「この関係の名前は」
もう二度と会うことはないと思っていた。会ったとしても、お互い見て見ぬフリ、知らない人のフリをするものだと思っていた。しかし、彼はそうしなかった。
彼との一件があってから一週間ほどが経ったある日の昼過ぎ。私は仕事の昼休憩中だったので、テイクアウトにして職場で食べようと思いファストフード店の列に並んでいた。ハンバーガーは嫌いじゃないけれど好きでもない。安さと、出来上がりの早さ重視で選んだ。
そんな浮ついた適当な決め方をしたから罰が当たったのかもしれない。「あ!」という声がして振り向けば、そこには忘れるはずもない金髪に稲妻型の黒メッシュの彼がいた。
フリーズしてしまった私はその場で固まり、図らずも彼と数秒間見つめ合う形になる。けれどもその数秒の間に脳が機能し始めてくれたお陰で、私は逃げるという行動を取ることができた。
走って走って、大人になってからこんなに走ったことはないんじゃないかと思うほど全速力で走った。しかし、そこは男女の体力差。彼はプロヒーローであり、私はただの事務員。逃げ出してからものの数分で手首を掴まれて、私はあっさり捕まってしまった。しかも、息も絶え絶えな私とは違って、彼はほんの少し息を吐いただけでちっとも呼吸が乱れていない。これならいっそ逃げない方が良かったかもしれないと思ったけれど、後の祭りだ。
ていうか、なんで追いかけて来るわけ? あの日限りの関係だったはずでしょ? 他に何か用があるの?
混乱する頭でまず最初の疑問「どうして追いかけてきたのか」という質問をぶつければ、彼は信じられないことに「逃げられたからつい」などとふざけた返答をしてきた。私は呆れてしまう。そんな狩猟本能みたいな理由で追いかけられたのかと思うと色々と難しいことを考えていた自分が馬鹿みたいで、それ以上のことを尋ねる気が失せてしまった。
その上、どうやら彼の方は気まずさというものを感じていないようで、あろうことか私の連絡先を訊いてきたではないか。一体どういう神経をしているのだろう。あの日のことを覚えていないとか? いや、まさかそんなことはない…と思いたい。
「私の連絡先なんか知ってどうするの」
「え。どうするって…連絡するよ」
「どうして」
「なまえちゃん、さっきからめっちゃ質問ばっかしてくるじゃん」
「だって意味分かんないし」
「何が?」
私はまたもや呆気にとられた。「何が?」って。答えるとすれば「何もかも全部」だ。ここで再会してしまった意味も、彼が私を追いかけてきた意味も、連絡先を尋ねられた意味も、何もかも分からない。
彼は私が連絡先を教えるのを渋っていると分かっているはずなのに自分の携帯を取り出していて、こちらの出方を窺っている。したたかなのか、ただ何も考えておらずチャラいだけなのか。私の見立てでいくと彼は間違いなく後者だ。よく考えてみれば、馴れ馴れしく私の名前を呼んできた時点で、彼のチャラさは滲み出てきていると言っても過言ではない。
「仕事の休憩中だからもう行かなきゃ」
「え、ちょ、連絡先だけ交換してから行って!」
「私にこだわる必要ないでしょ」
「なまえちゃんじゃないとダメなんだって!」
私じゃないとダメ。その言葉に、不覚にも動きを止めてしまう。
元々、ちょっといいなと思っていた相手だ。だからあの日、身体を許してしまった。そんな人に、お前じゃないとダメだ、なんて言われてしまったら、そりゃあ心が揺らぐのも無理はない。それがたとえ、女を引っ掛けるための常套句だったとしても。
時間は刻一刻と過ぎていく。お昼ご飯を食べる時間はもうないかもしれない。けれども、そんなことはどうでも良かった。どうせ胸がいっぱいで何も食べられそうにないから。
「……分かった」
「うぇ!? マジで?」
「そっちが教えてってしつこく言ってきたくせにそういう反応するの?」
