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生かすも殺すもお上手ね



 大人なら誰しも、仕事をしているかどうかに関係なく、疲れて疲れて疲れ果ててどうしようもない日というのが存在すると思う。ご飯を食べるのもお風呂に入るのも、なんなら息をするのだって面倒臭いと思うような、メンタルどん底の日が。
 そういう時に限って小さなトラブルや不幸が重なるから、通常モードの時なら気にせずスルーできることにもイライラしてしまったりして。悪循環の典型的なパターンだ。

 そして今日は、私にとってまさにそういう日だった。
 朝起きた瞬間から身体が重怠くて、熱でもあるのかと思って計ってみたけれど熱はなく。風邪の症状もないので仕方なく仕事に行く準備をしようと台所に行ったら、朝ご飯に食べようと思っていた食パンがなくなっていて、昨日食べ切ってしまっていたことを思い出した。
 昨日パンを買い忘れていた自分を呪いつつ、朝ご飯は諦めて支度を続行したけれど、化粧ノリは悪いし出勤用の服はどれを着てもイマイチだし髪はどれだけセットしても跳ねてしまうし、こうして振り返ってみれば朝の時点でかなり最悪だったと思う。
 なんとか家を出たはいいものの、普段通勤で使っているバスは今日に限ってぎゅうぎゅうで、息苦しくて堪らなかった。やっとのことで職場に着いたと思ったら同僚の女の子にストッキングが伝線していると指摘され、更に落ちていくモチベーション。
 仕事もやけに忙しく、上司に面倒な書類整理を押し付けられた上に急ぎの書類作成をしなければならない事態が発生し、朝ご飯抜きだったからお昼ご飯はもりもり食べて元気を出そうと思っていたのに、ゆっくり休憩を取ることができなかった。お陰様でお昼ご飯はコンビニで買ってきたおにぎり二つとお茶だけ。食欲旺盛な私には腹の足しにもならない。
 そんなわけで、当然定時退社などできるわけもなく、残業すること二時間少々。朝の身体の重怠さは悪化していて、今度こそ熱があるのではないかと思うほどだった。とはいえ、仕事はなんとか終わったし、長い一日だったとヘトヘトの身体を引き摺るようにして職場を後にしようと外に出たら、なんと雨が降っているではないか。
 よく思い出してみれば朝の天気予報で「夕方から夜にかけて雨が降るかもしれません。お出かけの際は傘を持って行くと安心です」とお天気お姉さんが言っていたような気がするけれど、そんなことを思い出したところで後の祭りだ。
 雨は土砂降りとまではいかないけれどザアザアと音が聞こえる程度にはしっかり降っていて、ちっとも止みそうにない。勿論、都合よく傘を貸してくれる人が現れるわけもないので、私は濡れながら帰るしかなかった。

 というわけで、踏んだり蹴ったりの連続で帰宅した私は、濡れた身体を適当にバスタオルで拭いてソファに倒れ込んでいる。もう起き上がれそうにない。それぐらい、心身共に疲れ果てていた。
 明日も仕事なんて耐えられない。このまま寝れば本格的に風邪をひいて熱が出て、明日休めるんじゃないだろうか。化粧を落とすのも面倒臭いし、お腹はすいたけれど雨のせいでコンビニに寄る気力はなかったし、何かを作る気力なんて勿論ない。カップラーメンでさえ作りたくないのだから重症だ。
 もういいや。このまま寝ちゃお。投げやりになっている私は、そのまま意識を手放してしまおうと目を瞑った。けれど、その直後、玄関の扉が開く音が聞こえて目を開けざるを得なくなる。
 そういえば私、鍵かけてなかったかも。やばい。泥棒だったらどうしよう。普段ならそんなこと有り得ないと鼻で笑うところだけれど、今日みたいに最低最悪な日なら有り得そうだから身構えてしまう。
 ソファから重たい身体を起こして、来訪者が近付いてくる足音をビクビクしながら聞く。そしてリビングに入ってきた人物の顔を見た私は、一気に全身の力が抜けるのを感じた。と同時に、再び身体をソファに沈める。

「毎回毎回鍵かけろっつっとんだろが。無用心すぎんだよ」
「泥棒かと思ったじゃん……びっくりさせないでよ」
「びっくりしたくなきゃ鍵かけとけや」
「明日から気を付けるー」
「聞き飽きたわ」

 呆れ半分キレ半分の、不機嫌さマックスの声音で苦言を呈してきた男は、私の彼氏様。何の連絡もなくふらっとやってくることが常態化しているので、突然現れても驚きはしない。
 彼は荷物を置くなり人の家の冷蔵庫を開けると、勝手にペットボトルの水を取り出しがぶがぶ飲み始めた。それ最後の水なんですけど。まあ別にいっか。
 疲れすぎていて、もはや言葉を発する元気もない。そんな抜け殻状態の私に近付いてきた彼は、ぎょっとした顔を見せた後、みるみるうちに眉を顰めた。

「濡れてんじゃねーか」
「うん。傘なくて」
「濡れたまま寝んな」
「言うと思ったー。でも無理。私のライフゼロだもん。もう一ミリも動けない」

 ぐでーっと。それはもう幻滅されても仕方がないと諦めてしまうほどに。私は随分とだらしない格好で彼を見上げた。
 大抵の男はここで愛想を尽かし、私を見捨てると思う。めちゃくちゃ優しい男ならあるいは「お風呂に入りなよ」と身体を起こしてくれるかもしれないけれど、彼は「大抵の男」に当て嵌まらないし「めちゃくちゃ優しい男」でもないので、そのどちらの行動も取らなかった。
 はあ、と一つ溜息を吐き台所に行ったかと思ったらがちゃがちゃと物音が聞こえ始め、その後でトントントンとまな板を叩く包丁の音。続いてぐつぐつ何かを煮込む音と良い香り。そしてソファの前のテーブルに置かれたのは、湯気を立てているお粥だった。

