反射的に瞑った目。それでも瞼の裏まで眩い閃光は届いて、閉じているはずの目の前が明るくなった。ほんの数秒ずれて地響きを伴うほどの轟音が響く。
「母さん、かみなり近くにおちたのかな…?」
「そうかもね…まだ雨は降っていないけど、どしゃ降りになるかも。」
驚いて咄嗟に母親の服の裾を握りしめたアリババに薄暗い空を見上げながらアニスが宥めるような声で答えた。
雷はちょっと前まで恐怖の対象だったが、今は苦手なだけで母親にしがみついて泣きわめくほどではない。よくそれを幼馴染みのカシムに笑われて相手の余裕にむかつくが、そういえばその幼馴染みはどこにいるのだろうか。つい先日カシムの父親は突然姿を眩ましてしまい、それ以来スラム街では見かけていない。だからカシム、マリアムの二人をアリババの母親であるアニスが自分から申し出て面倒を見るようになったのだが、今朝出ていったきりまだカシムだけ帰ってきていない。
「おにいちゃん、どこいったの…?」
アリババの小さな手をもう一回り小さな手が握ってくる。マリアムは雷が大嫌いでこういう日は片時もカシムの傍を離れず家の中で縮こまっている。しかしカシムがいない今、涙が溢れてしまいそうな大きな瞳で兄の親友を見上げるしかなく、大丈夫だよ、怖くないよとアリババも明るく努めるしかなかった。そして決心したように大きく頷いてみせて。
「母さん、カシムさがしてくるよ!」
「え!? 待ちなさい、さっきの雷を見たでしょ?もうすぐ雨も降るし危ないわ!」
「大丈夫だよ!すぐに帰ってくるから!」
「ちょっと、アリババ!」
マリアムを抱き締めながら引き留める母親の声も聞かずに、なんとか家として成り立たせているボロ布を捲り勢い任せに飛び出していった。見上げた空はどす黒く厚い雲に覆われていて、その合間を稲妻が走る。
「雨がふる前にカシム見つかるかな…?」
毎日顔を合わせている友達や顔見知りの大人に尋ねながら散々走り回っていたが、俄に降りだした雨は視界も悪くしてアリババは近くの木陰で足止めを食らっていた。
「あいつ、どこ行ったんだよ…」
纏っている布はよく風を通してどんどん小柄な体を冷やしていく。木にぴったり寄り添ってうずくまり、濡れてグチャグチャになった土を避けるように木の大きな根に乗り汚れた裸足を休ませる。この木の下は子どもたちの遊び場の一つだからカシムともよく来る。ここで待っていればカシムも来てくれるような気がして根気強く耐えていた。
どれくらい待ったかまったく分からなかったが雨は止むどころか勢いを増していた。でこぼこした根の上は不安定で幼い2つの踵を疲れさせた。まだ10にも満たないアリババは一つ年上の幼馴染みの顔を思い浮かべながらも疲労で舟を漕いでいる。そんな耳に聞き覚えのある声が聴こえてくるようで、無意識に声の主の名前を寝言のように呟く。
「カシム…カシム……」
「…!……バ……リババ……!」
少しずつ声が近づいてくる。夢と行き来していた頭がようやく覚醒すると、アリババ!と強い調子で呼び掛けられた。アリババが待ちに待った人の名前を呼んで返せば容赦なく拳骨が降ってきて、たまらず涙目になる。
「ってぇー…!」
「こんなとこで寝てるお前がいけねぇんだよ。今まで何してたんだよ…」
「か、カシムをさがしてたんだよバーカ!」
「んだとぉ…?」
子どもにしては目付きの悪い視線を向けてアリババの頬をつねる。それだけで降参したらしいアリババに眉を潜めてカシムが口を開く。
「帰ったらお前いねぇし、聞いたら俺を捜して飛び出してったっつーから逆に捜しまわってたんだよ。そしたらこんなとこで寝てるしよぉ…」
「ねっ、ねてねぇし!」
「よだれ出てるぜ。」
指を差して見下すように笑うカシムに何も言い返せなくなったアリババは手の甲で拭った唇を尖らせて悔しがる。それを見てしょうがねぇなと兄貴風を吹かせたカシムが手を引っ張り立たせる。
「ほら、とっとと帰るぞ。雨もそろそろ止むだろ。」
「ほんとだ…」
言い合っているうちにどしゃ降りだった雨は嘘のように過ぎていってしまったらしい。空も心なしか明るくなり、風に乗って雲が速く流れていくのが見えた。
「なあ、雨がふる前、デカイかみなりがおちたの見た?」
「ああ、アレな。お前とマリアムがピーピー泣いてるだろうなぁって思った。」
「俺はもう泣かねぇよ!」
「ハッ、どうだかな?」
懲りもせずまたすぐに言い合いになり、どちらともなく木陰から出て家の方へと歩き始める。
「あっ!虹だ!」
いじけていた表情はどこへいったのか、突如声をあげてはしゃいだアリババ。つられてカシムも顔を上げると、そこには滅多に見れないほどの大きな虹があった。すっかり青く澄みわたった空は泥にまみれた足下も照らしてくれるようで、見上げたままの二人はきゅっと手を結びながら顔を綻ばせる。
「母さんとマリアムも虹見てるかなぁ?」
「どうだろ…はやく帰って教えてやろうぜ。」
「そうだな!」
鮮やかな虹が消えてしまわないようにと繋いだ手を離さず4つの踵が駆け出した。
「カシム、今日も虹が出てるぜ。」
何ひとつ変わらない、きれいな虹に想う。
あの時は未来だった今、隣に居なくても、俺たちはずっとずっと一緒にいるんだ。
この空を守るために俺はたたかうよ、カシム。
20130315.