20110625
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