「食え」
「なんでお粥?」
「体調悪ィんだろ」
「よく分かったね。でも熱はないよ」
「顔が死んでンぞ」
「言い方」
「つべこべ言ってねーで起きて食え」
「起こして?」

 抱っこをねだる子どものように、彼へ向けて両手を広げる。すると、眉間に皺を寄せ「冷てェ……」とぼやきながらもきちんと引っ張ってくれるのだから、彼は私に甘いと思う。
 そんな甘さに漬け込んで欲を出してしまったのは、私がかなり弱っている証拠だ。そしてそれを察した彼は、私が濡れていることも厭わずに願いをすんなりと聞き入れてくれる。世間の皆様にはあまり共感してもらえないかもしれないけれど、彼は私にとってとびっきりのいい男だ。

「ぎゅーして」
「……ん」
「違う違う、今のはぎゅっ、の方。ぎゅーがいいの」
「我儘かよ」

 ぶつくさ言いながらもきちんと「ぎゅー」をしてくれる彼は温かい。雨で濡れた身体がポカポカと温かくなっていく。
 最初は私の求める「ぎゅー」と「ぎゅっ」の違いが分からず「日本語喋れや!」とイラつく彼とよく小さな喧嘩をしたものだけれど、今となってはくだらない争いだったなあと笑ってしまう。そう思えるのも、彼がきちんと私の要望に応えてくれるようになったからだ。
 彼と付き合い始めてから気付いた。私はかなり我儘だ、って。それなりに大人だから我慢しなければならない時は我慢することも勿論できる。けれど、我慢しなくても良い相手だと分かってしまったら、どこまでも我儘になってしまう。そして彼はそんな私を許してくれる逸材なのだ。

「お粥食べる分のライフは回復した」
「食ったら風呂入る分も回復すんだろ」
「勝己くんが洗ってくれるならギリギリ?」
「湯ためんぞ」
「わーい!」

 本当は彼の「ぎゅー」でとっくにお風呂に入る分のライフも回復しているけれど、我儘な私はここぞとばかりに甘えまくる。そして彼はそれに気付いていて、振り回されてくれているのだと思う。
 お風呂のお湯を準備しに行って戻ってきた彼は、熱いお粥をふうふうと冷ましながら食べている私の隣に腰をおろした。そういえば彼は何も食べないのだろうか。

「お粥いる?」
「いらねェ」
「夜ご飯は?」
「外で食ってきた」
「なんで今日うちに来たの?」
「理由がいンのかよ」
「そこは嘘でも、お前に会いたくなったから、って言ってほしかった〜!」

 彼がそんなことを言うキャラじゃないと分かっていて揶揄い混じりに言ってみれば、これでもかと顔を顰められた。なんなら睨まれている。けれど、私はちっとも怯まずにお粥を食べ進める。美味しい。勝己くん味付け上手だなあ。今度作り方教えてもらおう。自分で作るかは分かんないけど。
 そんなどうでもいいことを考えながら、ぱくりぱくりとお粥を口に運び続けていたら、隣からボソボソと声が聞こえた。彼は基本的に何でもハッキリと言うタイプだから、聞き取れないようなボリュームで発言するのはかなり珍しい。

「何? どしたの?」
「なんでもねェわ!」
「えっ、なんで急にキレるの。今までいい感じだったのに」
「早よ食えや!」
「なんかすごい理不尽。食べるけど」

 私の情緒が安定したと思ったら、今度は彼の情緒が不安定になった。まあ元々彼は起伏が激しいタイプだから、こういうことは日常茶飯事だけれど。
 ぱくぱく。お粥を全てたいらげた私は「ご馳走様でした」と手を合わせる。お腹がポカポカ。これから身体もポカポカになる予定。彼が来てくれなかったらこんなに温まることはなかっただろう。爆豪勝己様々だ。

「今日ほんと疲れたあ……」
「明日も仕事だろ」
「うん。勝己くんは? 泊まってくの?」
「休み。泊まる」
「えーずるい。私も休みたい」
「ふざけんな」
「大真面目なんだけど」
「仕事は行け」
「言われなくても行きますぅ」
「朝飯作ってやるから」
「え! やった! 勝己くんのご飯好き!」
「好きなのは飯だけかよ」
「え?」
「あ?」

 テンポよく交わしていた会話が、そこで途切れる。思わずお互い顔を見合わせて固まること十秒弱。自分の言ったことを反芻して漸く理解したらしい彼が、先に目を逸らして立ち上がった。
 そうだよね。気付いたら恥ずかしくなっちゃうよね。だって「好きなのは飯だけかよ」って「俺自身のことはどうなんだよ」って意味が含まれてるんでしょ? そういうところ、ちょっと、いや、だいぶ可愛いよね。
 こちらに背中を向けて「風呂!」と私を呼ぶ彼に背後から飛び付く。今日は朝から最低最悪な日だと思ってたけど、全然そんなことなかったよ。終わり良ければ全て良し、とはよく言ったもので、今の私は最高の気分だ。

「ちゃんと勝己くんのこと好きだよ」
「ンなもん知っとるわ」
「言ってほしかったくせにー!」
「なまえ」
「なーに?」
「ちったァ生き返ったかよ」
「……ありがと」

 彼の腰に回している腕に、少し力を込める。冷え切っていた心臓に、熱が戻っていくのが分かった。
 でも、困ったなあ。くるり、身体を反転させて正面から彼に抱き締められたら、さっきの「ぎゅー」とも「ぎゅっ」とも違う力が心地良くて、なんだかこのまま死んじゃいそうだ。