「いや、めっちゃ嫌そうだったからもうダメかと思って…」
「じゃあやっぱり教えない」
「それはひどくね?」
私は意外とチョロい女だ。なんだかんだで彼の軽い言葉に惑わされて、大切な個人情報を教えてしまった。でもまあ、こういうのは教えたからって連絡してくるとは限らないし。何も期待してはいけない。
私はそれから彼と別れ、コンビニでサンドイッチだけを買って職場に戻った。けれどもやっぱり予想通り、胸がいっぱいで食べられなくて捨てるハメになってしまった。勿体ない。
連絡なんてくるわけない。そう思っていたのに、彼は予想を遥かに上回る早さで私に連絡を寄越してきた。なんと彼からの連絡がきたのは、連絡先を交換した当日の夜である。さすがチャラい男は行動力が違う。私みたいな、所詮キープ程度であろう女にも即座に連絡をしてきてくれるなんてマメだなあと、感心すらしてしまう。
彼からのメッセージの内容は「暇な日一緒にどっか行かない?」という、まるで「高校生か?」と突っ込みたくなるような軽さだった。暇な日にわざわざ私と会う理由は何だろう。私は改めて自分と彼との関係について振り返ってみる。
合コンで出会った。お互いのことをそこまで知りもしないのに出会った即日ホテルに入った。そして身体を重ねた。朝まで一緒に寝た。再会して連絡先を交換した。これらの行動から導き出される関係性とは。絶望的なことに、私が見出せる答えは一つしかなかった。
彼はきっと、私をセフレとして認識している。私じゃなきゃダメだ、という発言はやっぱり少々気になるけれど、もしかしたら身体の相性が良いとか、そういう理由かもしれない。私も気持ち良かったし…なんてあの日のことを思い出してふわふわしかけていた私は首を横に振る。今は過去の思い出に浸っている場合ではない。
さて、もし仮にそうだとしたら、この「暇な日一緒にどっか行かない?」という言葉の裏には「軽くご飯でも食べた後にセックスしない?」という意味を孕んでいるということになるのだろう。無邪気な笑顔からは想像もできない腹黒い思考である。しかし、彼は男だ。溜まったものを吐き出したいと思うのは生理的に仕方のないことなのかもしれない。
顔はタイプだ。性格もたぶん悪くない。ちょっとヌけてそうではあるけれど、一応はプロヒーローなわけだからここぞという時にはカッコいい一面もあるに違いない。考察してみれば、私にとっては結構な優良物件。そんな彼の相手ができるなら、たとえセフレでも良いんじゃないだろうか。
彼氏がいない期間が長すぎて、私の思考回路はきっとおかしくなってしまったのだろう。けれども、あの日の胸のときめきはどうしても忘れることができなくて、私は思い切って彼の誘いに乗ってみることにした。
数回のやり取りの末、決まった日時は来週の土曜日、午前十一時。約1週間後。私はまた、彼に会う。セフレなのに午前中から会うのか、と彼の妙な律儀さにまた感心させられた。プロヒーローともなれば忙しいはずなのに、私の仕事の休みの日に予定を合わせてくれたというのも好印象だ。なんか、良い人っぽい。彼のことを考えれば考えるほど惹かれてしまう。まだたった二回しか会ったことがないというのに。
土曜日、どんな服を着て行こう。脱がせやすい服の方が良いのかな。どうせ最終的にはそういう方向になるんだろうし。でもあんまり露出しすぎると、逆に下品でそそられないかな。どうせなら可愛いと思ってもらいたいな。気付けばデートを楽しみにしている女子高校生みたいな思考に陥っている自分に気付いてしまって恥ずかしくなった。
デートじゃない。だって私達は恋人じゃないんだし。浮かれちゃダメだ。何度そう言い聞かせても、全身鏡の前で服を選ぶ私は、デートを心待ちにしている女の子になっていた。
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